拳のないボクサー
尾樫
上
俺は、半年前に交通事故によって右腕を失った。その右腕は俺の唯一無二の商売道具だと言っていいい。何を隠そう、俺の職業はプロボクサーで、戦績は13戦12勝1敗7KOと世界ではまだまだ無名だが、日本ではそこそこ名の知れたボクサーだった。だがそれも、過去の栄光。
俺は片腕を失ったのだ。つまり、もうボクサーとしては死んでしまった。しかし、この時代に生まれてきてしまったことが、幸か不幸か…。リングの神様は、俺がリングから降りることを許さなかった。
「鴻上さん、覚悟はできましたか?」
そう、この一人のドクターが俺に悪魔の手を差し出してきた。彼は、
「慣れない左手でサインしただろ。汚すぎて読めなかったってか?」
「いやいや、ただの建前ですよ。術後に泣きつかれても困るので。」
「本当に元通りになるんだろ?」
「ええ、もちろん。前のがダイヤモンド・フィストなら、新しい腕は正に神の拳でしょうね。」
ドクターはファンに付けられた異名を持ちだし、悪魔の囁きを唱え続ける。
「なら問題ない。頼んだよドクター来野茨。」
この男の言葉には真意を感じられないが、そんな目に見えない糸にすら、すがらなければ俺はもう駄目なのだ。
俺は悪魔との契約をしてしまった。
それからのことはよく覚えていない。次に気が付くと、俺は自宅のベットの上で、なんと俺の右腕が元通りになっていた。そして、その右腕で一枚の紙を握りしめていた。その紙はドクターが俺に宛てた手紙のようで、次の様に綴られていた。
「約束通り右腕は元通りになりました。それは、あなたが怪我をする前に時間を戻したからです。私は科学などと噓をついて、魔法のような力であなたを勝手に戻してしまったことは深くお詫び申し上げます。しかしながら現状、あなたが怪我をしないように行動することで、腕を失わずに済むということなのですが、あなたの右腕はこれからのあなた次第で強くも弱くもなるでしょう。後悔の無いように精一杯、やり直してください。来野茨」
この手紙の内容は、学のない俺でも非現実的なことであることは容易に理解できたが、腕時計の日付、テレビの番組表を見ても確実に過去に戻ってきたことは明白だった。右腕が元通りになっていることが何よりの証拠だと言ってもいいだろう。
事故の衝撃で俺は事故の前後の記憶を失ったため、後から聞いた話だが、俺は一人の少女をかばって事故のあったらしい。幸いにもその子は軽傷で、命に別状はなく、その子の両親からはものすごく感謝された。だが助けた瞬間を忘れてしまっている俺はなぜ感謝されているのかも分からず、ただただ右腕を失ったことだけを悔やみ、絶望し、涙していた。その子は何度かお見舞いに来ていたらしいが、その子のことはよく覚えていない。そこまで気にできる精神状態ではなかったからな。
何はともあれ、今日俺は家から1歩も出なければ、右腕を失うことは無いというわけだ。だがしかし、それは少女の死を意味するに等しい。
だから、俺は自分自身に問いかける。
「俺は少女を助けるべきなのか?」
助けると言っても、事故の直前に助けるのではなく、事故が起こることを未然に防ぐという方法もあるだろう。
「でも、お前は事故の状況を覚えていないだろ?」
そうだ、事故の起こった場所は分かるが、詳しい状況どころか、その少女の顔すら覚えているか怪しい。
「その子が、事故で亡くなったとしても、お前は悪くないだろ?」
それもそうだ。俺がその場所にいなければ、ただの赤の他人。見知らぬ少女が、勝手に事故で死んでしまった。ただそれだけで済む。
「いままで、そんなニュースを何度も見て来ただろう?だけど、そのたびにお前はどうしていた?」
ああそうだ。その瞬間は「可哀そうだ」と思っても、次の瞬間にはその感情を忘れ、自分のことしか考えていない。
「今回だってそうすれば済む話だろう?そうするだけで、右手も元通り、世界チャンピオンの夢もまた追うことができる。」
そうだ、いつものように見知らぬ誰かの死を、見過ごせば俺は…。
だがしかし、腕をさすり、拳を握りながら自問自答を繰り返す度に俺は思うのだ。
”腕を失う前の俺なら、間違いなく少女を助けに行っただろう”
「お前は変ってしまったのか?変わったのは腕があるかないかの違いだけだろ?」
「なんだその問いは?情けないにもほどがあるだろ。」
時計の針を確認すると、事故が起こる30分前。現場までは走って10分くらいだ。俺はジャージに着替え、外に駆け出した。
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