第28話 思いと現実の中で (8)


 今も美佐子とは、三咲との一件があった後も何事もないように会っている。ただ二人の間には触れてはいけない約束のような思いが残っていた。


 三咲がなぜ美佐子の事を知ったのか分からない。でも今となってはそんなことはどうでもよかった。


 はっきりと聞きたかった。“三咲が自ら引いたのではなく、優一が自分を選んだのだと”ただそんなことを言う人ではないことを知っていたので何も言わずいた。


だが、その一件以来、優一の心が前ほどに明るく接していないことを何となく感じていた。


「優一、今度、ドライブに連れって」

「えっ」

いきなりの言葉に驚いた顔をすると


「ダメなの」

 そう言って少し寂しそうな顔をした。すでに優一の家の事も優一が好きな車も知っている。

三咲の件があって以来、以前は三週間に一度だったデートも毎週になった。そして一カ月に一度は優一の腕の中にいる。


 自分が言った“私に責任とれます”という言葉に頷いた優一を信じていた。


“いずれは、あの厳しいお母様と一緒に暮らす日がくるのだろうと”


 二人が大学で知り合ってから七年、もうすぐ二六になろうとしている。いずれは優一が自分にプロポーズしてくれるだろうと信じていた。


 しかし優一は、美佐子に黙っていることがある。これだけは、三咲と美佐子の関係ではない。優一自身が守りたい事だった。理屈なんて関係ない。


「優一、答えなさい」

三咲とは違い、自分の意見をはっきり言いながら、一歩下がる美佐子の言葉はとても気持ちよかった。


 母親のカリンもそんな美佐子のしぐさを相当に気に入っているらしく家に遊びに来させては、優一を無視して、お茶屋や生け花の習いを一緒にさせている。


 美佐子は、最初は、色々思ったが、“自分もいずれは”と思うと、何気なく優一の母親のそれに合わせていった。


「ああ、いいけど。いつ」

「それは、優一が決めて」

そう言ってうれしそうな顔をして自分の腕の中で話す美佐子に頬笑みながら


「美佐子の思うままだよ」

と言うと自分の胸をつついて、


「ここと一緒にいたい」

そう言って、優一の胸に顔をうずめた。

 

 § § §


「葉月君」

美奈は周りを見て、同じ会社の人がいないことを確かめると


「今日、いい」

甘えるような声を出しながら優一の目を見ると


「いいよ。じゃあ、いつものところで」

「うん」

そう言うと、昼休み時間が終わることを気にしながらビルの玄関に歩いて行った。もう随分前になるが、渋谷の公園通りでの一件以来、二人は急速に近づいた。


 まだ、体を合わせることはなかったがデートをした時は必ず口づけをした。胸やお尻を触るほどにはなっていたが、それ以上は美奈が許さなかった。


会社員が帰りに入るような少し小奇麗なお店で食事をしながら美奈は、

「葉月君、私、部署移動になりそう」


「えっ」


「もう、他に言葉ないの。例えば、どこに移動するのとか」

「いや、いきなりだったので」

「まあ、いいわ。驚かないで。葉月君のところ」

「えーっ」


一瞬だけ理解できないでいると


「いわゆる、キャリアローテーションってやつ。なるべく現部とは違ったところに移動させ経験を積ませようというのが目的らしい。まあ、確かにこの春で会社四年目となるとローテーション必要とは思うけど」


うれしいけど困ったという顔をすると


「どうする、優一」

「どうすると言われても」

「同じ部になったらどうしても葉月君を意識してしまう。いずれみんなに葉月君とのことがばれる。私はいいけど、葉月君まずいでしょう」


 美奈には、まだ、家の事は詳しくは教えてなかった。もちろん、家に呼んだこともない。ただ、優一の態度からして何か理由があるのだろうと思っていた。それを強引に聞くほど、美奈は愚かではなかった。


「うーん、そんなことないけど、そんなことある」

「どっちなの」


優一の返事に笑いを浮かべながら言う美奈は、手に持った徳利のお酒を優一のグラスに注ぎながら


「ローテーション断れないし」


優一は、“少し上に圧力をかければ人事なんかどうにでもなる”と思いながら、そんなことしたら余計まずいことになることは分かっていたので、


「会社移ろうかな。そうすれば美奈と会っても問題ないし」


「えっ」目を丸くして驚きながら


「それはだめ。葉月君と毎日会えなくなる」

そう言って自分のグラスにもお酒を注いだ。お店を出たのは、まだ九時前だった。


会社の帰りに二人で待ち合わせして入ったので、二時間はいたことにはなる。優一は、もう少し二人で居たいと思っていた。


「葉月君、まだ早いね。どうする」

「うん、美奈ともう少しいたい」


 優一は、なぜ美奈だけにはこんなに素直に言えるのか分からなかった。一緒に歩きながら、少しずつだが自分の心がどこにあるのか分かるような気がした。

ただ、美佐子の事を思うと、あまりにもだらしない自分自身に決断という言葉は、心に添えなかった。


「葉月君、今度、君の家に遊びに行きたい」

“えーっ”、あまりの突然の美奈からの言葉に歩みを止めると“じっ”と顔を見た。優一の態度に


「どうしたの。私、なんかすごいこと言った」

何も言わないで歩いていると


「葉月君、君の家の事情はわかないけど、いやならいいよ」


寂しそうな顔をする美奈が横で一緒に歩いていた。だいぶ寒かった。美奈が優一の左腕を掴んで寄添う様に歩いていると


「美奈、いいよ。迎えに行く。両親の都合も聞きたいのでいつ来てもらうかは、後でいい」「えっ」


美奈は、気楽にただ、優一がどんなところに住んでいるか程度に考えていた。両親に紹介されるなんて考えてもいなかった。


「どうしたの」

優一の言葉に下を向いまま歩みを止めるとゆっくり顔をあげて


「葉月君、いいの」

そう言って優一の顔を“じっ”と見た。優一の両親に会うということはそれなりの覚悟をしていく必要がある。たまたま遊びに行って会うとは違う。


“葉月君が両親に紹介すると言っている”それだけで顔が少しだけ赤くなった。


「うん、でも」

「でもなあに」

「美奈の家知らない。迎えに行くと言ったけど」

「じゃあ、今から送って行って。もちろん電車で」


美奈は、タクシーで家の前まで送られて、両親や近所の人に見られるのが嫌だった。


「いいよ。もちろん」

美奈はその返事に優一の腕に自分の腕をまわして、ほほ笑むと


「行こう」と言った。


優一は、渋谷の駅から田園都市線に乗った。昔母親が、まだ“新玉線”と呼ばれていた時に用賀に住んでいたことを聞くと何となく桜新町という場所に親近感が湧いた。


桜新町で降りて、少し広い通りを五分くらい歩いた後、左に曲がった。そして酒屋の手前右に曲がると美奈が指を指した。


「ここ」

優一は、塀に囲まれた家を見た。美奈は二階の窓を指して


「あそこが私の部屋」

そう言って優一を見た。


「分かった。両親には、なるべく早く言う」

美奈は、周りを見て誰もいないこと確認すると優一の顔に自分の顔を近づけて目を閉じた。

美奈の唇にちょっとだけ自分の唇を合わせると


「美奈」

そう言って美奈の顔を見ると


「葉月君、ありがとう」

もう一度自分から唇を合わせると家の門を開けた。

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