それぞれの憂鬱(5)

 完璧ではなくとも事前の調査は入念にしたはずだった。

 ここは特に見張りも置かれない倉庫区画。だから滅多に人が立ち入る場所ではない。少なくとも宮殿騎士なんか無縁のはず。

 ……なのにどうして。目の前に立っている人物を目に映しながらルマは動揺を隠せなかった。薄明かりの中でも目を引く綺麗な顔立ち。背丈や肩幅からして間違いなく男性なのだろうが、纏う雰囲気はどこか曖昧な、言うなれば中性的なそれだ。

 しかしそれよりもルマの目に止まったのは、胸元に付けているブローチだった。その色は重厚な輝きを放つ金茶。宮殿騎士、王族を守護する者の証。

 しかしルマにとっては「御身の安全」を理由に、宮殿という名の鳥かごに縛り付ける手助けをしている者達。つまり目の前にいるのは自由を阻む敵である。

 早速命令を遂行すべく、即ち「城を抜け出そうとした王女を捕まえるために」、相手が距離を縮めてくる。

 いつも公務(といっても父の後ろにくっついていくだけとか、貴族の前で愛想笑いしているだけだが)の際について来る屈強な騎士たちと比べると、華奢だが厳しい試験を潜り抜けた選ばれし騎士だ。油断は禁物である。捕まったが最後。きっと逃れる術はない。

「ああ……えっと……申し訳ありま」

 相手の呼びかけを最後まで聞くことなく、ルマはくるりと素早く回れ右をする。この状況において選べる道はただ一つ。逆方向に逃げるのみだ。しかし焦る余りに力みすぎてしまったのか、急激な動きに小柄な体は対応しきれなかった。足がもつれ、あれよあれよと言う間に前のめりになる。

 そのまま硬い石の床に叩きつけられる、そう思ったが体は宙に留まったままだった。ふう、と深くついた息の音が耳に届く。転んだ拍子に大きくなった鼓動は、未だ緩急著しい波を打ち続けている。

「すみません。ゆっくり後ろに力を入れてもらえるか、それかしゃがんでもらえるか、出来ますか?」

 男性としてはやや高めの、穏やかな声。下腹辺りに感じる軽い圧迫感と、温かさで件の騎士に支えられていることを理解する。同時に、捕まってしまったと思うや否や、逃れようともがくルマ。

「え?! いや大丈夫ですから! ゆっくり……」

 制止も聞かず抗い続けていくうちに、ルマの足が相手のどこかしらを蹴り上げ、その拍子に拘束が解ける。しかし勢い余って、今度は仰向けに体が傾ぐ。これならば素直に助けられた方がマシだった。後悔しても既に遅く、なす術のないルマはぎゅっと目をつぶるのみだった。

 直後重く、鈍い感触が後頭部を襲ったが、硬い床の感触とは違った。軽い痺れが残るものの、痛みが思いのほか、早く引いていくのを感じながら、ルマはゆっくりと目を開く。最初に見えたのは、件の騎士の苦悶の表情だった。

 いくら「敵」と認識していたからとはいえ、苦しむ姿を黙って見送り逃げてしまう程、ルマは非情な心の持ち主ではない。むしろ心を傷めているくらいである。それが自分のせいとあればなおさらだった。

「ご……ごめん! わざとじゃなくて、私……」

 多少気が動転しているせいでまくし立てる様に言葉を紡ぐルマの耳に、

「……え、あ……構わないです、けど」

 落ち着いた……だが明らかに傷みに耐えようとしている相手の声が届く。

「だ……大丈夫じゃないわよ! 絶対に腕傷めてるでしょ!」

「いやそれは確かにそうなのですけれども……あのですね」

「いやもなにもない! 私後味が悪いのが一番嫌なのよ!」

 叫んだ言葉に、ルマはなんとも言えぬ不安感を覚えた。その元凶たるものがおぼろげながら現れ始め、負の感情が浮かんでくる前に、

「お心遣いはありがたいのですが……取りあえず頭を降ろして頂いてもよろしかったでしょうか……?」

 相手の穏やかな声が緩和するが如くに、不思議と落ち着きを取り戻していく。もっとも指摘された状況を認識したところで、我に返る事になるのだけれども。

 あわてて相手の腕の中から抜け出すルマ。ついさっきあれほど逃げようと思っていたのが嘘であったかのように、ルマは腕を摩りながら体勢を整えている相手の姿をじっと見つめていた。

 抜け出したい、と心から願ってはいたものの、王族として自覚ない行動をしていることへの罪悪感が全くない訳じゃない。騎士にとって大切な腕を下敷きにしてしまったことへの謝罪もある。しかし、何よりもルマをその場に留まらせたのはその騎士への興味だった。

 何が作用していたのかは解らない。しかし、敢えて人との繋がりを押さえ込んでいるルマの心を自然と向けてしまうほどの力がそこにはあった。まるで運命の導きであるかのように。

 事実、今この出会いは運命だったのであり、ここをきっかけとして長き時に渡る強い絆が築かれる事になるのだが、そんな事は思うはずもなく、ルマはただただ黙って相手の反応を待ち続けるのみだった。




*      *      *



 剣士たるものの、利き腕を護るのは主君を護るに値するほど当たり前の事だ。

 ありとあらゆる場面において徹底的に言われ、体にすっかりと染み込んでいる言葉。だが、自覚はしていても有事の時にとっさに出来るものなのやら。正直そう思っていたのだが、案外反応出来るものなのだな。まあ、有事、とまではいかない状況だけれども。利き腕ではない右腕を摩りながらエルラドは思った。実際は天性が大きく作用していたりするのだが、まるで自覚のないエルラドは次起こったらどうなるか保証は出来ない、と危惧しつつ、ほっと胸を撫で下ろした。

 片膝立てる格好で体勢を整えたエルラドの目に、件の少女の姿が映る。まだ幼いとは言え、相手は女性である。多少相手が暴れたとは言え、手荒なことをしたのか、と問われればそうだ、といわれるくらいの事はしてしまった気がする。やにわに立ち上がり、ゆっくりと少女に手を差し伸べた。

「驚かせてしまって申し訳ありませんでした。お怪我はありませんでしたか?」

 訓練中にこっそり彼の姿を覗き見する女性の一人であれば、頬を赤らめ、戸惑いながらも微笑みながら手を取ったことだろう。しかし、その少女は手を出しかけたものの、はっと目を瞠り、怒っているような、どこか悲しげにも見えるような、複雑な表情を見せて手をさっと、引っ込めた。

「大丈夫よ。一人で立てるから」

 そう告げる顔は笑んでいた。一体さっきの表情は何だったのだろう。エルラドが疑問を抱くより早く、少女が口を開く。

「むしろ、貴方は大丈夫? 騎士さん。腕傷めたら、剣振るの大変よね?」

 今度は心配そうに覗き込んでくる。それを見て、エルラドは右腕を押さえていた手を放してみせた。

「少々しびれは残っていますが、利き腕ではないですから支障はありません」

「そう。なら良かった」

 また、笑み。落ち着いてみれば表情豊かな少女なのかな。思いながら、改めて少女の姿を捉える。先刻認識した赤銅色の髪は無論見事の一言だが、匹敵するほど、否、それ以上に目を惹いたのはぱっちりと見開かれた双眸に宿る色だった。それは蝋燭の光の下にあっても、水晶のようにつややかに映える紫の瞳。

 王家の血筋以外は自由に近く、東の海岸線以外の近隣諸国からの移住に対しても開放的だった結果、エルフェリアは王国と名のつく大国にしては珍しく、多種多様な色の髪や瞳などを持つ人間が存在する。(たいていはその国を象徴する色を持っているものだ)

 しかしその中にあって、紫の瞳はかなり珍しいものだ。というよりも見るのは十八年生きてきて、おそらくは初めて。ただ珍しい、というだけなら該当する色はあるけれども、重要なのは紫だ、ということだ。

 宮殿の頂にある天馬。その天馬が見つめる先には天馬と対になって、中央広場に君臨する女神像がある。その瞳に嵌め込まれているのが、エルフェリアでは希少価値の高い、紫水晶だ。つまりは紫の瞳は、女神の瞳。病弱で早くに亡くなってしまったので直接対面した事はなかったが、故王妃も「女神の瞳」の持ち主ゆえに選ばれたらしい。と噂されたとかそうじゃないとか。その王妃の忘れ形見である王女も、その見事な色を受け継いでいるとのもっぱらの噂である。

 ちょっと、待て。エルラドははた、と思考を止め、軽く頭を振る。

「どうかしたの?」

 不審に思ったのか、少女が首を傾げている。

「すみません、少々考え事を」

「? ふうん」

 きょとん、としている少女を改めてみる。

 髪は無造作に束ねられているし、身なりも質素さを装っているけれども、よくよく見れば髪をまとめているリボンは柔らかそうな絹製であるし、服も綿や麻ではあるものの、その仕事は熟練さが伺える。エルラド自身、名門の貴族の出身であるからこそ、その違いは改めて確認した今ならはっきりと解る。

 こんな所にいるのだから、女中かなんかの娘が宮殿内を探検でもして迷い込んだのだろうと勝手に思っていた。しかしそれはとんでもない勘違いだったのかも知れない。ちょっとした人違い、というレベルではない。

 今、目の前にいる少女は。否、このお方は……。ただの年下の少女として話しかけていたのが嘘であるかのように、とてつもない緊張感がエルラドを襲った。先刻団長の前でも、体験したことのない圧力を覚えたものだが、まさか間を空けずに別の事で似たような感覚を味わうことになろうとは。本当に今日はなんという日なのだろう。

 エルラドは確認の意味も込めて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「……ルマ殿下」

 エルラドの心境など、知る由もなく。

「なに?」

 少女、エルフェリア王国の第一王女にして、世継ぎの姫君、ルマ=ランティ=エルフェリアはただきょとんとエルラドを見上げるのみだった。



*      *      *



 ただ名前を呼ばれたから返事をしたまでのルマだったが、どうにも変だと感付くのにはそう時間は掛からなかった。

 どうにもこの騎士からは無事王族を保護した、と手柄を立てんとする気迫というものが全く感じられない。とは言え、そう見せておいて油断したところを狙うのが戦法であるのかも知れない。警戒はしつつ、ルマはどこか神妙な面持ちになりつつある相手をじっと見つめる。

「貴方……ウォールに命令されて、私を探しに来た騎士じゃないの?」

 軽く目を瞠り、手で否定の意を示す相手。

「国王陛下の従者様から……ですか? あ、やっぱり……。 いいえ、私はただ迷ってたまたまここにいるだけです」

 必死に弁明しようとしているようだが、ルマは相手がそっと呟いたつもりの言葉を聞き逃さなかった。

「……やっぱり?」

 ルマの一言に、非常に解りやすく相手は口を噤む。改めて思えば、どこか伺うように呼ばれた名前、気まずそうな表情、王の従者の名を出した後の「やっぱり」……答えが見えつつも、ルマは驚きを禁じえない。

 改めて胸元のブローチを見る。世継ぎたる者として数十もの守護者の紋章を見させられたのだ。だからこの騎士章は紛れもない本物であるし、この相手も本物の騎士だ。だから在り得ない。思いつつ、ルマは口を開く。

「まさかとは思うんだけど……貴方、私の事を解ってなかった、とは言わないわよね?」

 ルマの言葉に相手は軽く目を背ける。それが答えのようなものだった。

 しかし答えよりもルマはその騎士としてはあるまじきほどの馬鹿正直ぶりに衝撃を受けていた。

「それは質問の答えになっていないわ」

 言うと、さっと向き直る。

「……いちいち正直ね」

 怒りではなく、あきれ交じりのルマの言葉に相手は気まずそうに頭を掻いた。

「申し訳ありません」

 いや、まだ質問に答えて貰えてないんだけど、とは言えなかった。でもここまでくればわざわざ問い詰めなくても、「主君の顔も解らぬなどという、騎士としてあってはならない事をしてしまった」のは明白である。これ以上問い詰める必要もないし、責め立てて叱責するほど権力に固執している訳ではない。むしろ権力なんて邪魔なだけ。

 周りに聞かれれば非難は避けられないだろう感情は押し隠し、ルマは深くため息を吐いた。とにかくもこの騎士が自分を捕まえに来たのではなく、ただ迷いこんだだけだとすれば、長居は無用だ。相手が困惑している隙をついてとっとと脱出してしまえばいい。時間は僅かしかない訳ではないが、無限ではないのだから。

 だがしかし、ルマはその場を離れることなく、相手に語りかける。

「ねえ、正体がわかったところで、私のこと引き渡したりしようとは思わないの?」

「……よろしいのですか?」

 ちら、と例の隠し通路を見やり、相手は応える。それはルマが望む展開であるはずだった。相手に捕まえる意思はない。むしろ見逃してくれようとすらしているようだ。だったら何故私は逃げようとしないのだろう。ルマは自らに問いかけるが、答えはどこからも返らない。

「何でそんな事を言うの?」

 もやもやする気持ちは晴れぬまま、ルマは問いを続ける。

「え、いや。探検の途中とかでしたらお邪魔するのも悪いのかな、と」

 ああ、そういう解釈か。確かに事情を知らぬ一騎士がこの状況だけで「城を抜け出そうとしている」と判断するのは難しいのかも知れない。

「それでも普通こういう時って、人気のない場所にいたら危ないですとか、そう言って送り届けるものだわ。……普通はね」

「そ、そうですよね。配慮が足りず、申し訳ありません」

 どうにも騎士らしくない人だな。どこか挙動不審な相手にルマは漠然と思う。もしかしたら王族を前にしているから緊張とかしているのかも知れないけれども、それにしても反応が過剰な気がする。

 これは普段、王族の警護を任ぜられる中級以上の騎士とばかり接しているルマの感覚が作用しているからなのであって、宮殿警護が主で、王族と接する機会が余りない下級の兵士ならば似たような反応を見せる者も数多くいるであろう。しかし、それはルマの理解できるところではない。

「私の事、気付かなかったから申し訳なく思って見逃そうとしてくれた?」

 何故こんな事を言っているのだろう。それよりも何故見知らぬ、ただの騎士にこんなことを話しかけているのだろう。レイアーニ以外の人間とは、自ら繋がりを持たないようにしているのに、何故今日会ったばかりのこの人と。

「い、いえっ! そういう訳では……いや、少しはありますが……」

 いかにも困ったという表情で話す相手に、ルマは呆れたような表情を投げかける。

「その……本当に申し訳ありません。殿下」

 慌てふためく相手の目をじっと見つめながらルマが応える。

「別にいいよ。逃げ出して来たのはこっちなのに、そんな謝られても困るし」

「本当に申し訳あり」

「だから謝るなって言ってんの!」

「申し……いえ、はい!」

 気まずい沈黙が流れる。このまま、はいさようなら、と去ることも出来るはずなのだけれどもルマはそうしなかった。相手も動かないが、それは単に臣下としての礼儀だろう。人気のない寂しい場所に王女一人を残したとするならば(当の王女が平然としていたとしても)責任問題にもなりかねないからだ。

「何だって騎士がこんな所に迷い込むの? 鍛錬所も団長の控え室も、正門だって方向違うじゃない」

「考え事をしていたもので……」

「それにしたって地下よ? 光の加減で気付かない? どれだけ考え込んでいたか知らないけど、ある意味天才よ貴方」

 相手が騎士として天才と称されている事実があるなど想像することもなく、「うっかり者」の騎士に言葉を投げるルマ。

「……本当に面目ないです」

 しょんぼりと応える相手を、人は良さそうだけど出世は遅そうだなあ、とまじまじと見つめるルマ。後に「人は見かけによらない」という言葉を身をもって知ることはさて置き、どうにも気まずい空気を、そして徐々に表に出ようとしているもやもやとした感情を無理やり押さえつけようとするが如く、ルマはパン、と一つ手を打ち鳴らす。

 一体なんだ、と目を瞠った相手を他所に、ルマはくるり、と背中を向けた。

 あの……という相手の呼びかけを耳にしながら、振り返らずにルマは前方を指差す。

「そうやって迷い込んだのなら、どうせ戻り道も解らないでしょう? 一緒に連れていってあげてもいいよ」

 静寂が満ちた後、

「では、お言葉に甘えます」

 心なしか、明るめの口調で返事が来た。

 よほど困っていたのだろうか。それにしても本当に素直な人。思い、そして打ち消すように頭を振る。

 久々に自分を拘束しない人種に出会ったから油断しただけ。案内するのは最低限の礼儀だ。だから、ルマは背を向けたまま、出入り口へ一歩を踏み出した。

「さ、行きましょう」

 そして着いたら、そこでさようならだ。

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