スマホを落としただけなのに【KAC20215】

いとうみこと

こんなことってある?

 うちの家族はデジタル文化を信用していない。というか、得体の知れない科学全般を毛嫌いして山の中で自給自足の生活をしている。子どもの頃はそれなりに楽しかった。でも、中学、高校と進むにつれ我が家のあり方に疑問を持った私は、猛勉強の末、東京のそれなりの大学への進学を決めた。両親はもちろんいい顔はしなかったけれど、どうやら都会の汚さに絶望して娘が帰って来るに違いないと思っているようで、渋々ながらも送り出してくれた。

 生活費は成り行き上自分で稼がなければならなかったから、いくつかの、もちろんまかないのある飲食店を掛け持ちしていたのに、この一年は休業に継ぐ休業で収入の道が断たれてしまった。僅かな奨学金を頼りに爪に火を灯すような生活を続けること一年近く、不憫に思った祖父がまとまった額のお年玉を送ってくれた。

 両親と違って、祖父母は都会でデジタルまみれのIoTマンションに住んでいるのだから面白いものだ。現金書留を握りしめ、ガラケーからかけたお礼の電話口で祖父はこう言った。

「それでスマホを買いなさい。もうすぐ三年生だし、就職活動にだって必要だろう?それにスマホなら、おじいちゃんからの小遣いもすぐに届けてやれるぞ」


 そして今日、念願のスマホデビュー、となるはずだった。なるはずだったのに、今私の手の中には傷だらけのスマホと、目の前には倒れた自転車、そしてその先には運転席のドアに無数の引っかき傷がついた高級外車がある。スマホを落としただけなのに、なんだ、この地獄絵図……


 つい今しがた、コンビニの二階にある携帯ショップを出た私は、早速祖父に報告の電話をしようと鞄からスマホを取り出した。ピンクベージュの真新しいスマホは、陽の光を受けてキラキラと光っていた。


 初めてのスマホ。

 中学、高校とどれだけ友だちのスマホが羨ましかったことか。大学にだってガラケーを使っている人なんてひとりもいない。バイトのシフトを電話で確かめるのも私ひとりだった。念願のスマホ!

 その時、一陣の風が吹いて、私のスカートが派手にまくれ上がった。慌てて押さえた私の手を漫画みたいにスマホがすり抜けた。


 そこからはまるでスローモーション。


 ボールのように弾みながら階段を落ちていくスマホ。

 慌てて追いかける私。

 階段下に停めた私の自転車の脇で止まるスマホ。

 追いついて拾い上げようとした時、バランスを崩して自転車にぶつかる私。

 ゆっくりと車めがけて倒れていく自転車。

 いや〜な音を立てる車のドア。

 転んだまま呆然と見ている私。


 心臓の音までもがスローに聞こえる中、いっそこのまま逃げてしまおうかと思った。でも、コンビニの駐車場には間違いなく防犯カメラがあるし、何より警察の厄介にはなりたくないと考える冷静な私がいた。こみ上げる涙を堪えつつ、車の持ち主が現れるのを待つこと三分、コンビニからビニール袋を下げた男が出てきた。上下黒のジャージに黒のマスクにサングラス、どう見てもカタギには見えない。こんなことなら警察に連絡した方が良かった。刻一刻と男は運転席に近づいて来る。激しい後悔の中、震える体を無理やり折り曲げた。


「すみません、車に傷を付けてしまいました!」


 長い沈黙が続いた。恐る恐る顔を上げると、しゃがみ込んで車の傷を撫でている男の姿があった。

「ひでぇもんだ。こりゃ少なく見積っても五十万だな。よお、姉ちゃん、出せるか?」

「ご、五十万? む、む、無理です。あ、今すぐには無理です」

 男は首だけをこちらに向けると、サングラスの隙間から舐めるように私を見上げ、ゆっくりと立ち上がって近づいて来た。その姿は薄汚れた狼がやっと見つけた獲物を狙っているかのようで、私は足がすくんで動けなくなった。


「払えないか、そうか、じゃ、体で払ってもらうしかねえよな。なあ、姉ちゃんよ」


 男の手が私の肩に置かれた……






 二ヶ月後、私は派手なキッチンカーの中にいた。数々の飲食店でのバイトが幸いして、一ヶ月で一台の運営を任されるまでになった。メインはワンコインのロコモコ丼とポキ丼。それに見栄えのいいパンケーキも人気がある。長い自粛生活で、こうした低価格の持ち帰り弁当の需要はかなりなもので、春休み中は毎日こうして働ける。お陰で、わずかだが初めて貯金もできた。オーナーには感謝しかない。


 あの日、私の肩に手を置いたのは、都内でキッチンカー事業を運営する会社の社長だった。私はその場で否応無しにバイトに採用され、その日から働かされた。それはバイトを見つけられずにいた私にとってはむしろありがたいことだった。しかも、車の修理代は保険で下りるからと請求すらされなかった。壊れたスマホも保障に入っていたおかげでその場で新品に取り替えてもらえたし、何のことはない、私が失ったものは何もなかった。


 災い転じて福となす


 ま、運が良かっただけだけどね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スマホを落としただけなのに【KAC20215】 いとうみこと @Ito-Mikoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説