連載再開いたします

nobuo

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 それは思いもよらぬ人物からの電話が切っ掛けでした。

 何が? と思われるでしょうが、説明の前に少々昔の話をさせてください。


 もう四十年近く前になります。その頃の私はまだ高校を出て勤めに出たばかりの娘の時分で、恋やオシャレが一番の楽しみでした。

 その頃お付き合いしていたのは職場の二年上の先輩で、彼とは休日の度にデートしたものです。

 デートと言っても今の時代とは違い、公園を散歩したり、一緒に買い物に行ったり、せいぜいが映画を観に行くといったもので、清く正しい『お付き合い』でした。


 ああ、お話ししたいのはその彼のことではなく、彼との待ち合わせに使っていた喫茶店のことなのです。

 そのお店は職場や繁華街からはやや離れ、静かな裏道沿いにありました。

 レトロといいますか、アンティークといいますか、若しくはクラシカルと……まあ些か古い感じの趣のある喫茶店で、蔦が這う赤レンガの外壁には看板らしきものは見当たらず、モダンなデザインのドアの前に〖Romano〗と書かれた小さな電飾の看板が一つ出ているだけでした。

 ちりんとドアベルを鳴らして中に入ると、店内は狭く、五つのカウンター席と二人掛けのテーブル席が四つだけ。そしていつも同じ顔ぶれが同じ席に座り、食事をしたり本を読んだりと、ゆったりと寛いでいました。

 いつも彼よりもずっと早めに店を訪れていた私は、ほぼ定位置となった窓際の席に座り、メロンソーダを飲みながら窓越しに彼が来るのを待っていたものです。


 そんな折、私は時間を潰すために、よく店に備え付けのノートを開きました。

 当時流行りの連絡用のノート。ごくごく普通の大学ノートです。名目上は客から店主へ、飲み物や料理の感想とかBGMのリクエストを書いてほしいといったもののようでしたが、中には連絡ツールとして、常連さん同士のコミュニケーションに利用されていました。

 何せあの時代は携帯電話などありませんでしたから、駅の伝言板や連絡ノートがお役立ちだったのです。

 『ブレンドの配合が変わったらしく、さっぱりとして美味しかったのでお試しあれ』とか、『次は〇月〇日に来る予定ですが、X Xさんはいかがですか?』など、顔も知らない方々の遣り取りを、私はどんな人なのだろうと想像しながら、物語のように読んでいました。


 かくいう私もノートの利用者で、私は日記のように独り言を書いていました。

 文はせいぜい長くてページの半分。内容はほぼほぼ恋人との遣り取りでした。

 彼との出会いから始まり、尊敬する先輩から想いを寄せる異性へと変わり、奇跡的にも同じ気持ちでいた彼から告白を受け、お付き合いに至るまでを…お付き合いを始めてからのことも、自身を小説の主人公に当て嵌めて書き続けていたのです。

 初めて電話した時の緊張や、初めて手をつないだ時のドキドキ。私の誕生日のプレゼントに自分で編集したと言って渡されたカセットテープを擦り切れるほど聴いたこととか、お揃いで編んだマフラーをとても喜んでくれたこと、喧嘩してしばらく口をきかなかったことなど、ちょっぴり誇張もしたけれど、私は毎週のように綴り続けました。


 書き残すことが楽しかった。前に書いたページを読み返すのも楽しかった。

 その時の私が、切り取られたようにそこに存在しているのが、とてもとても楽しかったのです。


 残念ながらその恋人とのお付き合いはそれほど長くは続かず、二年少々でお別れをしたため、それ以降はその喫茶店には行っていませんでした。


 ―――で、ここで冒頭に戻ります。

 実は先日の電話、この喫茶店の現在の店主からでした。

 当時の店主は穏やかな感じのスラリとした初老の男性でしたが、その方が最近になって体調を理由に閉店を考えていたところ、甥である今の店主が引き継いだのだそうです。そして居住スペースである二階を片付けていた折、大量の古い大学ノートを発見したのだと言いました。


 数十年もの〖Romano〗の思い出が詰まったノート。それは店の記録であり、前店主の人生の記録でもあります。

 感慨深くそのノートを読み進めていた彼は、ふと一つの文章に目が止まったそうです。

 それこそが私が書いた恋人との日々を綴った日記で、彼の要件もそれについてでした。


 現店主・間野まの 隆一りゅういちさんは、この日記をどうしても現在の私に見せたいと考え、私が通っていた時期と来店がかぶる常連さんたちに、私が誰かを聞いて回ったそうです。

 私の日記を楽しんでいた人は多かったそうですが、なかなか身元まではわからずに諦めようと思っていた時、当時よくカウンター席で本を読んでいた紳士が、私の勤め先近くの出版社で勤務されていたらしく、わざわざ足を運んで私の名前(旧姓)を調べ、店に連絡してくれたのだそうです。


「まあ! そんな経緯いきさつが…」

「はい。勝手に名前を調べるなどして悪いとは思ったのですが、そうでもしないと連絡先がわからなかったものでして」


 久方ぶりに足を運んだ〖Romano〗の窓際の席で、私は申し訳なさそうな表情の間野さんと向かい合い、電話をもらうまでの詳細を聞かせてもらいました。


「これが三十八年前のあなたがお書きになった、ページのコピーをまとめたものです」


 そう言って差し出された紙の束はそこそこに厚く、若かりし頃の二年分の私が見慣れた文字で手元に帰ってきました。

 懐かしい気持ちでパラパラと紙を捲っていると、間野さんは自分で淹れたコーヒーで喉を潤し、本題なのですがと切り出しました。


「唐突で申し訳ないのですが、これ、本にしてもいいでしょうか?」

「は?」


 彼の言葉は青天の霹靂で、束の間私の思考は停止しました。


「と言いましても、あなたの日記の部分だけではなく、連絡ノート自体を書籍にしてほしいと常連さんの多数から要望がありましてね。先ほど言いました元出版社勤めの方、山野辺やまのべさんと仰るのですが、彼が自分が口をきくから是非と勧めてくださったんですよ」

「まあ…」

「はじめにその話を聞いた時、叔父…いえ、前店主が自費で出版すると言ったのですが、山野辺さんがきちんと書店に並べたいと強く望まれまして」


 連絡が取れる限りの方々からは既に了承を得ているらしく、あとは私が承認すれば、この日記も載るのだそうです。


「…いかがでしょう?」


 心配そうに私の顔を覗き込む間野さん。

 正直なところ未熟な恋の思い出を世の中に明かすのは恥ずかしい。けれど、それと同じくらい、いいえ、それを上回るくらいに当時の私が感じていたドキドキやワクワクを大勢の人に知ってほしい気持ちもありました。

 ですから私は居住まいを正すと、深々とお辞儀をして気持ちよく了承しました。


 そしてあれから数か月。とうとう明日、書籍化された〖Romano〗の連絡ノートが発売されます。

 大人未満だった私が何気に書いた日記が世間にお披露目されるのです。

 家族には一応報告はしましたが、どんな内容なのかは照れくさくて言えませんでしたし、送っていただいた献本もまだ見せてはいません。

 恥ずかしいけれど、今夜にでも覚悟を決めて見せるつもりです。


 本を読んだ家族がどんな反応だったのかは、また〖Romano〗のノートに書こうと思っています。


 お楽しみに。

 



 

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