第9話 肉食禁止法

 ◇水車9


 深夜さんが店に来なくなった。

 長い旅に出ると言っていたが、どこに行ったのだろう。彼女はよくリュックサックをかついで来店していた。本格的な登山の帰りのような姿で。

 今どき男でも山に入る人は少ない。ふしぎな人だ。

 彼女のことをあまりにも知らない。

 もしかしたら、遠回しにふられたのかな。ふられたというほどの仲にすらなっていないけれど・・・。

 僕はしばらく落ち込んでいた。

 深夜さんのことで悩みすぎないようにしようと思って、仕事に打ち込んだ。

 定休日には新しい野菜料理を研究し、風鈴に試食してもらったりした。妹はいつも美味しそうに僕の料理を食べてくれた。

「美味しい! お兄ちゃんをお嫁さんにしたい」とか言った。アホな妹だ。

 9月に入った。キノコのシーズンが始まる。

 僕は天然のキノコを食材に使いたいと思っていた。伊藤さんがキノコ採りの名人と言われる人を知っているというので紹介してもらい、休みの日にいっしょに山へ入って、キノコ採りを習った。名人の名は浦沢岳さん。きさくなおじいちゃんだ。

 カタツムリから狩猟を禁止され、山では野生動物が激増している。高尾山近辺でもよく見かける。昼間から動物が見られるのは、カタツムリ来訪以前にはあまりなかったことらしい。

 浦沢さんが、熊を見たら目をそらさずにあとずさって逃げろ、イノシシを見たら脱兎のごとく逃げろ、と教えてくれた。僕たちはよく逃げた。

 山に行くと、深夜さんのことを思い出してしまう。彼女はこんな原始的な山の中へひとりで分け入っているのだろうか。

 彼女のことを考えると胸が疼く。


 ◇深夜9


 私は旅になど出てはいなかった。

 バイトをする以外の時間は、むしろ自宅に閉じこもっていた。

 スーパーマーケットで米と野菜を買い、つまらない食事を続けていた。みずぐるまのマスターのような料理ができないかと思って挑戦してみたこともあったが、私には無理だった。天ぷらを揚げてみても、なんだかちがう。彼にある料理のセンスのようなものが、私にはなかった。

 みずぐるまに行きたい。すごく行きたい。

 でも私はその欲望を封印した。

 あそこに行くとカタツムリに出会うかもしれない。何かの拍子にカタツムリの触手が私に触れ、肉食したことがばれてしまうかもしれない。そうなったら身の破滅だ。

 けれどもそんなわかりやすい破局が起こる前に、すでに私の精神は破滅しかかっていた。

 美味しい料理が食べたい。血のしたたるようなステーキが欲しい。豚骨で出汁を取ったラーメンをすすりたい。シロギスの天ぷらをサクッとかじりたい。死ぬほど焼き肉が食べたい。そんなことばかり考えている。

 気が狂いそうだった。

 肉のことを夢にまで見る。私は山にいて、罠を仕掛けて鹿を捕らえ、解体して火にかけている。さぁ食べようというときになって目が覚める。

 はぁ、とため息が出る。

 このまま肉を絶ったまま生きていかなくてはならないのだろうか。

 みんなはどうしてこんな食生活で我慢しているのだろう。

 私には無理だ。こんなの死んでいるようなものだ。

 やっぱり山へ行こう、と悲愴な決意をした。

 誰にも見つからないような深い山に入って、肉を食べる・・・。

 私はリュックに罠やナイフや渓流竿を隠し、塩胡椒やコッヘルなどを詰め込んだ。

 10月のよく晴れた日、私は久しぶりに山へ向かった。京王線高尾山口駅で下車する。

 駅のそばにはみずぐるまがある。すごく立ち寄りたかったが、万が一この姿をカタツムリに見とがめられ、罠が見つかったりしたらたいへんだ。

 みずぐるまの前は素通りした。ちらっとマスターの姿が見え、胸騒ぎがしたが、私はその気持ちを押し殺した。

 高尾山から奥高尾へ、さらにその先の山へと分け入る。熊と出くわし、ひやりとしたりもした。1日めは猟はせず、ひたすら深山へと進み、夕方、テントを張った。

 翌日、箱罠を仕掛け、ウサギを捕らえた。ナイフで捌き、塩胡椒を振って、焼いて食べた。

 美味しかった。野菜ではけっして味わえない肉と脂の旨味! 私は夢中になって食べた。

 もうカタツムリにつかまったってかまわないとすら思った。やめられない。

 そうして、歓喜の絶頂にいたとき、私は破局を迎えた。

 ウサギを食べていたそのときに、3人の警官に取り囲まれたのだ。

「肉食禁止法の現行犯で逮捕する」

 私は手錠を嵌められた。

「加賀源太から、肉を食う女がいるという情報は聞き出していた。おまえはマークされていたんだ、野村深夜」

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