第24話 母が売った弟は

 僕の名前はエル。

 エル・ポーレント。


 アールは僕と同じ顔で、一卵性の双子の弟。


 僕達は本当にそっくりで屋敷の人達は勿論、父さんさえも見分けることが出来ない。


 母さんだけが僕達をちゃんと見分けてくれていた。

 母さんは僕達のことを心から愛しているから、だから分かるのだと言っていた。


 僕も母さんのことを愛していて、だから母さんに喜ばれるように頑張った。

 勉強、作法、外国の言葉だって覚えた。

 頑張れば頑張る程母さんは喜んでくれた。

 そんな大好きな母さんだけど、一つだけ僕には不満があった。


 毎朝僕を抱きしめるのに、何故アールだけは抱きしめないの?


 アールを僕と同じように愛してくれれば、僕は母さんに何の不満もないのに。


 勉強は毎日頑張った。

 でも毎日毎日、頑張れば頑張る程、勉強は難しくなり量も増えていく。


 頑張っているのに終わりは見えなくて、量は増えていくばかり。


 とうとう勉強が分からなくなると母さんは僕を怒った。


『こんなにも愛しているのに何故出来ないの?』

『出来ないのは頑張っていないからでしょう』

『お兄ちゃんならこれぐらいの事はできて当然よ』


 母さんに怒られて、失望させてしまったのが悲しくて。

 でも頑張っても頑張っても、追いつけなくて出来ない事は増えていく一方だった。


 何とか追いつきたくて、勉強の時間以外も勉強しているのに追いつけない。


 やるべき事はどんどん増えていくのにやれる事はどんどん少なくなっていって、やれていた事さえやれなくなってきた。


 母さんは勉強の出来ない僕を怒るけど、毎朝の抱擁は欠かさず愛してくれている。


 なのに僕は……。



「エル」

「アール。僕、出来ない。お兄ちゃんなのに、勉強出来なきゃいけないのに何も出来ない。ごめん」


 アールがやって来て僕を抱きしめてくれた。


「ねえエル。母さんの事、好き?」

「え? 勿論、大好きだよ」


 当たり前の事を聞くアールを不思議に思ったけど、いつもと違って悲しそうな辛そうな顔をしていたから何も言えずジッと見つめ返す。


「母さんが、本当は僕達の事を見分けていなくても? 好きのままでいられる?」

「どういう事?」

「エルとアールを交代しよう。明日からは僕がエルになる」

「そんな事しても意味ないよ」


 だって母さんはいつだって僕達の事をちゃんと見分けてくれている。愛しているから。


 でもアールの顔はいつになく真剣だった。


「このままだとエルは壊れちゃう。もし本当に母さんが僕達を見分けているのならすぐに終わるけど、でも、もし違ったら……エルは今までみたいに母さんを好きになれなくなるかもしれない。それでも僕はエルを守りたい」


 アールの言葉に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 母さんはちゃんと僕達を見分けている。

 でも、もし違ったら……?


 そんな事ないと思ったけど、僕はアールで弟になれるのならなりたいと思った。

 本当はもっと沢山外で遊びたい。勉強だけは辛い。

 でも兄だからと必死で我慢していたから。


 母さんが僕達の入れ替わりに気づいても、一瞬でも弟になれるのなら……気づいたら何故か泣いていてアールにしがみついていた。

 アールはそんな僕を笑うこともなく、静かに頭を撫でていてくれた。


 次の日から僕はアールになった。

 エルが教えてくれた入れ替わり方は簡単で、自分の事を『エル』と言う、そして母さんに『エル』と呼ばれても反応しない、この二つだけ。


 たったそれだけなのに母さんは全く気づかなかった。

 朝に愛していると『アール』を抱きしめ、勉強を頑張りなさいと言っている。


 母さん? エルは僕だよ?

 何で気づかないの。愛しているから見分けられるんじゃなかったの。


「母さんは僕達を見分けていない。ただ右にいるか左にいるか、それで判断しているだけだよ。朝に『エル』を抱きしめるのは髪にヘアピンをつける為。遠くからでも『エル』と間違えない為に」


 昨日アールが言っていた通りだった。『エル』を抱きしめる母さんは、頭を撫でている時にさりげなくヘアピンをつけていた。

 小さな小さなヘアピン。

 何で気づかなかったのかな。


 母さんは、僕達を見分けていない。

 僕を、愛していなかった。


 そんな人の為に何であんなに必死で頑張っていたんだろう。

 そう思ったら全てがバカらしくなって、何もかもやる気がなくなって一日ボーっとして過ごした。


 よく考えたら、こんな何もしない時間なんてなかったなと思う。


 とっても充実した時間だったけど、この間に『エル』はずっと勉強漬けだったかと思うと申し訳なくて不安だった。


 その日の終わりに『エル』と話したら『エル』は笑っていた。


「僕は大丈夫。勉強は楽しいし、それに母さんは僕の事をちゃんと見ているわけじゃないから、言いくるめて納得させるなんて勉強より簡単だよ」


 それよりも、と『エル』の顔が急に真剣になる。


「母さんは『アール』を愛していないから気をつけてね。もし『アール』が嫌になったら言って、いつでもすぐに変われるから」


 今度は僕が笑った。


「僕だって大丈夫だよ。でも『エル』こそ辛かったら言ってね、いつでも変われるんだから」


 そう言ったら『アール』も笑って、二人でしばらく笑いあった。


 この日から僕はずっとアールでいる。


 時々アールかエル、どっちが僕だったか忘れちゃう時があるけど、エルが僕をアールと呼んでくれるから僕はアールでいることが出来る。


 そんな感じで楽しく毎日過ごしていたら、ある日いきなり家を追い出された。


 詳しい理由は分からなかったけど、エルがいてくれたからどうでも良かった。

 船に乗って、違う国に行って、かなり遠くまで来たけどエルも一緒だから不安な事はない。

 でも、一つだけ不満があった。


 何で母さんもいるの?


 着いたのは寒くて小さな村で、使用人は一人もいない。

 これからここで暮らすのだとエルが言った。


 今まで住んでいた家とは比べ物にならないぐらい狭くてボロボロだけど、不満はなかった。


 料理や洗濯、掃除。今までやった事ないばかりで大変だったけど、エルと二人で考えて頑張って協力するのはとても楽しかった。


「生活の勉強だね」とエルが笑いながら言ったから「こんな勉強なら毎日だってやりたいね」と言って僕も笑った。


 寒いのだって二人でくっついていれば寒くない。


 母さんだけは何もせずにいつもテーブルに突っ伏して、何か嘆いているような声で一人ぶつぶつ話していた。


 それでも、こんな生活もいいなあと思っていた。


「ねえアール。僕ね、アールなら一人でも生きていけると思うんだ」


 一ヶ月くらい経って、その日もベットに入って寝ようとしていたら急にエルがそんな事を言い出した。


「な、何? 急に。一人なんて何で、僕エルがいないと何も出来ないよ」

「うーん、じゃあ『エル』なら一人でも大丈夫かな」

「エル?」

「あのね、アール。今からでも交換って出来る? エルとアールの」


 部屋は真っ暗で明かりがないからエルの表情が分からない。何を考えているのかも、分からない。


 けれどエルの願いは叶えたい。


「それは勿論良いよ。でも交代して何か意味ってある? ここではエルも勉強しなくていいし、僕達のやる事も変わらないよ」

「うんそうだね。でも大事なんだ、ダメかな」

「ううん、いいよ。ちょっと気になったから聞いただけ。じゃあ明日から僕は『エル』なんだね。お休み」

「うん、お休み。…………エル」


 次の日起きたらエルがいなかった。


 エル? いないのはアール?


 昨日は僕がアール。確かエルは明日から交代っていたから……。


 あれ、僕は? どっち?


 ねえ、エル。エルがいないと僕は自分がどっちか分からないよ。


 部屋にはいない。家の中にもいない。

 水汲み場も薪割り場もどこにもいない。


 いない。

 いない。


 いないのは誰?

 僕は誰。


「おはようエル」


 僕を『エル』と呼ぶ母さんは珍しく笑顔だった。


「……母さん」


 僕は誰? どっち?


 僕達を見分ける事も出来ない人が呼ぶ名前なんて、何の当てにもならない。


「あのねエル、アールは遠い所へ働きに行ったの。ここは前みたいに広くて暖かい家じゃないでしょう? ご飯を作ってくれる人も掃除をする人さえいない。こんな生活嫌でしょう、そうしたらアールがね、遠くで働きに行くって。私達の為に言ってくれたの」


 母さんはそう言っているけれど、嘘だ。


 ねえ母さん。その手に持っている巻かれた紙、売買契約書だよね。


 見えてるよ。

 悲しそうな顔をしているけど、嬉しいって感情が隠せていないよ。


 この女、『アール』を売り払ったんだ。

 きっとエルはこの事を知っていたから交代するって言ったんだ。


「母さん。なら僕は頑張るよ。二人でもっといい場所に住めるように」

「ああエル、貴方は本当にいい子ね。愛しているわ」


 そう言ってこの人は抱きしめてきた。

 変わらず頭を撫でてヘアピンを取りつけ、愛していると言う。


 愛しているのは『エル』でも『アール』でもなく、このヘアピンじゃないのかと思う。


 だったら僕達を巻き込まずにヘアピンだけを愛しておけばいいのに。


「母さん、僕今から薪割り場に行ってくるね」

「薪を持ってきてくれるのね。ありがとう、早く持ってきてね」


 僕は急いで薪割り場に行って斧を取ってきた。


 薪を持ってくるなんて言ってないのにね。

 何を勘違いしているんだろう。


 なるべく静かに家に入るとあの女はまだ暖炉に向かっていて、こちらに気づいていない。


 ゆっくり音を立てないように近づき僕は斧を握り直した。


 薪割り用の斧だけど、別に薪以外を割っても良いよね。


 悪いかな。


 エルがいてくれたら教えてくれただろうけど。


 ここにエルはいないから。


 仕方ないよね。

 エルを売らなければ良かったのにね。


 振り上げた斧を、女の頭狙って思い切り振り下ろした。


 僕頑張るよ。エルと二人でもっといい場所に住めるように。

 その為には、お前が邪魔なんだ。


 頭を割りたかったけど、狙いが外れて頭だけ綺麗に落ちてしまった。

 残念。でもおかげで返り血は浴びなかったからいいかな。

 そんな事より急がないと。


 昨日、僕が眠る時は確かにエルはいた。

 ならきっとエルは早朝に売られた筈。走ればまだ間に合う。

 間に合わなくても探し出してみせる。


 斧を放り投げて僕は出口へ向かった。

 この家にもう用はない。

 エルのいなくなった家になんか何の未練もない。

 この村だって、エルがいないのならただの寒くて不便な村でしかない。

 エルがいてくれるのなら何もいらない。


 僕はそのまま家から、村から飛び出した。


 僕の名前はアール。


 ただの、アール。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る