君と僕の、ゾンビ化計画。

絵空こそら

第1話

「見たね」

 そう言った彼女の顔は、どこか神様チックに見えた。怒ってもいないし、焦ってもいなかった。世界の終りのような色をした夕日が、教室の入り口に立っている彼女を照らしていた。

「これ……中野さんが描いたの?」

 僕の手の上にはノートがある。なんの変哲もない大学ノートだ。教室の床に落ちていたのだった。

「そうだけど、何?」

 小首を傾げる中野さんは、相変わらず感情の読めない顔をしている。廊下に面した左半身が、日に照らされて血を被ったように光っている。

「先生に言う?」

 そこで彼女は初めて笑った。陽光をひらひらと教室の床に振り落として、ゆっくり僕に近づいてくる。

「……中野さんは」

 彼女は僕の目の前でぴたりと足を止めた。

「絵が上手だ」

 僕が言えたのはそれだけだった。彼女はぶっと噴き出して、僕の手からノートを攫って行った。

「なんじゃそりゃ」

 彼女は後ろの扉から出て行った。彼女が踏んでいった血だまりのような陽光を、僕はしばらく見つめていた。


 中野さんのことを、平凡な女子だと思っていた。クラスでも比較的平和な女子グループに入っていたし、性格も控えめに見えた。所属しているのは放送部なのに、彼女の担当する放送はいつも聞き取りづらかった。

 授業中、前方の席に座る彼女を見つめる。数学教師の説明が滔々と流れている今も、彼女の脳内では、次のスケッチの案が練られているのかもしれない。いや、ノートをとるふりをして、絵を描いているのかも。

 僕は視線を落として、ノートにさらさらとペンを走らせた。


「中野さん」

 僕は放課後、彼女に話しかけた。ひとりでいるところを狙ったつもりだったけど、タイミング悪く女子グループの面々がツレションから帰ってきた。興味津々な視線を痛いくらい向けられて、ばつが悪い。

「話があるんだけど、いいかな」

 歯切れ悪くそう言うと、彼女はまた感情の読めない目で僕をじっと見た。そして一瞬あと、笑った。

「いいよ」


 数分後、僕らは屋上にいた。昨日よりも彩度の低い夕日が、辺りを照らしている。風が強い。

「なあに、話って」

 中野さんは風で乱れた髪の毛を抑えながら言う。僕はポケットからルーズリーフを取り出し、彼女に差し出した。受け取った彼女は黙ってそれを覗き込む。



「やめろ、来るな!」

 後ろ手をついたまま後退した小野は、背中にあたった壁の感触に、絶望した。

 目の前には赤い瞳の、生気のない大量の生徒たち。彼らの口元には、鮮やかな血が滴っている。虚ろな目のまま、ゆっくりとした動作で、彼らは小野に近づいてくる。小野はがむしゃらに腕を振り回すが、その腕をがぶりと噛まれてしまった。

 廊下に彼の悲鳴が、響き渡った。



「これって……」

 中野さんは目を丸くした。

「私の絵を見て書いたの?」

「うん。そんな感じ」

 僕は強風に煽られながら、昨日見た絵を思い出していた。

 小野先生は、中年の数学教師だ。男子には厳しく、女子にはセクハラまがいの発言をする。あまり生徒間の評判はよくない。昨日のノートには彼がゾンビ化した生徒に追い詰められ、齧られているシーンが、月岡芳年のようなタッチで克明に描かれていた。ショッキングなその光景は、一瞬で頭に焼き付いた。白黒なのに、血の赤が見えるような、腐乱した生徒たちの肌の冷たさがわかるような、そんな絵だった。

 僕はホラーが苦手なので、少なからず衝撃を受けた。夜、風呂に入っているとき、作画:中野さんのゾンビがべたあっと窓に張り付いてくる想像をして、勝手に震えあがっていた。それでも。

「書いてみたくなって」

 誰にも言ったことがなかったけど、僕は小説家になりたい。いろいろと本を読んで、いろいろな文章を書いては、出版社に送り付けている。賞を貰ったことは、一度もない。ホラージャンルに手を出したこともまだない。

 ということを暴露した。彼女の秘密を知ってしまった以上、僕の秘密も明け渡しておかないと、フェアじゃない気がした。協力してもらうなら尚更。

「なるほどねえ。金子君は文章が上手だ」

 中野さんは感心したようにも、茶化すようにも聞こえる調子で言った。そしてすっと目を細める。

「あの絵をネタに強請られるのかと思ってた」

「そんなことしないよ」

「やばいという自覚はある」

「じゃ、なんで学校で描いちゃったの」

 なんで落としちゃったの、教室の床なんかに。

 彼女は「なんでかな」と言って後ろを向いた。

「普段はね、家で描いてるよ。あ、言っとくけど先生が嫌いなわけじゃないよ。ただ、先にゾンビ化させておくと、何言われても、ああ、人間だったときはこんなことも言ったのだなあと心穏やかでいられる。自分でも病んでると思う。わかっちゃいるがやめられない」

「美術部に入ればいいのに。あんなに絵がうまいんだから」

「あんな絵、見たら引くでしょ。私ああいう絵以外描けない」

 彼女は振り返って困ったように笑った。長い髪が風にたなびく。

「続き」

 僕は言った。

「続きが書きたい。また絵を描いたら見せてほしい。これまで描いたのももしあったら。駄目かな?」

 目にした瞬間、物語が浮かんだのだ。今いる学校が一瞬で暗闇に包まれたような、別の世界にシフトしたような気持ちがした。鳥肌がたつような高揚のまま、その世界を文字にしたいと、強く願ってしまった。

 中野さんは、やはり静かな目をしていた。

「勝手に書いたらいい。あの絵から発想を得たとしても、物語の権利は君にある。ご自由に、お好きな展開にどうぞ」

 彼女は恭しくお辞儀をした。

「そう、そうなんだけど……」

 言いたいことが言えなくてもどかしい。そういうことではなくて。

「手伝ってくれないかな。君の絵がいいんだ。ホラー書くの初めてだし」

「私は別にホラー描いてるつもりないけど」

 あれをホラーじゃないとかどんな神経しているんだと思ったけど、当人はまったくもって真面目な顔をしている。

「要するに、ネタ作りね」

「そう、その通り」

 言いたかったことが伝わってほっとする。

「他には誰をゾンビ化させたの?誰が最初?」

「ええ……ふつうそんなこと聞く?私もやばいけど君も相当やばいよね」

「そうかな」

「創作意欲の鬼ってわけ。それにしては絵がないと作品を書けないなんて随分想像力が乏しい」

 痛いところを突かれる。

「それは常々……。でも、今年獅子座文庫でコンテストがあるんだ。そこでもし入賞したら、賞金半分分けるよ。そんな条件で、どうかな」

「正気?あんなドロドロしたので入賞できるとは思えないけど」

 中野さんは苦い顔をしている。獅子座文庫はホラーとグロには多少寛容だから大丈夫。

「やだなあ、なんか日記公開されるみたいで。絶対他のネタで書いたほうがいいと思うんだけど」

「でも書きたいんだ!このネタでいきたいんだよお!頼む中野さん、協力してくれ」

 僕は土下座せん勢いで頭を下げた。

「うげえ、金子くんってそういうキャラだったっけ……?」

 わかる。声色だけでドンびいているのがわかる。でもこのチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。僕は頭を下げ続ける。

「ま、しょせん日の目をみない落書きたちだしね。誰かの役に立つなら、使ってもらってもいいか」

 嫌がっていた割にはあっさりと、中野さんは了承した。もっとも、早くこの話題を終わらせたかっただけかもしれない。

 顔を上げると空はほとんど日が沈みかけていた。夕方が紺色に染まっていく。

「ありがとう!中野さん、ありがとう!」

 握手したいところだけど、セクハラで契約解消になりたくなかったので、僕は再度頭を下げる。彼女は「いいから頭を上げて。私が裏番だと噂が流れたら困る」というので、頭を上げる。

「じゃあ、この校舎まるごとゾンビの巣にしちゃおうか。よろしくね」

 残り少ない陽の光を浴びて、中野さんは手を差し出した。彼女のほうから手を差し出したということはセクハラにはならないよな、と確認しながら、僕も手を差し出す。

「こちらこそ、よろしくお願いします……!」

 彼女の手は小さかった。ここからあの阿鼻叫喚地獄が生まれるのかと思うと、不思議な気持ちがした。




 教室に戻ろうと屋上のドアを開けたら、数人がどっと雪崩れてきた。中野さんの女子グループだ。みんな急いで立ち上がり、気まずい時猫が毛づくろいをするような感じで、手櫛で髪を梳かしたりして誤魔化している。

「ふたりとも何の話してたの?」

「付き合おうって」

 僕は大きく噴き出してしまう。話が違う!と思った。咳き込んでいる僕に中野さんは目配せした。黙っていろということか。

 女子たちは「キャー!」と黄色い声を上げた。

「ふたりって何か接点あったっけ?」

「あるよ」

「どんな?」

「秘密」

 中野さんが意味深に笑うと、また「キャー!」。

 僕は居心地の悪さを感じながら、ぼうっと傍に突っ立っていた。


「ごめんね。金子君て彼女いたっけ?」

 教室に戻る道すがら、中野さんは小声できいた。

「いや、いない」

 ぶんぶんと首を振る。

「じゃ、いい?仮面カップルってことで。そのほうが都合がいいでしょ」

 仮面、とついているのにカップルという単語に動揺する。僕はコクコクと頷いた。その様子を見て中野さんは笑う。そして掌に隠し持っていたルーズリーフを、僕の制服のポケットにそっとねじ込んだ。


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君と僕の、ゾンビ化計画。 絵空こそら @hiidurutokorono

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