水流

@chased_dogs

水流

 今時「スマホ」と言えばスマートフォンのことであるということは世の常識となっている。しかしここに来て、人々の正気をジリジリと脅かす概念が現れた。「スマートホテル」、略して「スマホ」である。

「スマホ」が即ちスマートフォンでなくなったことで、人々は二つの異なるスマホを区別する労を払わなければならなくなった。

 少しの猜疑心も積もり積もればラクダの背骨を折るより簡単に心を折るだろう。人々の内心を侵すことが斯様に簡単であることはいつの世も変わらない。人々は真実を目の前から退け、しかし関心の尾は引いたままである。まさしくこれは呪術であった。

 それが己の心を常に苛む呪いであっても、人々が二つのスマホを手放すことはなかった。呪いの与える労苦より、スマホが与える快楽は優っていたのである。


 ところで、読者諸兄諸姉はこの新しいスマホ、すなわちスマートホテルが如何なるものか、ご存知であろうか? それはホテルであってホテルでない。旧来のホテルと共通することは、人が宿泊することだけである。

 では何が「スマート」なのか? スマートホテルとは、建造物ではなく、また建造物に紐付いた宿泊サービスでもない。高度に電子化された物流網は、過去に類を見ないサービスを実現させた。それは移動するホテルである。

 ポーターと呼ばれる人足が簡易なホテル、これ自体もまたスマホと呼ばれる、を依頼者が提供した測位情報を頼りに運搬する。ポーターはこの運搬距離や回数、運搬するホテルの種別に応じて報酬を得る。

 ポーターはまたスマホの設営をも行う。迅速さを謳ったスマートホテルサービス業界において、スマホ設営の早さはサービスの要であった。より早く設営したポーターには追加報酬が与えられ、逆に規定時間を超えた場合には依頼者への返金が行われた。

 ポーターは人の立ち入るあらゆる場所へスマホを運んだ。河川敷、ビルの屋上、大学構内、国会議事堂前、留置場、鉄道プラットフォーム、富士山頂――。


 さて、スマホが栄華を極めるころ、旧来のホテル業はどうなったであろうか。答えは単純明快。急速かつ着実な衰退である。

 力あるホテルは宿泊事業を大幅に縮小させ、テナント料などに収益を頼らざるを得なくなった。

 力なきホテルはそれすらできなかった。廃業するか、現状維持に務める以外になかった。

 こうして旧来のホテルは求心力を日に日に失い、ダムホテル、あるいは駄目ホテルの烙印を押される始末であった。


 しかしここ大津河原おおつがわらホテル一同、いや、若きホテル経営者、大津河原おおつがわら田毛だもう氏は諦めていなかった。


 田毛は考える。スマホを打倒するには如何なる策を用いるか? 策はあるのか? 経験浅き経営者たる田毛には髪の毛一本ほどの考えも浮かばなかった。若さも勇猛さも持つ田毛であったが、知略に関しては今ひとつであった。田毛自身もまたそれを自覚する。策は、ない。であれば持ち味を生かすのみである。持ち味とは即ち若さ。田毛にとって、若さとは勢いであった。

「なぁにがスマホじゃい! ダムホテルじゃい! ダム湖の眺めならウチが一番なんじゃ! ……これじゃ! ウチはもっとダム湖で売ってゆくぞ!」

 田毛の発案により、ホテルの大改築が行われた。大津河原ダムに面する景色をよりアピールするため、ダム湖の岸寸前まで客室を移動させた。物販にはダム湖に因んだ製品を所狭しと並べた。

 この珍奇な行いはしかしダム湖ファンの心を掴んだ。客脚は全盛期を彷彿とさせるほどに増していった。


 絶えず行き来する客を見て田毛は満足げに茶を飲んだ。窓外では叩きつけるように雨が降っている。ダム湖の水面はホテルのすぐ際まで迫っている。もっと降れ、降って客を増やせ……。田毛はそう考えた。田毛にとって雨は恵みであった。

 田毛の願いが届いたか、雨は止むことを知らず、どんどんと強くなっていった。


 翌朝、不幸な事件が全国の新聞に掲載された。記事にはさるダム湖の決壊により、隣接するホテル数棟が流され、宿泊客や従業員数十名が行方不明となったと書かれていた。

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