No.50:校長室にて


「特別推薦枠の話は無かったことにしてほしい、じゃと?」


 校長先生は、胡乱げにそう言った。


 それがいつだったか、正確な日付は忘れてしまった。

 でもバレンタインデーとすみかさんの誕生日の間だったことだけは覚えている。

 僕は校長室を訪ね、校長先生に直訴していた。


「はい。勝手言ってすいません」


「何故じゃ?」


「実は……その代わりに、個人的なお願いがあるんです。なんとか聞いていただけませんか?」


「……お願い?」


「はい。英語の安西先生、ご出産のため退職されますよね?」


「うむ」


「その後任の先生って、決まっているんでしょうか?」


「……何故じゃ?」


「厚かましいお願いで、本当に申し訳ないと思ってます。ですが……是非面接をしていただきたい人がいるんです」


「……ほう」


「その人は早慶大卒で、英語の教員免許を持っています。大学時代に交換留学制度で、1年間アメリカに留学した経験もあるんです」


 僕はまだ子供だ。

 なにもできないし、なんの力もない。

 そんなことは、わかってる。


「僕も試験前に、彼女に勉強を教えてもらいました。僕個人のレベルを瞬時に把握して、僕のレベルに合わせたレクチャーをしてくれたんです」


 でも僕はすみかさんと出会って。

 すみかさんの夢を知って。

 この人の夢を叶えたいと思った。

 叶ったところを見てみたいと思った。


「物凄くわかりやすくて、関連範囲も的確に教えてくれて。おかげで僕はテストで英語の点数だけ跳ね上がったんです」


 そのためだったら。

 自分なんか、どうなったっていい。

 本気でそう思えた。

 そんな出会いがあったなんて。

 それだけで奇跡じゃないか。


「彼女の教育に対する熱意と情熱は、僕にでさえ伝わってきます。少なくとも僕は、そんな先生に過去に出会ったことがありません」


 だから僕は、自分が信じたことをやるだけだ。

 きっとそれは、無駄じゃない。

 間違ったことじゃない。

 すみかさんが、後でそれを証明してくれるはずだ。


「絶対にこの学校にとって、将来有益な人材になります。だからどうか、検討していただけませんか?」


 父さんと母さんはどう思うだろうか。

 バカだなって、怒るだろうか。

 翔らしいなって、笑うだろうか。

 愛莉は……まだ分からないだろうな。


「是非一度会ってみて下さい! 会っていただければ、絶対に彼女が良い教育者だってわかりますから! お願いします!」


 気がつくと、僕は立ち上がり腰を直角に折り曲げて、頭を下げていた。

 誰かのためにこんなに頭を下げて、何かをお願いするのは初めてだ。


「まあ待て。落ち着きなさい、瀬戸川君」


「あ、はい……すいません」


「とりあえず座りなさい」


 僕はソファーの上に座りなおした。


「ふぅ……で、そのお嬢さんは、教員実績はあるのかね?」


「……いえ、ありません。新卒で内定をもらっていた予備校が不祥事を起こして、内定を取り消されたそうです。今は就職浪人中です」


 ここは正直に言うしかない。


「ああ、あの予備校か。それは気の毒じゃったの」


 校長先生は、ソファーの背もたれにゆっくりと倒れた。


「うーむ……基本的に我が校は、新卒採用はしないんじゃがのう。私学の高校は、大概そうなんじゃぞ」


「そこをなんとか、お願いできませんか? 会っていただければ」


「わかったわかった。落ち着かんかい」


 校長先生はふぅーっと大きなため息をついた。


「瀬戸川君。そのお嬢さんは……お前さんにとって、大切な存在なんじゃな?」


「はい。僕の……恩人です。僕を過去の自分から、解放してくれました。それにうちの学校の他の先生方と比べても、教員としての能力も熱意も引けをとらないと確信しています」


 僕は一気にまくし立てた。

 校長先生はふたたび大きなため息をつきながら腕を組み、ゆっくりと背もたれに体を預けた。


「まったく……親子じゃな。そういう純粋で真っ直ぐなところは、お前さんの父親そっくりじゃ」


 僕は驚きで、校長先生の言葉が一瞬理解できなかった。


「父さん……父親をご存知なんですか?」


 僕は絞り出すように声を出した。


「知っとるも何も……瀬戸川大輝、君のお父さんはワシの教え子じゃ」

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