剣聖の師
古人
プロローグ
気が付いたら見知らぬ世界にいた。しかも記憶が曖昧な状態で、だ。
ただ、はっきりと目の前にある光景に対する違和感だけは覚えていた。その感覚の根拠として村井はもっと人工物に囲まれた日本という場所で生活していたこと。そして、それらの人工物を作り出していた自身を含む人間の多くは科学を信じ、その科学という学問の一分野である物理学を基軸として物体の運動を確認していたことが彼の常識にあった。
つまり、今彼の目前で行われている大気中から何の道具もなしに大量の水を生み出して物を洗うなどといった真似は少なくとも村井が知っている現実的な光景ではないということが認識できたのだ。
少しして村井はこの世界が剣と魔法の世界であることを理解するに至った。そして残っていた記憶を手掛かりにして周囲を探ってみたところ、帝都と呼ばれる町並みやランドシンボル、何より唱えられた魔術の名前からそれが元の世界で自身が熱を上げていた大ヒット中の漫画の世界であることも理解した。この世界は原作漫画から小説化、そしてアニメ化して果てはゲーム化までされた異世界ファンタジーの世界だったのだ。
そこからの彼の行動は早かった。番外編の小説内の設定に従い、自らのステータスを確認して冒険者ギルドに登録。魔王復活の前兆である魔物の狂暴化や魔族の暗躍の活発化により、各地で難民が生まれ、その数が増えているという世界設定まで読んでいた村井は取り敢えずは生きていくためにその設定を利用することに決める。
幸い、元の世界の記憶が一部曖昧な状態ではあるが、この世界の常識というものは逆に備わっていた。そのため、冒険者生活という根無し草の上辺だけの交流では周囲の人に怪しまれることなくこの世界での生活を営むことが出来たのだ。
そんな生活が八年続いた。
八年と言う歳月は言葉にすれば一瞬だが、実際に過ごすには長かった。この世界に来る頃には平和ボケした少年だった彼も八年の冒険者生活の間で修羅場や死線を掻い潜り、大人にさせられた。
ただ、不幸中の幸いにも彼はその八年の間に原作知識と言ったある種のチートを活かすことで力や便利な魔具を蓄えつつ財を築くことが出来た。若くして慎ましい生活を送るのであれば一線を退いても営んでいけるだけの財産を手に入れたのだ。
そして周囲を顧みることが出来るだけの余裕を手にした彼は元の世界に帰る方法を探し始めた。彼は元の世界に帰りたかったのだ。家族のいる、安全で快適な文化的生活を保障された現代の日本に。
しかし、そこから二年費やしても彼は何の成果も得られなかった。同時に十年も経過してしまっては元の世界に戻っても自分の居場所などないだろうと諦めの感情も生まれて来た。
彼がこの二年間で得た収穫はこの世界が自分の知っている漫画の中の世界であることの再確認と今が原作よりも四年ほど前に当たる時期であること。それと同時に魔王が復活するまで後三年であることを突き止めたことぐらいだった。
そして彼は原作ではまだ魔王軍が侵略して来ておらず、帝都よりも魔族領から遠い地方都市に拠点を構え、日々を無為に過ごすだけの日常を暮らし始める。周囲から見れば過去の栄光で食いつないでいる落伍者のような生活を送り始めた村井。そんな彼の日常はある少女と出会うことで変化していく。
その日の帝都は朝から雨だった。人目を避けるのにちょうどいい天候だ。村井は元の世界への帰還方法を調べる際に冒険者時代の伝手を少し借りたことでその借りを返すべく帝都の南方にあるスラム街に巣食う違法ギルドの摘発に力を貸すことになっていた。
「さて、ギルドの話ではこの辺りだが……」
既に違法ギルドがいた証拠と彼らが犯した犯罪を押さえている冒険者ギルドからの情報を基に違法ギルドの拠点を探す村井。情報では不正ギルドの構成員は五名とあったが、村井は一人で行動していた。十年間の活動の結果、村井はそれだけの力があるとギルドから認定されているのだ。
「……雨だし、さっさと終わらせたいな」
村井は雨音に紛れてそう呟くと魔具を使って周囲の魔力を探知する。するとすぐに人間の魔力が不自然なまでに詰め込まれている家屋を発見した。
(ギルドの情報では違法ギルドの主な収入源が流民の不正な奴隷化と奴隷商らしいし、ここだな)
当たりをつけて家屋へと向かう村井。ノックなどというものはしない。無言で腰に下げた刀を抜くと扉を切り裂いた。
「ひっ! な、何だ!?」
物音に驚いて出て来た男。村井は無言のまま疾駆し、相手の手足を斬りつける。悲鳴が上がり、男自身はその場に崩れ落ちた。だが村井はそれを無視して男に魔術による回復を阻害する毒をかけると更に中へと進み、奥の扉を切り捨てた。
「何だァ? テメェ……」
「冒険者ギルドだ。不正ギルド結社の容疑で全員連行する。大人しくしろ」
「チッ、もうここがバレたのか……おいテメェら! こいつをぶち殺してずらかるぞ!」
どうやら相手に大人しくする気は微塵もなさそうだ。村井もそうなるとは思っていたが一応、警告として言っておく必要があったので言ったまでのこと。落胆などせずにすぐに仕事に取り掛かった。
「【迅雷】」
瞬く間の出来事。
一瞬の閃光が走った後、違法ギルドの結社員は全員、自分の身に何が起きたのか分からないままその場に倒れていた。
「チッ、何か妙な術を使いやがる……」
気付けば床を舐めていたという屈辱的な出来事に舌打ちしてすぐに起き上がろうとする違法ギルドのギルド長。しかし、自らの四肢に全く力が入らない。代わりに四肢が送って来たのは激痛という情報だった。そして彼らは自らの四肢に何らかの甚大なダメージを負っていることを遅れて理解する。
「……【沈黙せよ】」
男たちが我が身に起きたことを理解するなり響き渡った絶叫を騒音と感じた村井は溜息混じりに術者につかう魔術を違法ギルド員の面々にかけた。これで術による回復も阻止できるし、何より静かになる。一仕事終えた彼は満足げに息を吐いた。
「よし、終わりだ。さて……ギルドに報告するか」
速やかに帰宅したい村井はすぐに冒険者ギルドから支給された魔具を使ってギルドに信号を送る。それが済むと手持無沙汰になったため彼は少し奥の部屋へと進んでみることにした。
「……ん? 行き止まりか。反応はあったんだが……隠し扉か何かがあるのか?」
気になった村井は再び魔力を感知する魔具を使用する。そして今度は首を傾げる結果になった。思わず村井は独りごちる。
「……人の魔力の集合体と思っていたから気にしてなかったが、これ……何か一人巨大な魔力の持ち主がいるな。妙な魔力に侵蝕されてるみたいだが……」
魔力を感知した方向にある障害物を切り捨てて中に入る村井。果たして、その先には巨大な檻に男女が分けられて複数人が繋がれていた。だが、その中でも村井が目を惹いたのは一人。一人だけ別の檻に閉じ込められている黒髪の少女がいたのだ。
何故か苦しそうにしている彼女の方を不思議そうに村井が見ていると女性が閉じ込められている檻の中から声がかけられた。
「お客さん、その子は買うの止めた方がいいですよ。顔は良いですけど貧相ですし何より呪病にかかってます。昨日急に発症しまして……商人さん達もすぐ捨てに行くつもりみたいですから買うなら私の方が……」
どうやら村井のことを客と勘違いしているようだ。壁を切り捨てた男を客と思うのは女性が既にまともな思考回路をしていないという所作だろう。しかし、そんな些末な問題はどうでもいい。村井は彼女の証言を聞いて顔を顰める。
「……呪病か。それはキツいな」
呪病。原因不明の死に至る病だ。噂では人に感染するとも言われている危険な病で、罹れば凡そ一月ほど苦しみ抜いて死ぬことになる。
ただ、原作でこの病は一定以上の魔力を持つ者に感染せず、仮に魔力が少なくとも特定の条件を満たしていなければ感染しないことが判明している。そのため、村井にとっては原因不明の恐ろしい病でも何でもない。彼は特に感染予防することなく少女を見ていた。
(可哀想に。ま、でもこんな世界だからな……)
可哀想だが、面倒を看ても居られない。依頼は違法ギルドの討伐だ。そこに囚われていた少女の面倒まで村井が看る義理もない。この世界ではよくあることだと割り切って村井は溜息をつく。胸糞悪い気分になるくらいなら見なければよかったと思いながら村井は後のことはギルドに任せようとこの部屋に無理矢理作った入口に戻る。
「ん?」
だが、そこで村井は自身の腰に下げた刀が瞬いたことに気付いた。そして刀は雷の魔力を帯びて自らその刀身を露わにしたかと思うと少女の下へと浮遊する。その姿は村井の手に馴染んだ物とは異なる様子だ。
「……嘘だろ?」
嫌な予感がした村井がそう呟くと彼の刀は何か迷うように数度明滅した。そして何事もなかったかのように村井の愛刀としての姿に戻る。だが、村井は難しい顔をしたまま先程自身に話しかけて来た女に問いかけた。
「そこの人。この子の名前を知らないか?」
「えっ……確か、カノンちゃんだったかしら……?」
その答えを聞いた村井は天を仰いだ。その名はこの世界に来てから忘れないようにメモに残した原作の主要人物の名だったのだ。
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