クレイフィザ・スタイル ―ヴァネッサ―
一枝 唯
第1話 オセロ街
タンタンタンタン。
左、右、左、右。
タン、タン、タン、タン。
左、右、左。
必死で動かす足は、一歩走るごとに重くなっていった。
汗がにじむ。息が荒くなる。
だが、彼はとまる訳にはいかなかった。一秒でも早く、一メートルでも遠く。
逃げなければ。
どこへ。判らない。行く当てなどない。それでも、逃げなければ。
足は、どんどん重みを増した。膝が笑う。腕も震える。
だが、両腕に抱えたこの宝だけは、たとえ何があろうと――。
がくり、と彼の膝が折れた。彼は宝を抱きかかえ、どうにか身を回転させて背中から倒れた。
「つ……」
いくらか擦れたようだった。打ちつけもした。あざができるだろう。しかしどうでもいい。そんなことは。
宝さえ、無事ならば。
彼はそれから、また走り出そうとした。
身体は彼の言うことを聞かなかった。
立ち上がることすらできず、彼は路地裏の壁に背中を預け、宝を抱いて座り込むしかなかった。
「くそ……」
呟く声もかすれる。乱れた茶色い髪はやわらかく、雨と汗とでぺたっとしていた。鳶色の瞳は落ちくぼんだようになっており、銀色の街灯の下で疲労を際立たせた。
年の頃は、十代の後半。二十歳にはまだ届かぬようだった。
逃げ場を求める濡れネズミは、懸命に息を調えながら、小さくなれば誰にも見つからないとでも言うように、身を縮めていた。
「――何してんだ、そんなところで」
不意に投げられた声に、彼はびくっとなった。
見れば、ほぼ真向かいの扉が開いて、出てきた誰かが彼を見ていた。
「くそ……」
彼は立とうとした。宝を抱えて。
「もしかして、お前らか。あいつらがさっきから大騒ぎして追いかけてるのは」
男の言葉に、彼は焦った。
もし、居場所をばらされたら。
逃げなくては。
「ああ、無茶はよすんだ。ふらふらじゃないか。せめて雨がやむまで、この店で休んでいけよ」
「何……」
「警戒しなくていい。あいつらは二十五街区を縄張りにしたつもりかもしれないが、このオセロ街まで奴らの言いなりだと思ったら大間違いだからな」
「オセロ、街?」
彼は不審に思った。
「この辺は、ジャンク街と呼ばれていると、聞いてる」
「ああ、呼ばれているとも。どんなアルファ都市にあるごみ溜めさ。ただ、この一角はそう言うんだ。誰が言ったか知らないが」
男は肩をすくめた。
「違う色に挟まれてひっくり返されちまった連中の溜まり場って訳だ。うちの店はそのなかでも細々とやっててね。マフィアどもから逃げ隠るなんてシチュエーションにはぴったりだ」
さあ、と男は促した。
「こっちにきな。くず野菜のスープくらいなら、ただで出してやる。……何だ、動けないのか」
「俺……」
彼は躊躇った。
「仕方ない、手を貸してやるよ。――さっきからぴくりとも動かないようだが、生きてるんだろうな? その子」
尋ねられて、彼は迷った。
生きて、いるのだろうか。彼の宝は。
「ああ」
それから彼はうなずいた。
「生きて、いる」
彼は少女の形をした宝を強く抱き締めた。
「そうか」
答えまでの
力の抜けそうな腕で、それでも宝を抱きながら、彼は案内された席に座り、宝を隣に座らせた。
そこは照明の暗い、狭いバーだった。暗いのは雰囲気を演出するためと言うよりも薄汚れた店内を隠すためか、はたまた単純に、電灯が切れているためであった。
彼は先ほどのバーテンダーが渡してくれたタオルでまず宝を拭いた。それから自分を。タオルはすっかり水気を含み、最後の方はあまり役に立たなかった。
彼は宝を愛おしむように撫でた。いや、間違いなく彼はそれを愛おしんでいた。
バーテンダーは黙って、約束通り、具のほとんどないスープをくれた。いまの彼にはとても有難く、彼は礼を言って温まった。
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