アイデンティティ・クライシス

各務ありす

自己同一性

「あなたのIDが漏洩している可能性があります」

端末が突然に表示した画面を見て、合坂は愕然とする。


スマートフォンと住民基本台帳は一体化しているため、IDが漏れたのなら、住所などの個人情報が漏洩したことになる。


合坂は画面をタッチして消去した。

スマートフォンからの漏洩など都市伝説だと思っているし、IDを知られたところで何ができるのだろう。


───これはタチの悪いフィッシングだ。



スマホを尻ポケットに突っ込み、合坂は家路を急いだ。このあと友人との会食の予定があったが、あの画面が引っかかる。IDや住所を知っているだけでは、大したことはできないはずだが、家の様子が気になったのだ。


信号待ちで友人にメールを送る。

「少し遅れる。構わないだろうか」

送信ボタンを押すと同時に信号が変わり、慌てて横断歩道を渡る。

もう一度スマートフォンの画面を見ると、メールが送信できていないとのことだった。駅前で電波は悪くないのに何故だろうと思いながら、再送信を試みたが、メールは一向に送れない。

まあいい、部屋に戻ってWiFi環境下で送り直せばいい。

深く考えずにスマホを尻ポケットに突っ込み、小走りでマンションへと向かう。


駆け込んだマンションのエントランスには誰もいない。杞憂だったかと、胸をなでおろしたが、その瞬間には嫌な予感がよぎっていた。

合坂はエントランスの静脈認証に乱暴に腕をかざす。


「このデータは登録されていません」


目を疑った。乱暴にかざしたのが悪かったのかと思い直し、ゆっくりと手首をかざす。


だが───


「このデータは登録されていません」


なぜだ、なぜ俺の家なのに俺が入れない?

そんなはずはない、ここは確かに俺が入居しているマンションだ、何が起きている、なにかの間違いではないか?何度も手首をかざすが、ドアが開く気配はなかった。これは大家に連絡するしかない、とスマホを引っ張り出して、ロックを解除しようとする。しようと、した。


「やあ、合坂くん」


俺が何度試しても開かなかったドアが開いて、ひとりの男が歩いてくる。

男は、このあと会うはずだった友人、その本人だった。


「な、んで、お前が」


ここにいるんだ、という言葉は声にならずに消えた。


「それ、渡してくれる?」


それだよ、と言って男は俺のスマートフォンを指差す。

男は、笑っているが、笑っていなかった。


「これは俺のだ」


「それは今から僕のスマートフォンになるんだ」


は?わけがわからない。素で叫んでいた。

男はさらに歩み寄り、呆然とする俺の手からスマートフォンを抜き取り、尻ポケットに収める。


「返せ!」


咄嗟のことで反応が遅れた。

男は踵を返してマンションに吸い込まれていく。

その背中に必死で呼びかけた、


「なんで、どうしてお前がそんなことをするんだ」


男はため息をついて振り返って言った、



「僕は、君になりたかったんだ」


だから全部、もらっちゃうね。



男の囁きだけがその場に残され、



───「合坂」だった俺は、消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アイデンティティ・クライシス 各務ありす @crazy_silly

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ