■8//呪術師、井境(3)
「なんだよ、東郷さんじゃなかったか。残念だなぁ」
そう呟いてナイフを回転させながら、スーツ姿の翁面――井境は芝居がかった所作で肩をすくめた。
入口側の東郷たちと、壁際の燐とヤス。ちょうどその間に立ちはだかりながら、彼はしかし妙に友好的な声音で続けた。
「東郷さん、戻丸は――ちゃんと持ってきてくれたんだね。ありがとう、助かるよ」
「井境ぁ、てめぇ……」
険しい形相で吠える東郷に、彼は首を傾げた後、「ああ」と両手を軽く上げた。
「女子高生ちゃんのこと? ごめんごめん、あの子は上だよ。花の女子高生をこんな埃っぽいとこに転がしたら可哀想だろ? ちょうどよく代わりの人柱も見つかったからさ、彼女に代わってもらったんだよね」
そう言いながら彼は後ろを振り返り、弱々しい表情で睨む燐を見返す。
「いやー、でもびっくりだな。宮前さんが東郷さんと知り合いだったなんて。あの女子高生の近くで護衛なんかしてるから、びっくりしちゃったよ」
「……貴方のことなんて、知りません……!」
「あれ? ……ああそっか。今の宮前さんは半分になってるから、あの頃の記憶はあっち側に持ってかれちゃってるのかな」
何やら一人で納得したようにうんうんと頷く井境。そんな悠長な会話を、しかし呑気に待っていてやるほど東郷たちもお人好しではなかった。
無言で懐から拳銃を抜き、ぶっ放したのはリュウジ。だが彼は「うわわ」と慌てた声を出すだけで、まるで読んでいたかのように軽く体を捻ってそれを避けてしまった。
「あっぶないなぁ。そんなんで撃たれたら死んじゃうぜ」
「あいにくとこっちは、てめぇと話し合いするつもりは毛頭ねえんだ」
言いながら東郷は戻丸を後ろのコイカワに預けると、腰に差していた白鞘を抜いて構える。
リュウジも再び拳銃から散弾銃に持ち替えると、照準を井境の頭に合わせた。
「あーあー、困ったなぁ。東郷さんってもう少し話のできるタイプのヤクザだと思ってたんだけど」
「出会い頭に舎弟を刺されて、ニコニコ話し合いできるほど平和ボケしてねえんだよ」
「んー、でもちゃんと加減はしたからさ。今すぐ戻丸置いて彼を病院に連れていけば、十分助かると思うぜ?」
「そいつはいいことを聞いたな。ならてめぇをぶち殺してから、そうさせてもらうさ」
そう言うや否や、駆け出したのは東郷だった。
もともとそれほど広くもない場所である。数歩で一気に井境との距離を詰めると白鞘を横薙ぎに一閃。しかし井境はそれをしゃがんで回避すると、後ろへ飛び退る。
だが初撃がかわされるであろうことは東郷も織り込み済み。それよりも彼をヤスや燐から遠ざけるのが目的である。
「喰らえや!」
珍しく語気を荒らげて、リュウジが散弾銃の引き金を引く。吐き出された無数の散弾は井境を掠めるだけで直撃はしなかったものの、背後の土壁を抉ったそれを見て井境は「おおっ」と声を上げた。
「こんなん、人間相手に撃っちゃダメでしょ……しょうがないなぁ」
そこで逃げ回っていた彼は一旦足を止めると、顔を左右に動かして――散弾銃を構え直していたリュウジを見るや、彼に向かって一直線に駆け出す。
リュウジの二射が、真正面から井境に向かって吐き出されて……けれどそれより一瞬早く、彼は人差し指と中指とをまっすぐに伸ばした手の形で、小さく呟いた。
「『動けない』」
「――っ!?」
瞬間、まるで金縛りにでもあったかのように散弾銃を構えた姿勢のまま硬直するリュウジ。驚愕を浮かべる彼の懐まで入り込むと、井境は手に握っていたナイフを一突き――
「っ、せるかよ‼」
しようとしたところで、横合いから斬り込んできた東郷の一撃をそのナイフで慌てて防ぐ。
「あぶなっ」
ぎりぎりで東郷の斬撃を受け流しつつ逃れた井境。だがそんな彼の手に、不意に横から飛んできた何かが巻き付く。
それは――朱色の模様がびっしりと書き込まれた、呪符のようなものだった。
「あっ、くそ……やってくれたな」
呪符が張り付いた左手をだらんと垂らして、飛んできた方向に顔を向ける井境。その視線の先には、コイカワによって壁から解放された燐の姿があった。
「でかしたぜ、コイカワ」
「へへ。アイツ完全に俺のことなんか
よろよろと立ち上がろうとする燐だったが、痛めつけられていたのだろう。体勢を崩しかけてたところを、隣のコイカワがさっと支えた。
「おいおい、無理すンなよお嬢ちゃん」
「えへへ、すいません……」
支えられながら彼女はリュウジに向かって指を伸ばすと、先ほどの井境と同じように軽く振るう。瞬間、石のように固まっていたリュウジの体が再びがくんと動いた。
「あ、せっかくの金縛りを。……これじゃ振り出しだ」
そう言いながら折れたナイフを弄ぶ井境。とはいえ東郷たちの側は拘束されていた燐を解放できている――五分というよりは、むしろ優勢と言ってもよかった。
だが、燐はというと険しい顔で井境を睨みながら東郷に告げる。
「東郷さん。あれは、相当に厄介です。私が時間を稼ぎますから、ヤスくんを連れて早く撤退を」
「……バカ言うなよ、立てねえくらいにボロボロじゃねえか、そんな無茶――」
「そうそう。困るんだよな、それは」
間近で聞こえた声に東郷がとっさに白鞘を構えると、顔面を狙ったナイフの一撃が刃と当たって火花を散らす。
先ほどとは比べ物にならないほどの膂力。東郷ですら防戦に回らざるを得ないその猛攻に――横合いから援護を掛けたのはリュウジ。
「カシラ!」
合図とともに東郷が一瞬距離を取ったのを見逃さず、リュウジの散弾銃が火を吹く。
すると今度は避けきれず、井境の頭にもろに散弾の雨が直撃した。
粉々に砕けた翁面と黒頭巾が飛び散って――しかし、それだけ。
散弾で砕けた頭蓋も脳漿も血飛沫も、何一つ飛び散らず、流れもしなかった。
というのも。
「……おいおい。なんだ、そりゃ」
面を喪った井境の頭部。
そこには――あるはずの頭が、いや、それどころか首まで含めて何も、存在していなかったのだ。
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