不思議な彼女 その六




 友希ゆうきには、この世から無くなると正気を失うかもしれないと語ったアイテムがある。


 それは、タオル、石鹸、純水・アルコールのウェットティッシュ。それと、リップクリームだ。


 なので友希は常に身近に置いていて、外出時でも変わらない。せて席を外す前の俺に、その一式を詰めたポーチを渡してくれた上に、上着と時計を預かって送り出してくれた。


 今の時代には相応しくない感覚なのかもしれないが、時代と共に埋没していた男としての何かが気がする。友希の気遣きづかい、それを受けた俺自身が誇らしくあるような、そんな気分にひたってしまう。


 濡れた顔が、鏡に映っている。そこには、タイを解いた襟元が濡れないようにタオルで押さえる俺が居た。


 水分をぬぐいながら身嗜みだしなみを確認する。友希は気に入ってくれているが、意図しない方向にハネる毛先の制御を試み、頬や顎それと喉元に触れてはひげの剃り残しがないか、濃くなっていないかを確認する。


 髭に関しては、友希と付き合いだしてからは、なおさらだった。友希を遭わせる訳にはいかない。


 ジェフには気持ち悪がられたけれど、医療脱毛を始めた事もあり、ひげの処理は楽になったが、って。


 駄目だ。違う事を考えようにも上手くできない。


 あの醜態を掻き消して、気分を一新する事がかなわない。どうしても気になる。友希は何故あれ程、具体的な数を言えたんだ? しかも、あの言い方は以前から掴んでいた気配すらある。


『それと、二〇の数字は女性の数というより』


 友希の言葉の続きは、おそらくは国の数だ。にはパスポートを持ち込んでいないから、俺が過ごしてきた国の数を把握できるはずがない。

 その前に、友希は俺の物を勝手に触ったり、盗み見る事はなかった。試すつもりで、今は使っていない手帳や携帯端末を置き忘れたフリをして様子を探ったが、興味すら向けない始末だ。


『たま~に先生って、いつも座る席でカード引いてるんですよ。この場所、気が合うとか相性が良いとかって』


 吉田さんの店の風景と、常連客には半分敬語を取り払う声が、記憶領域と言う名の水面みなもで再生される。


「あの時、なのか?」


 思い当たるふしに、言葉がいて出た。それしか考えられなかった。


「何やってるんだ俺、格好悪いな」


 溜め息と一緒に言葉が漏れた。時計はないが、少なくとも十分は経過しているはずだ。戻らないと、ジェフが何を吹き込んでいるか分かったものではない。

 新たな不安をかき立てながら、戻るか思惑を続けるのか迷っていると、俺の聴覚に二人くらいの靴音と声が近付いている気配が侵入した。


「通路のディスプレイ良いな。ウチでも採用してみるか」


「だからって、面白がって何度も往復しないでくださいよ。っと、あ、はは」


 後続の部下らしき男が、俺と目が合った事で会釈した。この便所レストルームに入って来たという事は、別の座敷の利用者だろう。

 特に警戒する必要も感じなかったので、俺も会釈を返す。洗面台の水跳ねをペーパータオルで始末しながら、忘れ物がないかを確かめ、友希に借りた一式を手にして素早く退出した。


 タイを解いたままだが、友希に結んでもらおう。フラワーホールにラペルピンを挿していたから、それで結び目の下の窪みディンプルを作ってくれるはずだ。


 それにしても不思議だ。レストルームみたいなプライベートな空間なのに、日本人は誘い合う事に抵抗がない。慣れない場所の不安も共有したいのだろうか。それとも、裸の付き合いの延長なのか。


 羞恥しゅうちの体験から、少しだけ反れた事を考えていると、先程の客が話していた通路に差し掛かる。

 淡い破線型の誘導光源リニアフットライトが、境界線となっている床や壁の一部は昼間でも少々暗い。黒い池に立っている錯覚さえある通路には、歩行者を感知して泳ぐ鮮やかな錦鯉や波紋が映る。昼間でも良い物だが、夜はさらに雰囲気が出る。


 初夏のディナーで利用する客は、この場所で仮想の蛍の群れを見る事になるだろう。


 何故、この予想が立てられるのか。


 俺達が利用している座敷は、枇杷びわ。この店の四つの座敷は季語を割り振られ、来年の五月が訪れるとまた違う名前が付けられる。


 この国は、季節の言葉で溢れている。季語が生まれた季節と、現代の季節にはズレがあるが、この店は数字通りの季語を用いているようだ。

 雨を一つ取り上げても、四〇〇を超える表現が日本語にはある。俳句・和歌に用いられる季語に至っては、およそ一万七千語に及ぶ。


 これは、ラジオや専門知識を持つ動画配信者から得た情報の受け売りだと話す友希から教えてもらった知識だ。


 加えて、友希は私見だと断りを入れながら語った事がある。日本が一番平和で安定していたのは、縄文時代だと。


 後年、みやびな言葉を主に生み出したのは、余裕がある上流階級の人間かもしれない。だが、そんな彼らの生活を支えたのは日常を守り抜いていた臣民だ。言葉が紡がれ国が存続したのは、格差があり隔たりがあったとしても、それぞれの生き方や生活様式に誇りを持ち、やがて共有された信頼関係の上で確保していたからではないか。


 それを可能にしていたのは、揺るがない国体の存在を共有していたからだと。


 さして長くもない通路で考え事をしていると、去年シニアパートナーの手伝いをしていた時の個室に、いつの間にか客が入っている事に気付いた。あの時は、時雨しぐれだったな。


 数人の気配はあるが、俺達のように談笑や大声での商談の雰囲気は感じられない。座敷では、声を潜めてしまうと会話の内容などは通路側からはうかがい知る事は困難だ。

 友希が興味を向けていた天井で乱反射する音や、室内に設置されている鑑賞・任意の動画視聴用のモニター、店側が流している環境音で散ってしまう。


 直接、盗聴や盗撮用の機器が設置されているのなら話は別だが、この店は、ただ高水準の居心地を提供し、サービスと料理を堪能するためだけが売りではない一面がある、という事だ。


 そのはずなのだが、座敷の一角から怪鳥のような音が連続して響く。俺は、表側の客席の区画とをつなぐ通路の突き当たりの影から、店員が姿を現す場面に遭遇した。


 友希は、生きた結界とでも表現しそうだな。


 聞きようによっては、悲鳴にも、異常を訴える声にも受け取れる音声の主と正体を知る俺は、店員に説明と安堵を提供し、謝罪を添えなければならなかった。

 ウエストコートベストを着ているが、タイを解いたままの襟元が恥ずかしい。仕方なく、片手で覆いながらの不自然な姿で、問題解決を優先した。


「連れの大声が騒々しく、申し訳ありません。注意を促し、すぐに止めさせます。もちろん、緊急や異常事態ではありませんので、安心してください」


 店員が落ち着いた様子を見届けた俺が、枇杷の座敷の引き戸に手を掛けあばいた風景。


 怪鳥の正体は、今も大口を開けているジェフのの大笑いだった。



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