ある日、突然前世の日本人だった頃の記憶がよみがえって、もしかして私、異世界転生というものをしてしまったのでは!? というタイプの異世界転生の数分前にこんな事が起きていたとしたら……

桔梗花

とても努力家な女の子に降りかかる災厄

──アタシの名前はユースティティアというらしい。

 どうやら、異世界転生というものをしたらしい。













 私は、ディド大公という王国内でも随一の領土と権力を持つ一族の第一子女としてこの世に生を受けた。

 聡明で思慮深く、広大な領地と臣民を抱くほどの器量を持ち合わせる父と、聖母のような器の広さを持ち、野に咲く花が思わず目を背けてしまうような美しさと気品を持ち合わせる母の間に生まれたのが私、ユースティティアだ。

 何不自由のない生活。遍く奢侈は思いのままに使え、首を一つふるだけで何十人もの人間の人生を左右することができるのが、今の私の立場だ。

 しかし、私は腐っていなかった。そんな親や一族の脛をかじり、私の手でつかみ取ったわけでもない権力の傘の下で威張りつくしてふんぞり返っているほど愚かで間抜けではない。

 かつて、私と同じような境遇の少女が堕落し、贅沢の限りを尽くした結果、謀反を起こされて没落したという話を聞いたこともある。結局、自分で成し遂げたこと以外は全て虚構の中の産物に過ぎないという事だ。全くもって当然のことだ。

 人の上に立つもの、須らく賢人であるべし。

 私は、幼少よりこの高き志を胸にしまい、日々の人生の歩みの指針にした。また父からも一族の恥にならないような立派な教育を受けた。

 故に私は、バラの花びらを観賞していればよい人生を歩むことを善しとせずに、茨ごと握りしめる生き方を選んでいる。

 それが、高潔たる少女、ユースティティアの美学なのだ。







 誰かいる。


 ある明朝、麗らかな陽気が清潔な部屋を漂う中で書物を紐解いていた時のことだった。

 何か、悍ましい何かがいるような気がして、書を読む手が止まった。

 当然、自室には私一人しかいない。そろそろ使用人たちが起床する時間帯。まだ父も母も目を覚ましていないだろう。恐らく、わが屋敷の敷地内で活動をしているのは私と、父と母に使える侍従長くらいなものだ。

 だから人の気配などするはずがないのだ。

 全身に緩やかに力を入れて警戒する。


 襲撃者の可能性が真っ先に浮かんだ。


 だが、私は徒手空拳から短槍の扱いに至るまで、屋敷の騎士長と殆ど対等に渡り合えるだけの腕前がある。高位の魔術師や余程の手練れでない限り、私を相手に取ることすら敵わないだろうという絶対的な自信があった。そこら辺の男など、赤子の手をひねるより簡単に倒せる。

 書を机の上に置き、飛んでしまわないように固定する。呼吸を整えて、一切の気を身体に充満させてから、部屋の探索に取り掛かった。

 窓の外にも誰もいない。

 押し入れの中、ベッドの下、人はおろか埃の一つたりとも見つからないのに、人の気配だけが私の背筋を舐めるように這いずり回っている。



悪霊。次に浮かんだ可能性はそれだった。



 否。あり得ない。私は誰に言うまでもなく断言した。

 私の魔力や悪に対する耐性、抵抗は常人の息をはるかに超えている。

 以前、王宮の魔術師と親善で手合わせをする機会があった。確か、国でも指折りの魔術師だったと言う。

 しかし、その魔術師のありとあらゆる魔法は、私には全く効果がなかった。無抵抗で全く防御をしていなかったのに、だ。詳しく調べると、私に向かう敵意の籠った魔力は全て私が生まれつき備わっている加護の下で霧散してしまうのだとか。私はこの一件を内々に処理してもらい、表沙汰には出さなかった。

 これは、私の得た力ではなかったからだ。

 話は逸れたがそう言う訳で、私に悪霊が憑りついていたり、呪いに掛けられていたりだとかいう確率は全くのゼロと言っていいだろう。


 では、この悪寒は何なのだろうか。


 腐敗して、堕落して、私が最も忌み嫌う空気が私の周りを這いまわり、飛び回っている。


 ──神崎杏奴、享年二十三歳。


「どなた!?」

 脳内に直接響く雑音。それに反射するように反応してしまった。悪手だ。敵が、まだ姿を現していないのにこちらの情報を与えてしまうのは忌避すべき事だと習ったはずなのに。

 汗が頬から滴れ落ち、純白のワンピースの胸元にシミを作る。得体のしれない恐怖が胸中で混濁としている。

 襲撃が始まったと察知し、周囲に首を振るも、影すら見当たらない。


 ──@@@@世界、日本国、東京都出身。高名な政治家の長女として生まれ、小学校から一流大学までエスカレーター式で進学できる薔薇道を歩む。


 「何なの、この意味の分からない声は! 卑怯者! 出てきなさい」

 私の知らない声が頭を打つように刺激する。青年のようであり、婦人のようでもある。老翁のようにも聞こえるが、童女のように甲高い。

 年齢や、性別が茫漠として明瞭にならない君の悪い謎の声だった。

 胃から何かこみあげてくるものを感じて、私は口を両手で抑える。鼻で強く荒く呼吸を続けて何とか吐き気を収めた。

 「二ホン? トウキョウ? 何なの……それ」

 私の加護をものともしない干渉。全くもって訳が分からない。

 

 ──だが、神崎杏奴は努力というものをしなかった。全てを親の権力で誤魔化し、金銭で教員を従えて友人を買っていた。


 「あっ……」

 立っているだけなのに足がもつれてその場に倒れ込んでしまう。ベッドに体を寄せて、立ち上がろうとする。が、足はおろか、拳までもが慄き震えあがり力が入らなかった。

 声はまだ続く。


 ──神崎杏奴が高校生になった時、今までの所業がクラスメイトの一人から露見し、週刊誌の一面を飾る事件になった。その後、神崎杏奴の父、神崎卓は政治家を辞任し、一家は路頭に彷徨うことになった。しかし、そのような淵に立たされても、神崎杏奴の心は揺るぐことはなかった。

 つまり、神崎杏奴は努力というものを知らない。自分で何かを成し遂げるという事を存在として認知していない人間だったのだ。


 「やめて……この声を止めて……!!!」

 腹に精一杯力を込めて喉を引き絞っても、虫の羽音のような声しか出ない。

 聞こえてくる声の内容は、所々分からない言葉があったものの、その大筋はかつて耳にした没落した少女のようだった。

 「だったら、どうして、そんなのが聞こえるのよ……」

 手の震えは止んで、最早力が入らない。

ユースティティアという一人の人間の意識が、泡のようになって攫われていくような心地がしていた。

風が吹く。その柔らかな薫風にさえ身体を煽られ床に倒れ込む。

 口からよだれが、目から涙が漏れ出しているが、止める術が見当たらない。

 私の高潔さの美学は容姿に抵触するような器量の小ささなど持ち合わせていない。だが、それ以前に一人の淑女としてこの格好は看過できなかった。

 それでも、どうすることもできない。対処法も分からない。


 ──神崎杏奴は高校を中退。父、神崎卓は辞職の一か月後に母、神崎希羅羅によって刺殺されているのが見つかった。神崎希羅羅はその十分後、自らも同じ凶器によって自殺。

 その後、神崎杏奴は父の弟の家に戸籍上は引き取られたが、良好な関係を築くことは出来ず放蕩。一人暮らしを始めた。

 東京の一角にある風俗店で金を稼ぐようになり現在、二十三歳で客の一人の恨みを買い駅から突き落とされ、轢死。以上が、神崎杏奴の生涯の概略である。


「……お……かあ……さ……ま……お……とう……さ………」

 静謐なこの狭い世界で、自分の呼吸の音さえも聞こえない。

「わ…………た……………し…………死…………ぬ………………の?」

 眼球に入る光の量も、次第に小さくなっていき、天井が遥か先のように見えた。

 明確な死の予感。

 原因は今もなお脳内に直接響いてくる不可解な声。内容は、途中から理解することをやめた。もう、聴いている余裕など無い。

 この声は私を一瞬にして衰弱せしめるに至った。どんなに体術を極めて、魔力の加護に恵まれて、学問に秀でていたとしても、こんなにも呆気なく私は死のうとしている

 未だ僅かに続く思考も、やがて途切れてしまうのだろう。

だが、ユースティティアという少女の美学において、最後の一瞬まで思考は諦めない。

こんな惨めな姿になったとしても、私は私なのだ。

 声は、今までで一番の声量を出した。誰かに訴えるように。認めさせるように。

 ──この一見救いようがないと見られる神崎杏奴の人生だが、一つだけ美点と呼べるものがあった。

 それは、神崎杏奴が十四歳の時、クラスメイトの一人の少女が集団からの心的及び外的傷害を慢性的に受けていた。神崎杏奴は方法こそ、金銭を使ってだが、その少女を助けることに成功した。

 その少女は現在、若き天才物理学者という肩書を手に入れ、人類の科学の歴史を百年進めと評されている。当時の神崎杏奴の行動は、この世界の人類の繁栄に大いに貢献したといえよう。

 よって、神崎杏奴の唯一の善行に恩赦を与え、ここに神崎杏奴の魂の浄化プログラムを施行する。

 肉体の器は厳正なる審査の結果、****世界のオーゴマンレ王国、ディド大公の子女、ユースティティアに決定した。高邁な精神によって形成された肉体は、神崎杏奴の魂を正常なものへと導くことが予想されている。

 ユースティティア女史の魂の処遇については、また後日、改めて検討するものとする。以上、閉廷である。


 最期に、がどうとか言っていたような気がするが、耳と頭が乖離し始めて、情報は宙に逃げていった。

 私は、全て吐き出すように息を吐いて、目を閉じた。







 アタシの名前はユースティティア。


 どうやら、異世界転生というものをしたらしい。

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ある日、突然前世の日本人だった頃の記憶がよみがえって、もしかして私、異世界転生というものをしてしまったのでは!? というタイプの異世界転生の数分前にこんな事が起きていたとしたら…… 桔梗花 @pneumothorax_

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