第5話 夏美との電話

「もしもし」と応答したのはおそらく夫、大黒仁志(60歳)の声だろう、大黒も元はK病院に勤めていた薬剤師であるが、祥子が退職したあとくらいに独立して調剤薬局を開業し、同じ頃に夏美と結婚したのだ。


「夏美さんいらっしゃいますか」

名乗らず淡々と声を発してみたら、案の定

「誰ですか」と、威圧的な声が返ってきた。


「旧姓 鍵井です」とだけ伝えた、すると無言のまま夏美の声に変わった。


「ごめん、たった今主人が帰ってきたところやから、落ち着いてから掛け直すわ」と申し訳なさそうに電話を切ろうとする、祥子は慌てて付け足した。

「忙しい時間帯にごめんね、留守電をくれていたから早い方が良いと思って掛けさせてもらったのよ、私の要件は中島さんの経営している薬局名を教えてもらいたかったのだけど、旦那様が帰宅されているなら聞いておいて貰えないかな」

 

 最初に夏美の留守電に声をいれたのは祥子の方であるが、その留守電を聞いた夏美が祥子の留守電に声を入れてくれていたのだ。

 

「えっ、中島さんは薬局経営していなかったよ、昔、うちの薬局で働いてくれていたけど、今はどうされているか分からないのよ、とりあえず後で掛けなおさせてね」


「えっ、旦那様の薬局で働いてはったんや、そしたら電話番号など教えて貰えないかな、個人情報やから無理やろうね、せめて消息だけでも知りたいから聞いてみてくれるかな、明日また掛け直すから、聞いておいてね、じゃあね」

 祥子は夕飯時に電話を掛けてしまったことを後悔し、そそくさと電話を切ろうとした。しかし


「掛け直すから待っていてね」と念を押されて電話は切れた。夏美にとってみれば夫の帰宅の方が優先事項なのだと知り、がっかりしながら夕飯の支度に取り掛かった。すると予想外に電話は早く掛かってきて、


「もしもしカギちゃん、さっきはごめんね、電話をくれてありがとうね、嬉しかったよ」と、先ほどとは違って夏美らしい初々しい声が耳に飛び込んできたので、直ぐに気を取り直した。

 

 夏美とは看護学生校時代の級友で、学生時代には一緒に年末の花売りのアルバイトをしたこともあり、同じくK病院に就職し、退職する直前まで同じ内科病棟で働いていたこともあるので懐かしさが込み上げてくる。

 電話ではなく直接会いたいとも思うが、何故かしら約束を交わす気にまではなれない、7年前に会った同窓会の時もメールアドレスを交換するわけでもなく別れていた。そして何故だか、夏美は穏やかで明るく誰とでも打ち解けられる性格であるにも関わらず、他の級友たちとも交流がなさそうなのだ。


「本当に久しぶりやわ、ところで晩御飯はもう食べたの」と聞くと

「主人が急に帰ってきたから」と、的を得ない答えが返ってきた、

「いつもはもっと遅いのかな、きっと接待とかで外食も多いのね」

「帰ってこない日もあるから」

「出張も多いんやね、忙しそうやね」

「・・・仕事の事は良く分からないの」

「ふーん、そうなんや」


 夫婦間で何かしらの事情がありそうだが、詮索をするのは避けた。

「ところでな、随分昔の話になるけれど、私が結婚する前に、I病院で働いていた時期があってね、そこへ薬を運び入れる中島さんを何度か見かけていたから、てっきり中島さんが薬局を経営していたのだと思ってたのよ、でも勘違いやったんやね、それで今はどうされてるのかしら、ご主人にも聞いてくれる」

「うちを辞めてから、だいぶ経つから全然わからないのよ」

「ご主人も御存じないの?」

「・・・・うん」


 聞いてくれるつもりはなさそうなので、情報を貰うためにS病院の被害のあらましを説明することにした。


「あのね、最近過去の出来事が見えて来るのよ、妄想ではないのよ、本当のことよ、それでね、私が21歳のS看護学生やった時に、生理痛が酷かったからS病院婦人科に受診したことがあったの、その時に

『妊娠出来ない体になったかも知れないから検査する』と言われて、内診台に上がったのよ、そしたら

『大きな音が出る、聞こえたら耳が潰れるかもしれないから耳を塞いどけ』と言われたのよ、私は言うとおりにしたけれど、何も触れられなくて、内診室をでたら

『あんなに緊張していたら検査なんか出来るか、もう帰れ』と言われたの、それから精算を待っていると案内カウンターに呼び出されてね、そこで何人もの事務員に顔をジロジロ観られながら、何度も名前を確認されたものだから苛立っていたの。その様子を真面目な事務員に気づいて貰ったのだけど、その時に「写真」とい声が聴こえていてね、その時は胸のレントゲン写真の事だと思って

『胸の写真は撮っていませんよ』と言ったのだけど、たぶんその写真は盗撮写真だったと思うの、カルテには月経過多とか適当な病名付けられてカルテに貼られて、それ以来ずっとカルテ室で見世物になっていたみたいなの、それで30歳の時に看護実習の指導者としてS病院に行ったときに、実物が来たとばかりに周囲に騒がれていたの、だけど当時は、S病院は猥談が多いところ、くらいにしか思っていなかったの、ある時に写真らしきものを顔の下に翳されて、顔と見比べられてニヤニヤされた事があったのね、結局その人たちは上司の人に咎められたみたいだけど、猥談ばかりだったの、その中で

『顔が性器にしか見えない』と言われた言葉を思い出してね、その言葉はK病院のスキー旅行でプロパーからも言われていたってことを思い出したの、だから、その人がスキーの時の私の顔写真をS病院に渡したのだと思うの、そんなふざけたことをするからS病院で私の顔を見ただけで、直ぐにカルテの人物だとばれたのだと思うの・・・だからプロパーの名前と製薬会社を突き止めたいのよ」

「そんなに酷い目に遭っていたなんて、可哀そうに、それで、旦那様には言えたの・・」

「夫はね、『せっかく幸せに暮らしているのだから、思い出さんとき』と言うのよ、でも自殺をした人がいるかもしれないから、落ち着かないのよ」

「えっ、自殺を!」

「21歳の診察の時に、医師の他にもう一人いたの、検査をするといっていたから、研修医だと思っていたけれど若い男性事務員だったかも知れない、その人はきっと『手伝って』と言われ、荷物を持つ程度だと思って入ってきてしまったのよ。生理中に下腹部を押されて流血させられていたから、緊急だと思い込まされたのね。私は検査が始まると思って力んでいた時だったのだけど、医師に陰毛を捲って手で押さえさているように指示されていたわ、でも待っていても検査はされなかったの、それで医師は立ち去って、その人と二人になっていて、その人の膝が震えているのが見えたの、その人に診察台を降ろして欲しいと喋りかけたら、慌てて外へ行ったのね、それでやっと看護師が来て降ろしてもらったのだけど、診察室に戻ると、医者に

『あんなに緊張してたら検査なんか出来るか!もう帰れ!』と言われて、腹を立てて外へ出たら、扉で立ち聞きをしている事務員とぶつかって、その人は私の顔を見たとたんに顔面蒼白になって、ムンクの叫びのような様相になってよろけていたの、その時は診察室の中にいた人だとは気づかなかったけれど、きっとその人が中にいた人なのだと思う、そんな私が9年後にS病院に現れて、そこで見世物になっていることを目の当たりにしたのよ・・・実習最終日に食堂で寛いでいる時にね、女子事務員が『○○君が自殺した』と言って駆け下りて来る場面が見えたの、そして女子事務員の一人が私のところに来て

『○○君知っているでしょう』と言ったの、その時は

「知らない」と答えたけれど、胸騒ぎがして落ち着かないのよ」


「そんな酷い事が・・・・・、旦那さんはなんて言っているの?」

「夫は『誰が死のうが関係ない、忘れろ』と言うけれど・・・、」

「・・・・カギは気になるよね・・」

夏美は沈んだ声で共鳴してくれた。

「そうなのよ、命に比べると、『股くらい何!』って思うよ・・・もしも私の息子がそんな目に遭っていたらと想像すると、痛々しくてしょうがないの、それにね、その写真には、その人の手が写っていたみたいなのよ」

「えっ!・・・ 手が!・・・」

「うん、実習が終わってから、病棟の指導者さんと主任さんとで実習慰労会があったのだけど、今思うと、私自身がどこまで気づいているかを探ることが目的だったと思うの、その時にね、実習初日に『生きていてくれて良かったー』って言ってくれた人がいることを伝えたら、二人は顔を見合わせて『あの手』って言ったの、だからきっと写真には手が写っていたのよ、可哀そうに・・・、きっと、ずっと誰にも言えずに苦しんでいたに違いないわ・・・、私はこの件をうやむやにはしたくないの、既に時効になっているから、手記を書いて加害者の罪を活字の中に残そうと思い始めたの、だから情報が欲しいのよ」

「え!・・こ、わ、い、」

「なんで、こわいの?」

「・・・・・・・・旦那様は許してくれているの?」

「書くことで私の気が済むのならどうぞ、と言っている」

「・・被害に遭っていたことも、許してくれているの」

「だって、私は被害者だもの」

「・・うちだったらダメだわ・・・」

「被害者だというのに?」

「・・・・うん・・・優しい旦那様で良かったね・・・、」


「それでね、何か分かったら教えて欲しいの」

「・・私は何もわからないから、ごめん」

「うん、わかったら教えて欲しいの、大黒さんにも聞いておいて貰えないかな」

「・・・何も分からないと思う、うちを辞めてから随分経つから、・・・手記は頑張ってね、何の力にもなってあげられなくて御免ね、でも電話をくれて嬉しかったよ」と、電話を切った。


 K病院に勤めている旧知達は、被害のあらましを説明しても

「心の傷が癒えますように」とは言ってくれるが、

(もう連絡しないで)という風にも聴こえ、

「妄想も混じっていそうだから精神科へ行った方が良い」と言われたこともあった。夫も無表情に聞き流すだけだし、祥子はまるで孤島に漂着したかのような心境だったのだ。そんな折に夏美は共鳴してくれるように相槌を打ち、祥子の言葉を最後まで聞いてくれたので、中島さんの情報は得られなかったが、わずかではあるが憂さが晴れ、電話を掛けて良かったと思えた。また直ぐにでも話したい衝動に駆られていたが、不愛想に応対した大黒の

「誰ですか」という声が耳に残り、電話が掛け辛いと思うと同時に、夏美の

「優しい旦那様で良かったね」と言う、沈んだ声が気になった。


 祥子48歳、2011年の夏美との会話が蘇った。


 看護婦学校の同窓会の後に、電車で来た者は車で来た人の車に同乗させてもらい二次会へと向かった。祥子は長年の友人であるトシちゃんの車に乗ったが、出発しようとしたときに、誰の車にも乗れなかった夏美にトシちゃんは声を掛けてあげた。


「乗せてくれるの、嬉しいわ、有難う」

昔はあんなに親しくしゃべり合った仲なのに、夏美のよそよそしさが気になった。

「なんでそんなに遠慮するの」

「だって、みんな私の事を避けているから、ほら」

バッグミラーには、波子が豆鉄砲を喰らったような顔をしてこちらを見ていた。

「夏美は結婚退職したよね、専業主婦は大黒さんの希望だったの」

「働くつもりやったけど、皆の目が冷たくなって、辞めざる得なくなったの」

「本当に?」

「信じて貰えないかも知れないけれど、カギが退職したあと、病院内の雰囲気が変わってね、どこに行っても無視されるようになってね、そのことを大黒に相談したら『そんな奴らの事は無視したらええ、結婚退職せえや』って言うから辞めたの、その言葉がプロポーズになっているのよ」

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