ドッペル
近藤タケル
優等生の息子
日差しの強い日だった。
五十嵐(いがらし)はふらふらと、街の中をうろついていた。白いワイシャツに黒のパンツという出で立ち、黒縁眼鏡をかけた少年のような面立(おもだ)ち、ひょろりと痩(や)せた体躯(たいく)は、五十嵐をまるで学生のように見せた。ぼろぼろの小さな肩掛け鞄をぶら下げている。道行く人たちが、五十嵐を見てくすくす笑ったり、ひそひそと話をしたりする。それも無理からぬことで、五十嵐は首に、太った老猫を巻きつけているのだ。美しい三毛猫のノルウェージャン・フォレスト・キャットである。猫はだらりと体を柳のようにしならせて、五十嵐の首にぶら下がっている。
「暑いなぁ。村田(むらた)さん、自分で歩いてくださいよ」
五十嵐が額の汗をぬぐいながら言う。周囲の人々には、気を払っていない様子だ。
村田さんは何も答えず、喉を鳴らしている。
「涼しいところで、一休みしましょうか」
くんくん、と村田さんが鼻を動かす。
「近いぞ、五十嵐」
村田さんがそうつぶやくと、五十嵐の目に鋭い光が宿った。
「向こうの角を曲がったところだ。建物の中にいるようだ」
村田さんが尻尾(しっぽ)で道を指す。
「目的地も近いことだし、そろそろ降りて歩いてくださいよ。重いし、暑いし……」
「若いうちに歩かんか。ほれ、ここだ」
メインストリートを一本脇道に入ったところに、年季の入った喫茶店があった。
「おぉ、喫茶店ですね。ようやく座って涼める。あ、そうだ。村田さん。ここは飲食店ですからね。万が一を考えて、いつものように僕のシャツの中に隠れていてくださいよ」
村田さんは渋々答えた。
「むぅ。お主のシャツの中は、居心地が悪いからあまり好きでないのだ」
「まぁまぁ。お店を追い出されちゃ、元も子もないですからね。我慢してくださいよ」
五十嵐は村田さんをシャツの中に押し込むと、喫茶店の扉を開(あ)けて、中へ入った。中は昼時ということもあって、大勢の人で賑わっていた。
「どこですか?」
五十嵐が村田さんに尋ねる。
「奥だ。五人で座っている」
店員に案内されて、五十嵐は喫茶店の奥へと消えていった。
「本当にすごいわねぇ。この前の定期テスト、全教科満点取ったんですって?」
三人の母親は、対面に座った学生服の少年に、にこやかに言った。少年の隣に座っている母親・智子(ともこ)は、それを聞いて恥ずかしそうにコーヒーをすすった。しかし、どことなく自慢げな様子である。
「ありがとうございます」
少年が愛想よく笑う。整った顔立ちに甘い笑顔。母親たちは感嘆のため息を漏らす。
「翔(しょう)ちゃんは本当に素敵ねぇ」
「うちの息子にも見習ってほしいわねぇ」
「学校から帰ったら、おうちのお手伝いもしてるんですって? お母さんから聞いてるわよ。勉強も家事もできるなんて、すごいわねぇ」
翔は智子のほうをちらりと見て、にこにこ笑っている。
「皆さん、褒め過ぎですよ」
称賛の声を浴び続け、しかし智子は、まんざらでもない様子だ。
それから一時間ほど、同じ調子で雑談が続いた。学校での様子、家での話、愛想のよい振る舞い。三人の母親は翔を褒めちぎり、智子は照れながらそれを聞き、翔はにこにこ笑っている。
やがて、三人の母親の一人が、時計を見て言った。
「あらやだ、もうこんな時間だわ。私、そろそろ失礼するわね」
それを聞いて、残りの二人も時計を見て、帰り支度を始める。
「私たちも、そろそろ行くわね」
「翔ちゃん、智子さん、またね」
翔と智子は、立ち上がって礼を言った。
母親たちがいなくなると、智子は「ふぅ」と疲れた様子で、腰を下ろした。
「母さん、大丈夫? 疲れた?」
翔は、心配そうに智子の顔を覗(のぞ)き込む。
「大丈夫よ。翔ちゃん」
二人が一息ついてコーヒーを飲んでいると、いきなり男が声を掛けてきた。ひょろりと痩せた体格に、腹の部分だけが妙に出っ張っている。五十嵐である。
「こんにちは。ここ、空いてますか?」
智子はいきなり現れた男に、警戒して少し身構えた。対照的に、翔は愛想よく笑う。
「どうぞ。お兄さん」
「しょ、翔ちゃん……」
「大丈夫だよ、母さん」
「突然すみませんね」
五十嵐は二人の対面に座ると、にこやかに言った。
「僕、五十嵐っていいます。しがない旅人なんですけどね。この街に来て、いい感じの喫茶店を見つけて嬉しくなっちゃって。申し訳ないんですけど、先程から会話が少し聞こえてきちゃいまして」
「そうでしたか」
そつなく五十嵐の相手をする翔。智子は、翔と五十嵐を交互に見ている。
「いやぁ、外は暑くて、嫌になっちゃいますよ。ここはエアコンがきいてて涼しいし、コーヒーは美味しいし。いいお店ですね。あぁ、そうそう。先程からお話聞いちゃってましたけど、あなた、翔君、でしたっけ。とっても素敵な方のようですね」
「そんなことありませんよ。皆さん、僕を買いかぶりです」
にこにこ笑いながら、翔はコーヒーを飲む。
五十嵐もコーヒーを飲みながら、続けた。
「旅をしていると、いろんな話が耳に入ってくるものでしてねぇ」
五十嵐が何を言おうとしているのか測りかねて、しかし笑顔を崩さないまま、翔は五十嵐の顔色を伺(うかが)っている。
「ある日突然、人間がもう一人の自分と入れ代わっちゃう、なんていう怖い話、聞いたことありません? 例えば、すごく乱暴者で素行の悪い人が、周囲の人間に迷惑をかけていたとしましょう。周囲の人間は『この人さえいなければ』と強く願うでしょうね。そうすると不思議なことに、その願いによって、その乱暴者が『オリジナルと逆の性質をもったもう一人の人格』を生み出すんです。その、もう一人の人格は、時間が経つと、オリジナルに成り代わってしまう。乱暴者は消えて、逆の性質をもった人格が残る。周りは大喜びするわけです。僕たちは、このもう一人の人格を『ドッペル』と呼んでいます」
明らかに、智子の顔が青くなる。飄々(ひょうひょう)と話しながらも、五十嵐はその変化を見逃さなかった。
「初めて聞きました。面白い話ですね」
翔は落ち着いた様子で、にこにこ笑っている。
「そうでしょう。さて、僕はもう旅立つことにしましょう。不思議ですね、あなたにはもう一度、会えるような気がしていますよ」
五十嵐は席を立ちながら、翔に言った。
翔は愛想よく、五十嵐を見送った。智子はうつむいて、五十嵐のほうを一度も見なかった。
「やれやれ、やっと狭いシャツから出られる」
村田さんは店の外に出るなり、五十嵐のシャツから飛び出すと、ぶるぶると体を震わせた。
店から少し離れたところに、見覚えのある三人の女性が立っていた。
五十嵐と村田さんは、すれ違うふりをしながら、三人の女性の話を伺った。
「どういうことなのかしらねぇ。翔ちゃんって、学校でも指折りの不良だったでしょう?」
「暴走族と関係をもっているとか、反社会的な事務所に出入りしてるとか、いろいろ噂があったわよねぇ」
「あんなにおとなしくていい子になっちゃうなんて、もしかして、別人だったりして?」
そう言って、ケタケタ笑う。
三人の女性の横を通り過ぎて、五十嵐は村田さんに話しかける。
「どうですか、村田さん」
「間違いなかろう。あの翔とかいう小僧」
「そうですよね。オリジナルの位置は分かりますか?」
「残念ながら、分からん。だが、あれを追えば、オリジナルのもとに辿り着けよう」
「喫茶店から出てくるのを待って、刑事ごっこといきますか」
「おい、五十嵐」
村田さんが、肉球のついた前足を、くいっくいっ、と動かす。
「はいはい、何ですか」
五十嵐がしゃがみこむと、村田さんは勢いよく飛び上がって、五十嵐の首に巻き付いた。
「うわっ、重い! ちょっと、またですか!」
それから五十嵐と村田さんは、喫茶店の入り口が見える路地裏に身を潜めて待っていた。
夕方になって、翔たちが喫茶店から出てくるのが見えた。密かに後をつける。近くの商店街を通って、住宅街に入っていく。村田さんが、くんくんと鼻を鳴らす。
「オリジナルの臭いがする」
「やはり、自宅にいるんでしょうかね」
五十嵐が注意深く親子のあとをつけていくと、数人の学生服の男たちが見えた。制服をだらしなく着崩していて、ピアスやネックレス、指輪などのアクセサリーをしているガラの悪い男たちだ。
「翔ちゃ~ん」
男たちは、翔に絡んでいく。
「あ、あなたたち」
智子が弱々しく声を出す。
「すっこんでろよ、ババア」
「おい翔、お前どういうつもりだ? 俺たちのチームを抜けて、いい子ちゃん気取りかよ」
翔は黙っている。
「何とか言えよ」
不良の一人が、翔の胸ぐらを掴む。
「やめて、やめてください」
智子がそれをやめさせようと、不良にすがりつく。
「うっとうしいんだよ、ババア!」
別の不良が、母親を突き飛ばした。
その時、翔が動いた。自分の胸ぐらを掴んでいる不良の腕を掴み、思い切りひねりながら投げ飛ばす。
「うわっ!」
不良は地面に叩きつけられる。
「何しやがる!」
他の不良たちが、一斉に色めき立つ。
「母さんに手を出すやつは、許さない」
「こ、この野郎、なめやがって! やっちまえ!」
不良たちが翔に飛びかかる。
翔は、襲いかかってきた不良たちを、次々に倒していく。目をみはる強さだった。あるいは顔を、あるいは腹を殴られて、不良たちはひるんでしまった。
「や、野郎」
「お、おい、どうするんだよ」
「ちッ、しょうがねぇ。てめぇ、覚えとけよ!」
まだ元気な不良たちは、地面に転がって苦しそうなうめき声をあげている不良たちを引きずって、逃げていった。翔と智子だけが、赤い夕焼けのまぶしい路地に残される。
「しょ、翔ちゃん……」
「ごめんね、母さん。大丈夫?」
翔は智子に手を伸ばす。智子は息子の手を取り、地面にしゃがみこんだまま泣き出した。
「翔ちゃん、怖い人たちと関わり合いになるのは、もうやめてよ」
翔は穏やかな笑顔で、智子に答えた。
「大丈夫だよ、母さん。僕は生まれ変わったんだ。もう、怖い思いをさせないよ。今まで迷惑をかけた分、母さんに恩返しするよ。絶対に」
「翔ちゃん……」
二人は夕焼けの中を、家路についた。
物陰から様子を伺っていた五十嵐と村田さん。
「うるわしき家族愛、ってところですか」
「仮初(かりそめ)のな」
「このまま後をつければ、オリジナルの位置も分かるでしょう」
翔たちの後を追いかけると、小さな一軒家に着いた。
「ここですかね」
「間違いないだろう」
「では、中に……」
五十嵐がインターホンを押そうとすると、ガチャリ、と家の扉が開(ひら)いた。出てきたのは、翔だった。
「やはり、あなたたちでしたか」
翔は穏やかに笑いながら、外に出てきた。
「誰かにつけられているような気がしていたんです。あの不良たちをやったときも、見ていましたね。しかし、正面から入ってこようとするとはね」
五十嵐は、黙って翔を見つめた。
翔は五十嵐に言った。
「明日、僕の学校に来てもらえませんか」
「学校に?」
「はい。お話しておきたいことがあります。ここで話したいところですが、母に余計な心配をかけたくありません」
「……分かりました」
「では、今日はもうお帰りください。さようなら」
翔はそれだけ言うと、家の中に消えていった。
翌日。
五十嵐と村田さんは、とある高校の体育館裏にいた。
目の前には、翔が立っている。
「来ていただいて、ありがとうございます」
「おい、五十嵐。気をつけろ。秘密を知られて、襲いかかってくるかもしれない」
村田さんがそう言うと、翔は村田さんのほうを見た。
「そんなことしませんよ。ご心配なく」
「あなた、村田さんの言葉が分かるんですね。やはり……」
「そうですよ」
翔は二人に背を向けた。
「僕は、ドッペルです」
「村田さんは、ドッペルの臭いを嗅ぎ分ける力をもっています」
「そうですか。僕も母さんも、ずいぶん運が悪いですね」
翔は五十嵐たちに向き直って言った。
「単刀直入に言います。僕たちのことを、放っておいてほしいんです」
「そういうわけにはいきません」
決然と言い放つ五十嵐に、困った様子で、翔は頭をかいて笑った。
「そう言うと思っていました。しかし、今、母さんは幸せなんです。あなた、五十嵐さんでしたか。あなたが介入することによって、母さんの幸せは失われてしまう。それでも何かするつもりですか」
「僕たちは、今までいろいろなケースを見てきました。あなたのように懐柔してくる者、力に訴える者、逃げようとする者、さまざまです。しかし、ドッペルというのは、この世界にあってはならない存在。オリジナルを殺し、それに成り代わる影のような存在。あなたの存在によって、もう一人のあなたが死のうとしている。僕は、あなたを死なせるわけにはいきません。現実を見るべきです。あなたも、あなたのお母様も」
翔は、黙って五十嵐の話を聞いていたが、やがて少しうつむいて、笑った。
「僕によって、僕が死のうとしている、か。確かにそうかもしれませんね。……それでも、仮初の命だとしても、僕は母さんの笑顔を見ていたい」
気がつくと、日はずいぶん傾いていた。
翔は踵(きびす)を返して、五十嵐に言った。
「どうか、見て見ぬふりをしてください」
翔は去った。残された五十嵐は、厳しい目で、消えていく翔の背中を見つめていた。
その日の夜。
五十嵐は、翔の自宅の前に来ていた。周囲の家はすっかり静まりかえっている。
「村田さん、オリジナルがどの部屋にいるのか、分かりますか?」
「うむ。二階の角の部屋から強い臭いを感じる」
「では、登って入ってみましょうか」
五十嵐は塀やパイプなどを伝って、すいすいと屋根の上に登った。村田さんは、五十嵐の首にしっかりとつかまっている。
「いつ見ても、泥棒に向いているな、お主」
「勘弁してくださいよ。この部屋ですか?」
「うむ」
五十嵐は窓から慎重に中を覗き込んだ。明かりはついておらず、部屋の中は真っ暗だった。窓に鍵がかかっているのを確かめると、五十嵐は鞄からいくつか工具を取り出して、器用に窓ガラスを切り取り、中に手を突っ込んだ。
「開きましたよ。あ、泥棒って言わないでくださいね。人命救助のためですから」
村田さんは何も言わず、尻尾をぶらぶらさせている。
中に入った瞬間、黒い影が五十嵐に向かって飛びかかってきた。五十嵐は素早く身をかわす。背後の窓ガラスが、勢いよく音を立てて粉々になる。
そして、部屋に明かりが灯る。金属バットを持った翔と、震える手で包丁を構える智子が目に入る。
「やっぱり来ましたね」
翔は目を爛々と光らせて、バットを構える。
「五十嵐さん、恨みはありませんが、ここで死んでください」
翔は力任せにバットを振り回す。部屋にある机や戸棚が、次々と激しい音を立てて壊れていく。五十嵐は軽い身のこなしで攻撃を避け続ける。
「五十嵐、何とかしろ」
他人事のように、村田さんが言う。
「村田さんは気楽なんだから!」
五十嵐はそう叫ぶと、翔の一瞬の隙をついて、腹に思い切り当て身を打ち込んだ。
「うっ!」
翔は苦しそうにうめき声をあげて、バットを落とす。そのまま膝をついて、咳き込む。
五十嵐は、部屋の入り口で震えている智子に向き直った。
「奥さん、僕の話を聞いてもらえませんか。僕は、翔君を助けにきたんです。翔君の命は、今たいへん危険な状態にあります。こんな、手荒な真似をしておいて、話を聞いてくれというのも無理がありますが……」
智子はがくがく震えながら、絞り出すように言った。
「や、やめて……翔は、翔は……」
「ここにいる翔君は、翔君ではありません。影の存在、ドッペルです。ドッペルはその性質上、オリジナルである本体を殺して入れ代わってしまう。そうなる前に、本物の翔君と、ドッペルが接触しなくてはならない」
智子は、悲しい目で、苦しそうにうずくまる翔を見た。
五十嵐はそっと部屋の電気をつけた。そして、クローゼットの扉をカリカリとかきむしっている村田さんのところへ行くと、扉をそっと開けた。ちょうど人が一人分入るほどの、ウォークインクローゼット。
中には、茶髪の少年が、ロープで締め上げられて転がされていた。猿ぐつわをされ、弱りきって気を失っている。ずっと泣いていたのだろうか、涙のあとが顔を濡らしていた。辛うじて呼吸はしている。
「この方が、本物の翔君ですね」
「やめて……」
「奥さん。今ならまだ、間に合います。翔君は……」
「やめてッ!」
智子は包丁を振りかぶり、五十嵐に飛びかかってきた。しかし、五十嵐は包丁が振り下ろされる前に、智子の手首を掴んで、包丁をはたき落とした。武器を奪われ、智子は泣きながらその場に崩れ落ちた。そして、小さな声で話し始めた。
「……この子の父親が亡くなって、翔はずっと暴れてきたんです。悪い仲間とつるんで、人に迷惑をかけて、家では大暴れして……学校や警察に呼び出されたことも、何度もあります。私にも、何度も何度も暴力を振るって、もう耐えられません。翔がある日、人が変わったようになって、私は驚きましたが、嬉しかった。これまでの辛い日々に、もう耐えなくていいのかと思うと、肩の荷が降りたような気がしました。翔は『本物になる』と言いました。そうするためには、元の翔を閉じ込めておく必要がある、と……」
「……ドッペルの性質上、一度生まれると、オリジナルに成り代わろうと、周りの人間を説得します。たいていの場合、周囲の人間はそれを受け入れ、オリジナルを監禁することがよくあります」
「あなたが何のために、こんなことをしているのか分かりません……でも、私の気持ちが分かりますか? 翔を食べさせるために、毎日必死で働いて……家に帰れば、その翔に際限なく暴力を振るわれる。家のものを壊して、人に迷惑をかけて、何度も何度も呼び出されて……近所には後ろ指をさされる。私は何のために生きているんですか……。翔がまっとうな人生を歩んでくれるようになるなら、本物と入れ替わってでも、そうしたほうがいいんじゃないかと、私はその子の要求をのむことにしたんです……」
「……お察しします」
五十嵐はひざをついて泣きながら話す智子の肩に、そっと手を乗せた。
「しかし、この子は、本当の翔君ではありません。あなたの息子さんは、今まさに、死のうとしている。本当の息子さんを殺して幸せになるというのは、翔君にとって、あんまりじゃないですか」
「ううっ……」
智子が泣いていると、ドッペルが立ち上がった。優しく微笑んで、智子に言った。
「母さん、ありがとう」
そして、クローゼットに静かに歩み寄る。
「翔ちゃん……」
「僕は本物にはなれない。僕を生んだ人が、オリジナルへの思いを取り戻したとき、ドッペルは力を失う」
そして、ドッペルはクローゼットの中の翔に、手をかざした。
「わずかな間でも、一緒にいてくれて、ありがとう。愛してくれて、ありがとう。本物の翔君を、一生愛してあげてください。あなたはこの世に一人しかいない母親で、翔君はこの世に一人しかいない、息子です」
ドッペルとオリジナルが、白く幻想的な光に包まれる。部屋中が光に満たされて、光が消えたとき、ドッペルの姿は、もうどこにもなかった。
クローゼットの中の翔が、うわごとのようにつぶやいた。
「かあ……さん……」
智子は泣き崩れた。
五十嵐は立ち上がり、言った。
「救急車を呼んでおやりなさい」
そして、部屋から出ていく五十嵐。村田さんも五十嵐のあとに続いて、静かに部屋から出ていく。
「一つ、言い忘れていたことがありました」
五十嵐は、振り返って智子に言った。
「いろいろとドッペルの性質についてお話をしましたが、最後に。ドッペルは、オリジナルと逆の性質をもちますが、オリジナルが本来もっている性質しか発露しません。翔君は、本当は心優しい、お母さん思いの子なんですよ」
声をあげて泣く智子を背に、五十嵐と村田さんは家を後にした。
五十嵐と村田さんは、深夜の街を歩いていた。村田さんは力なく、柳のようにだらりと五十嵐の首に巻き付いている。
「今回も、どうにか解決、でしょうか」
「うむ。そうだな」
「毎回、辛いですね。ドッペル絡みの案件は」
「お主はよくやっているよ」
「村田さん……」
五十嵐が村田さんを見る。村田さんは五十嵐と目も合わせずに、つんとすましている。
「それより五十嵐、歩くの疲れた。腹が空いた」
「もう、子どもですかっ」
五十嵐が歩みを止める。
「でも、そうですねぇ。こんな時間ですし、どこか宿でもとりましょうか」
「うむ。それがいい」
「このあたりに、ペット可のホテル、あるかな……」
村田さんは、尻尾で五十嵐の顔を打ち付けた。
「痛い! 何するんですか!」
「私はペットではない」
「はいはい、分かりましたよ」
五十嵐と村田さんは、夜のネオンの中に消えていった。
ドッペル 近藤タケル @tkondo0121
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