間違い電話

黒うさぎ

間違い電話

 就職五年目にして、突然の辞令が下った。

 海外赴任だ。


 海外旅行すらしたことのない俺にとって、海外赴任というのは、不安を覚えるのに十分だった。

 新たな職場や業務についてはもちろんだが、それ以上の問題がひとつある。

 それは言語の壁だ。


 赴任先は英語圏の国だが、俺は英語をまともに話すことができない。

 英語を勉強したのは高校までであり、その知識すら今ではほとんど残っていなかった。

 文章であれば、単語からある程度の内容を想像できる気がするが、ネイティブと会話などまず不可能だ。


 海外赴任を断れないか上司に相談するという選択肢もあるのだろうが、これから先のキャリアアップを考えるのなら、受ける一手が最善だと思う。


 心を決めた俺は、会社の支援の一環である駅前留学に通った。

 海外赴任までの短い間ではあるが、やらないよりはましだろう。


 そして迎えた海外赴任。

 期待と不安を胸に新天地へと足を踏み入れた俺を待っていたのは、予想に反して日本語の歓迎だった。


 入国審査で定型文のやり取りを行った以外、一切の英語を話すことはなかった。

 赴任先の同僚は全員日本人だし、食事付きの社員寮に住んでいるため、インドア派な俺は買い出しにすら出かけない。

 外国にいるというのに、日本にいるときと変わらない生活を俺は送っていた。


 そんなある日のことだった。

 俺は休日に寮の部屋で惰眠を貪っていた。

 週休二日が約束された、比較的ホワイトな職場ではあるが、それでも疲れるものは疲れる。

 休日は疲労回復に努めるのが俺の日課だった。


 いつもなら出社している時間に布団のなかでまどろむ。

 この少しいけないことをしているような感覚が、非常に心地よかった。


 その時だった。

 枕元に置いてあったスマホが着信を報せた。

 正直、この心地のよい時間を邪魔されたことに少しムッとする。

 無視しようかとも思ったが、残念ながら鳴っているのは赴任先で支給された業務用の端末だった。

 私的な連絡ならともかく、仕事の電話を無視することは社会人としてできない。


 いったい誰からの電話だろう。

 何人か候補を思い浮かべながら、渋々布団から手を伸ばした俺は、スマホを手に取ると画面を確認した。


 だが、そこに表示されていたのは、登録されていない、知らない番号だった。


(誰だ?)


 疑問に思ったが、仕事の電話ならでないわけにもいかない。

 俺は通話ボタンを押した。


「はい、藤堂です」


『やっとでた。

 ねえ、あなた。

 帰りに卵とピーナッツバターを買ってきてくれない?

 今冷蔵庫を確認したら切らしちゃっていたみたいで』


 スマホから聞こえてきたのは、若そうな女性の声だった。


「……すみません、かける番号間違えていませんか?」


『えっ?

 あなた誰?』


「藤堂ですけど……」


『あらやだ!

 ごめんなさいね』


 プツリと切られたスマホから、ツゥー、ツゥーという音が流れている。

 俺はその音を聴きながら、喜びに震えていた。

 眠りを妨げられたことに対する怒りなど、どうでもよかった。


 仕事の連絡でもなんでもない、ただの間違い電話。

 だが、こんなに嬉しい電話は人生で初めてかもしれない。


 だって、俺の英語が通じたのだから。

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