向日葵とマルポロはロードムービーによく似合う

たかっちゃん

第1話「まだ200ドル返してもらってない」

 真っ暗なそこへ入ってきてしまった、と半歩後ずさった後ろめたい気分はそれを見てふつり、と消えた。僕が信じられないほど暑い日照りに辟易としていたから、ってだけじゃない。

 暗い路地裏にポツンとあるドアにかかったそれに、興味をそそられたからだった。

「映画館、……?」

 信じられなかった。見た目は完全にバーの入り口だ。

「本当に、映画館なのか……」

 ここは都心から外れた下町の、都とも県ともつかない境目の場所だ。下町とも言えぬぼやっとした世界の中に、映画など見れる施設などあるとは僕は思えなかった。

 だいたい不自然だ、こんな人気のーーそこそこある。そこそこあるけど、こんなところに一枚ドアがあって、そこに映画館なんて。

 それでも僕は好奇心が旺盛なようにできていた。リュックサックを背負いなおし、ポケットに裸のまま入れた眼鏡とがま口の位置を確認する。

 眼鏡もコンタクトレンズも嫌いだ。重いし、目が痛い。それでも夜更かしをしすぎた弊害なのだから、ツケが回ってきたと思って諦めるしかないんだろう。

 僕はマスクに黒のショートヘア、パーカー付きのカーキのジャケットにジーンズというなりだけれど、これでも立派な女子高校生だ。

 こういう薄暗い所の危なげなところに迂闊に入るべきじゃない。それでも、好奇心っていうのは止められないと相場が決まっている。

「特に、女の子の好奇心は、な……」

 そっとドアを開けた。先輩。僕が死んだら食べてね。

「……うわ」

 エレベーターは故障している。

 僕は運動が苦手な上、中学生の頃にやめておけばいいのにタバコをやったせいで肺が些か頼りないため、真っ先にエレベーターを頼ろうとしたのだ。

 結果、閉じたり開いたりを繰り返す不気味なエレベーターにドン引きし、階段で上がることにした。

 やってらんないが、それでも興味は尽きなかったのだ。やってないとわかるまで気が済まない。

「映画館は……二階」

 なんの動画だったか、元警官が賭博はよく二階で行われるものだと言っていたのを思い出して肩を竦めた。

 勘弁してくれよ、などと怯えつつも階段を上り続ける足を止めることはなぜだろう、どうにもはばかられる。

「これか」

 口笛。

「ビンゴ」

 開いてる。

 さて、あとはチケットが僕のお財布に優しい値段であることと、映画館以外のところに辿り着かないでおくことを祈るばかりであった。

 ドアを開ける。重い。おかっぱ頭の少女が壁に寄りかかっていて、私は思わず「ねえ」と声をかけてしまった。

「あ、……すいません。お客様ですか」

「はい」

「よくきましたねえ」

 第一声がそれって一体どういうことだ。

「エレベーター、直さないんですか?」

「直せないんですよねえ」

 どうぞどうぞ。少女はのんべんだらりとした、間延びした、かなり眠たげな口調だった。

 少女はドアを支え、私が中に入った瞬間にそうっとドアを閉じる。

「それって」

「お客様、今日は何見られていきますか」

 実のところ僕は映画には造詣は深くない。見るのもあまりよろしくないB級ホラーやアニメだらけだ。だから僕は「おすすめで」と言おうとして、やめた。

「ペーパー・ムーンを」

 でもそんな古いロードムービーは置いてないか。

「わかりましたあ」

 あんのかい。

「あの」

「なんです?」

 少女の目は眼鏡が反射してしまってよく見えない。これだから、眼鏡は嫌いなんだ。

「眠そうですけど、大丈夫ですか」

「あ、あはは……算盤の悪夢に追われていまして……」

 算盤の悪夢とやらは長くなりそうなので触れないことにしておく。

 頭の中に何かよぎったような気がしたが、今は思い出したくない気分なので、やめた。

「チケットは何円です」

「千円です」

 千円を手渡したと思ったら、その場でチケットをもぎられ、手渡された。支配人はいないのだろうか。

 あまりにも古めかしい映画館のようで、少女の奥の通路へ続く光源は床に点々と這う灯のみだ。

 先輩と一緒に行った映画館を思い返し、僕はため息をついた。後悔。どうせなら先輩も引っ張ってくるのだった。

「今、支配人が席外してるんですよう。私はもぎりのバイトなんです」

「そう」

「ポップコーンは?コーラは持ちました?」

「僕は一人で来た時は何も食べないんだ」

「へえ。じゃ、お楽しみ下さい」

 ふわあ、と小さなあくびに見送られ、僕は奥へ奥へと進む。あんまりにも周りが見えないんで、どこまで歩いたか、本当にさっぱりだ。

 突然現れたドアを開けて、僕は劇場内へ入っていく。劇場内でやっと見つけた光が思ったより大きなスクリーンで、僕は思わず目を細めた。

 人気が少ないというより、階段を少し上がったところで、僕は座席には一人しかいないことに気がついた。

 長い毛。汚らしい顔。ここからでは右足がよく見えないけれど、僕はよく知っている。それが、すっぱりと手術によって切られていることを。

 僕はそいつを見た時点でうわ、と思い、前回先輩と一緒に座った、いや、先輩が前回座った席に座っているのを見た時点でさらにうわ、と思った。やめろ。僕の男運の悪さを再確認させるな。

「あい」

 ふにゃりと親しげな口調で、その男はこちらを見つめた。走った僕は男の後ろの後ろ、一番後ろの席に座った。あいこ。もう一度悲しげな鳴き声が聞こえる。

 汚らしい。気持ちが悪い。二度とその口で僕を呼ぶな。

「お父さんだぞ……?」

 あろうことか、男は僕の左隣に座ってきた。ヤニ臭さが胸をつき、突き飛ばしたくなる衝動を抑えながら右を向いた。男が抱えているそれから落ちたのであろう、ボロボロと落ちたポップコーンが、まるでヘンゼルとグレーテルがおいたパンくずのように落ちている。吐き気。

「もう親子じゃないんだろ」

 お母さんがいないので、言った。

「そんなこと言うなよ……」

『出てけ!お前はもう俺の娘じゃない!』

「ポップコーン食べるか?」

「要らない」

「コーラもあるぞ」

「要らない」

「藍子、なあ」

「黙れ」

 二度と喋るものか。黙りこくった僕の腕をしつこく揺する男の目の前で、スクリーンが真っ白になる。始まるのだ。映画が。

「藍子、」

「映画館ではお静かに」

 バコン!音が左に炸裂した。男の方を見ないままぱちぱち、目を瞬かせて僕は黙り込む。男は頭を抱えて立ち上がった。

「んだテメェ、」

 停止する。僕は目を見開いて、何事があったのかと後ろを見つめた。

「支配人、あんまやりすぎはやめたほうがいいと思いますよう」

「うるさいんだから仕方ないでしょ」

 先ほどのもぎりと、支配人、と呼ばれた団子頭にキツそうな目尻をした美人が立っていた。

 美人は艶かしいドレスを見にまとい、そのままバレエなんか踊っても映えるんじゃないかってくらい、いい女だ。

「あ」

 前を向けば、もう既に映画は始まっていた。

 アメリカ中西部、田舎町で行われる葬儀を映し出すスクリーンに、僕はため息を漏らす。

「おばあちゃんが死んだ時みたいだ」


『それはただの紙の月だけど、見せかけの月ではないわ。もしあなたが信じるなら』


 僕は映画館から出て、久しぶりにタバコを吸った。

 外はもうすっかり夕暮れで、外で吸ったらどんなに気持ちが良かっただろう、と年齢の足りぬ体を嘆く。

 男は赤マルを好んでいたけれど、僕は未成年らしく緑マルを吸う。もぎりと支配人は顔を顰めたけれど、男からせしめた緑マルは一本だけだったのだ。許されてほしい。


 男はゴッホのような男だ。耳の代わりに足を切り落とした。自業自得だ。

 もぎりも僕は知っている。今では疲れた顔の、世界一美しい女だ。

 支配人も僕は知っている。いつまでも宇宙で一番可愛らしい少女のままでいる。


「罵倒してたんだよね」

「それは」

「おばあちゃんが死んだ時、おばあちゃんのことを心から憎んでいたんだよね。おばあちゃんが死んだ時、おばあちゃんのことを心から悲しんでいたんだよね」

「あのさあ藍子、それはね」

「言い訳はいいよ」

 もう何も、必要がないから。


 タバコをすり潰して、階段を三歩、降りた。階段の先、閉じた映画館のドアを見つめる。忘れ物をしたような気分になって、僕はドアを開けようとした。

「鍵が」

 音なんてしなかった。急いでがま口の中を見れば、千円札の代わりに、先輩と飲んだサイダーのガラス玉がなくなっていた。

「……やられた」

 潮の香りをなくしてしまって、僕はそのまま遣る瀬無い気持ちでふらりと外へ出た。

 外の雑踏が僕の耳を覆う。僕はその上からイヤフォンを耳に詰める。

「どうして」

 どうして僕に父親はいないのだろう。

 別に、男に父親でいて欲しかったわけではなかった。僕はすっかり男のことを『昔よく遊んでもらったが今ではよくわからない上、何度も電話音と怪文書を送って僕を脅かす気持ちの悪い男』と認識していた。恐らく男に何をされたとて、それはもう変えようがないだろう。

 こぼれたミルクを嘆いてもしょうがない。

 例え僕がミルクを飲みたくなかったとしても。例え僕がミルクをこぼしたのではないとしても。

「帰るか」

 ただ、父親ではないかもしれない、父親だと信じた男と、詐欺でも何でも、自分の食い扶持を稼ぐというのは、一体どんな……よし。もうやめよう。

 詮無いことだ。

「駅、どっちだっけ」

 僕は再び迷子を再開した。僕には一生月なんか見えなくていい。

 端末にバナーが映った。タップしてパスコードを打ち込み、SNSアプリを開く。

『月めっちゃ綺麗』

 先輩から送られてきた月の写真を見て、僕は先ほどの決心をすぐさま変えた。

『死んでもいいくらいですね』

 つまり、僕は男を見る目がないのであった。

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向日葵とマルポロはロードムービーによく似合う たかっちゃん @naoto0423

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