第36話 自己表現の手段

 7月上旬。

 梅雨前線と異常気象の合わせ技で、首都圏に猛烈な雨が降った。多摩川と江戸川と隅田川と荒川が氾濫しそうになったが、幸いにも大事には至らなかった。小さな河川で堤防の決壊があり、多数の床下浸水といくつかの床上浸水があった。

 雨があがった翌日に、ボクらはベランダのシーンを撮影するため、土岐さんのマンションを訪問した。

 4月なのに気温が42度という設定である。人間の気象予報士が誰も予想しなかったのに、シンギュラリティAIが人類を超える知能で天気予報を当てるという重要なシーンだ。

 実際にも撮影日の気温は38度まで上昇し、土岐さんは暑さを演技する必要はなかった。

 困ったのはボクだ。アンドロイドは汗をかかない。でもゴスロリを着たボクは外にいると5分で汗をかいてしまう。

「速攻で撮ろう。セリフは少ない」と藤原監督が言った。

「土岐はしばらくベランダに出ていろ。汗をたっぷりかいておけ。愛詩はガンガンに冷房を効かせた部屋で待機」

「えー、この暑さの中に放置ですかぁ。会長冷酷」

「うるさい。10分後に撮影開始。汗だくの土岐を撮らせてもらう。愛詩は暑さを微塵も感じさせるな。その対比がいい絵になるはずだ」

 土岐さんはベランダに追い出された。ボクたちは涼しいリビングで冷たいジュースを飲んだ。うらめしそうな主演男優の顔。ちょっと可哀想だが、藤原さんと小牧さんは困り顔を見て笑っている。性格悪いなぁ。

「撮影3分前」と監督が言い、ボクらはベランダに出る用意をした。土岐さんは汗だらだら。唇を尖らせて不平不満を表している。ボクも笑いそうになってしまった。

 いけない。シンギュラリティAIアンドロイドは笑わない。

 と意識しすぎたら、「うくっ、くっ、あははははははっ」と爆笑してしまった。

「愛詩! 撮影2分前。真剣勝負だぞ。おれたちはプロではないが、プロのつもりになってみろ。金をもらっている女優が演技中に吹き出したら、二度と使ってもらえないぞ」

「はい!」

「撮影1分前。ベランダに出るぞ」

 窓を開け、外に出た。気温38度。直射日光が暴力のようだ。

 ボクは土岐さんの隣に立って、空を見上げた。監督がカメラを構えた。尾瀬さんがカチンコを合わせた。

 カメラがボクたちを撮り始めた。ボクと土岐さんは異常気象の空を見ている。土岐さんは時ならぬ高気温とそれを当てたAIに驚き、ボクは何の驚きも喜びもなく無表情を保っているシーンだ。

 1分間、無言が続いた。ボクは耐え難い暑さを平然とした表情で耐えなくてはならなかった。

 監督が手で合図を出した。

「気温摂氏42度です」

「マジかよ。当たりやがった。暑いな」

 さらに1分間、同じ表情を保たされた。

「カット!」と監督が叫ぶのと同時に、ボクの額から汗が流れ出した。

「よーし、一発オーケーだ。いいシーンが撮れたぞ」

 ボクたちはリビングに戻り、ジュースを飲んだ。土岐さんが一番美味しそうだった。

「愛詩さん・・・」と尾瀬さんから話しかけられた。

「はい」

「あなたは小説を書く。もしそれが自己表現の手段なら、あなたには小説以上に向いているものがある・・・」

 ボクは目を見開いて、尾瀬さんを見つめた。何を言われるか想像がついた。

「女優だ。演技が上手い。美少年的な美少女という個性。華がある。愛詩さんが自己表現したいのなら、女優をめざした方がいい・・・」

 ボクは一瞬沈黙してから言い返した。

「ボクは物語を紡ぎたいんです。村上春樹様が大好きだけど、他にも多くの作家の物語を楽しんだし、ときには救ってもらったりした。作家になりたいです」

「人には適性というものがある。あなたは稀有な女優の才能を持っている。おそらく小説家としての才能を遥かに凌駕している・・・」

「俺も同感だ」

 尾瀬さんだけでなく、SF研の男たち全員が同意の眼でボクを見た。

「ボクはまだ小説を書く修行をしている最中です。可能性はある」

「女優になるなら、若いうちから活躍した方がいい。女優として成功してから、作家になっても遅くはない・・・」

 尾瀬さんは心からボクに忠告してくれている。彼の真摯な眼差しがボクを刺す。

「むしろ女優の経験が小説を書くのに活きると思う・・・」

 ついにボクは言い返せなくなった。

 

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