僕の妹の貞操が危ない

猫村空理

僕の妹の貞操が危ない

 入学式の朝、特徴的なチャイムが鳴り響く体育館で、僕は前世、エロゲが好きだったことを思い出した。

 濁流のように僕を襲う、肌色多めの記憶たち。裸、裸、裸。椅子があってよかった。倒れていたかもしれない。

 そうしてわかったのは、今日から僕の在籍する荻女ヶ丘学園がとある成年男性向けノベルゲームの舞台であること。

 そして、それから一番重要なのは、僕の双子の妹が、神宮未玖がその攻略対象のひとりだということ。

 あまりのことに上の空のままいつのまにか入学式は終わっていた。先生に命じられて、僕を含めた新入生たちは各々のクラスへ移動しようとする。

 初々しい緊張の満ちた人垣の中、たぶん僕だけが妙な既視感を抱いて校舎を眺めていた。あれ、背景画像にあったところだ。告白伝説のある大木、渡り廊下、それから生徒会室のドア。

 キョロキョロしていた僕の脇腹へ突如肘鉄が突き刺さる。呻いて一瞬足を止めた。後ろの生徒がたたらを踏む、戸惑った気配がした。

 顔をしかめて迷惑な闖入者を見やる。思い当たるのはひとりだけ。そして予想通り、彼女は僕と同じ顔をしていた。

 未玖だ。真っ青な瞳と、入学に先立って地毛証明を貰った淡い茶髪。どちらもイギリス人の祖父譲りだが、なるほどこれがヒロインの容姿かと改めて納得する。とはいえ一卵性だから僕もだいたい似たようなものだけど。

 つまりエロゲヒロイン顔男だ。しんどい。

 未玖は引っ込み思案のくせ、今日に限って珍しくテンションが高い。淡くそばかすの散った頬にわずかな朱が差している。高校始めの日に、彼女も浮き足立っているみたいだった。

 とりあえず、これ以上後続の邪魔にならないよう妹の腕を引いて一緒に歩き出す。それから声量を抑えて抗議した。

「未玖、痛いだろ。なんだ急に……」

「痛かった? ごめん」絶対悪いと思ってない口調でしゃあしゃあと謝り、そしてすぐに未玖は話題を変えた。「でも椋、今日なんか、落ち着きないよ。どうしたの?」

「落ち着きがないのはそっちじゃないか? ……別に、なんでもない」

 言えるわけがない。お前は実は、エロゲの攻略対象なんですよとか。ひどい宣告だし、本当でも嘘でも兄妹の縁を切られてしまいそうだ。

 はぐらかした僕へ未玖はなにも追求してこなかった。たぶん元々興味がなくて、ただ誰かに肘を刺したい気分だったのだと思う。ホッと、わずかに肩を下ろした。未玖に嘘をつくとなぜか大抵バレるから、あまり嘘をつく羽目にならなくてよかった。

 未玖と僕は教室の入り口で別れる。僕らは隣同士のクラスだ。双子は大抵組を分けられる。僕が未玖と同じクラスになったことは今まで一度もない。

 それでもいつも、見送る瞬間は不安になる。体のどこかが剥がれるような気がする。内弁慶で人見知りの妹の、縋るみたいな視線が一瞬うなじに絡んで解ける。








 クラスメイトの自己紹介をほどほどに聞き流し、妹の今後について考えていた。彼女の貞操の危機を回避するには、やっぱり出会わせないのが一番いいと思う。未玖と、主人公を。

 主人公の名前は清水ユウト。見たところ僕のクラスに同じ名前の生徒はいなかった。程々にテキトーだが頼りがいのある生徒。ゲームでは、そのユウトが生徒会長を目指すストーリーが軸になっていたはずだ。目標を追いつつ、役員候補の女子生徒たちと関係を深める。

 未玖は頭がいい。学年主席だ。いわゆる頭脳派枠のヒロインだった。聡明さを買われてユウトにスカウトされ、生徒会選挙に臨むことになる。

 新しいことに挑戦するのは未玖にとって悪くない試みだと思う。けど、貞操の危機があるのなら話は別だ。

(生徒会には入れない)

 それが一番早い気がする。生徒会というつながりがなければ関係を深めにくいし、主人公の関心が未玖以外のヒロインへ向く可能性も高い。ともかく全身全霊をかけて彼女の生徒会入りを阻止しよう。

 ひとまずの結論に達し、ホームルーム後には多少落ち着いた気持ちで教室を出ることができた。

 そして、僕の目に飛び込んできたのは、妹と件の主人公が朗らかに談笑する姿だった。

「う、ウオオーー!!?」

 とっさに奇声を上げて二人の間へ割り込む。かなり間近でユウトがぱちぱち瞬きした。

 間違いないコイツだ。僕よりモブ顔だが精悍な眉をして、服と髪に手を入れれば結構演説映えしそうな容姿。彼はその黒い目で僕と背後の妹を見比べて、ふと「同じ顔がふたつ……」と呟いた。内心の動揺をぎゅうぎゅうに押し殺してなんとか返事をする。

「あ、ああ……双子なんだ。双子の──」

「姉妹?」

「……残念ながら、僕は男でね。双子の兄妹だよ」

 こんな漫画みたいなセリフを、高校に上がっても吐くことになるとは思っていなかった。僕の予定では今頃さすがに見た目で性別がわかるくらいに成長しているはずだったので。

 まあ未玖と同じ顔だから、女性と間違われるのもやむを得ない。気を取り直してユウトへ名乗った。

「未玖の兄の神宮椋だ。よろしく」

「あ、俺、清水ユウト。神宮と同じクラスになったんだ。双子ってことは、椋も一年生?」

「ああ、隣のクラスだ」

「そーか、これからよろしく!」

 快活な声と共に差し出された右手を、取るかどうかほんの一瞬悩んだ。全然よろしくしたくない。

 逡巡のあと握った手は、がっしりとして体温が高かった。

 この手、この手が選択肢によっては未玖の体を撫で回すのだ。今ここで潰してやったほうがいいんじゃないか? 不埒な考えがよぎったが、実行に移してみる前に向こうから手を離される。じゃあ、とユウトは離した手をひらひら振った。

「神宮も、生徒会の件よろしくな!」

「ハア!?」

「あっ、あの、私……」

 もにょもにょ、背後で未玖が何か言いたげに声をあげた、がユウトには届かなかったようだ。彼女は初対面の相手に堂々とした態度を取るのが苦手だから、これはしょうがない。ユウトはこれからめぼしい生徒に生徒会入りを打診しにいくのだ、との旨を叫んで廊下を駆けていった。

 行動が早すぎる。まさか、初日のホームルーム直後に仕掛けてくるなんて思わなかった。あっという間に後手に回ってしまった。

 ともかく未玖に向き直ると、彼女も困惑した目で僕を見返してきた。

「椋、ええと……」

「生徒会だったか。メンバー、誘われたのか?」

「うん、そう。私、クラスで噂になってて、それを聞いたあの人が……」

「噂?」

「高校、二次募集で入ったのに、学年主席だって」

「は? どこから漏れたんだ、それ。人のプライベートを……」

「別に噂はいいんだけど。それで、『そんなに頭がいいんなら、俺と一緒に生徒会を目指さないか』って……」

「そう……。……生徒会、未玖はやりたいのか?」

「ん……」

 彼女は曖昧に返して、まぶたを伏せた。自分で大きな決断をすることが、未玖は苦手だ。こうやってうやむやにしたまま、時間や状況が物事を決定してくれないかと消極的な期待をする。

 そういう仕様のないところが僕には可愛い。そのまま、誰にも責められることなく、未玖が生きていけたらいいのに。

「……まあ、未玖、人前に出るの苦手だろ。生徒会に入ればいやでもそういう機会、あると思うし。無理して引き受けることもない」

「そう、そう……だよね」

 ありがと椋、とほっとしたような声音で言う。僕もひとまず生徒会入りと、未玖の平穏を保てたことに安堵して彼女へ微笑んだ。







 とはいえ未玖も女子高校生だ。誰かと恋愛するのはきっと当たり前のことで、僕だってそれを邪魔したいわけじゃない。まともな相手なら応援する。実際、ゲーム内での僕は未玖とユウトの恋路をこまごまとサポートしていた。

 ユウトのなにがまともじゃないのかといえば、作中全くセーフティセックスをしやがらねえこと。

 エロゲの性行為はファンタジーだって僕にもわかっている。ゲーム内の彼らは避妊具なしでどれだけ励んでも、シナリオ上必要性がない限り妊娠なんてしない。

 でも、僕らはもはや架空の存在ではなく、この世界で生きている。

 僕らの妊娠に必然性の有無は存在しない。ただ行為の結果が順当に現れるだけだ。対策をしなければ、受胎する。子供が、できる……。

 というワケで。そんな無責任クソ野郎に双子の片割れを渡すわけにいかない。高校在学中に妊娠なんて未玖の将来がめちゃくちゃになってしまう。

 絶対に僕が阻止してやる、がそれはそれとして、事前に避妊具を用意しておくのも有効かと思った。

 放課後、コンビニで絆創膏が並ぶあたりの棚を覗く。ガーゼや絆創膏類のそばに、シームレスに並ぶコンドームの箱たち。ちなみに僕は童貞なのでどれがいいとか全くわからない。テキトーになにか大きそうなサイズとお菓子をいくつか持ってレジに向かった。

 会計後、お菓子とコンドームの詰まった学生鞄を握って店を出る。未玖のためにしたことだというのに、ちょっと後ろめたくて外で待っていた彼女の顔を見られなかった。







「今日、学校どうだった?」

 口の中の煮魚を飲み込んで、普通、と母へ答える。

「未玖と僕は別のクラスだった」

「それはいつものことでしょ。……未玖は、どう?」

 母の声に、突然腫れ物に触るような響きが混じる。未玖も答えづらそうに、んー、とだけ返した。妙な気まずさが食卓に落ちる。

 ここ最近、未玖の高校の話題は親の間でタブーになっている。彼女が受験で失敗したからだ。

 未玖はもともと荻女ヶ丘よりずっと偏差値の高い高校を志望していた。そこだって、未玖の頭であれば落ちるはずもなかった。けれど未玖は試験当日、緊張のあまり反対方向へ行く電車に乗ってしまったのだという。

 対人関係以外はしっかりしている方なのに、そんなやらかしをするなんて正直信じられなかったけれど。信じられなかろうが実際合格通知をもらえなかったのだからしょうがない。彼女は僕が受けた高校を二次募集で受験し、全科目で満点を取って入学してきた。

 僕としては、同じところに通えて嬉しい。でも両親にとってはそんなに単純に済む問題じゃないようで、未玖が試験会場にたどり着けないまま帰ってきた日から彼らの間にはわだかまりがあった。朝晩の食卓で明らかに沈黙が増えた。

 しかし、今にして思えば未玖の進学は定められたものだったんだろう。未玖はエロゲの攻略対象で、そのエロゲの舞台が主人公の通う荻女ヶ丘学園なのだから。ゲームの強制力に振り回された彼女には、落ち度なんてそもそもひとつもなかった。

 俯いて夕飯を頬張る未玖の腕に、肘で触れる。青色の視線がちらりとこちらを向く。

(気にするな)

 唇の動きだけで僕の意図は伝わったようだ。彼女はかすかに頬を綻ばせる。

「そういえば、椋」

「なんだ」

「今日、コンビニでなに買ったの?」

「……お、お菓子」

 どもったせいで怪訝な目を向けられる。未玖は目敏い。痛い腹があるとこれだから大変だ。今度は僕の方が俯いて目を逸らす番だった。







 絶対に阻止すると意気込んだのに、一月経ち二月経ち、ふたりの仲は順調に深まっていた。

 やっぱり僕だけクラスが違うのがまずい。交流できる機会が段違いなのだ。他の攻略対象とユウトとの噂も今のところ聞かない。まだ未玖は生徒会を目指すことを了承していないようだけど、このままじゃ未玖シナリオ一直線だ。未玖の話題の端にも、頻繁にユウトの名前があがるようになった。

 ユウトの話をする未玖は、いつも笑っている。

「椋、私とユウトが話してるといつも割り込んでくるでしょ? 洋服選んでる時の店員みたいだなってユウトが言って、そのせいでクラスのみんなが椋のこと、ショップ店員って呼ぶように……」

「わ〜……」

 嫌な話を聞いた。今度から隣のクラスに行きにくくなった。僕そんなことを言われる割り込み方、していたか。してたかも。

「……仲、いいみたいだな」

「え? 私とユウトが? うーん、そうかな」

 未玖に異性の友達ができること自体、今までならあり得なかった。彼のおかげでクラスにもそこそこ馴染めているようだ。彼らがただの友達で済むのなら僕だってちゃんと喜べるはずなのに。

 でも、きっとユウトは未玖のことをただの友達だとは思ってくれない。だって攻略対象と主人公なんだから。男女の関係になるために生まれ、ルート分岐のうちのいくつかで体を繋げるふたり。思わずため息をついた僕を未玖が不思議そうに見る。思わず尋ねていた。

「……未玖は、好きなのか?」

 唐突な質問に、虚を突かれたように彼女は瞬きをして、沈黙のあと「ユウトを、私が?」と訊き返した。

 見つめる先で、どうしてかその口の端にじわりと笑みがのぼる。

「……ふふ」

 薄く頬が染まり、初めて見るような恍惚とした顔を見せた。唇の皮膚を透かす血の色が赤く、ぞくりと背が震える。

「椋、私の好きな人が気になるの?」

「い、いや……変なヤツと付き合って、後悔するとこは見たくないから」

「ユウトは変なヤツなんかじゃないと思うけど」

「わからないだろ。人の本性なんて」

「私がわからないユウトの本性は、椋にはもっとわからないんじゃない?」

 論破された。返す言葉が思いつかず口をつぐむ。本当の理由、前世のエロゲの記憶が云々なんて言えるわけもないし。

 せめて僕の持つゲームの記憶以外に、ユウトに欠点があればいいのに。

「とにかく、どうなんだよ」

「え〜、秘密?」

 妙に上機嫌で、彼女は歌うように言った。








 そうしてその矢先、未玖が風邪をひいた。数日学校を休むことになるだろう。

 だから僕は眠っている未玖の制服を拝借し、カツラと一緒に身につけ、こっそり家を出た。肩がちょっときつかった。

 これぞ秘儀・成り代わりだ。僕は悲しいかな体の成長が遅れ気味なので、まだまだ未玖のふりをして通じる。動作も言動もほぼ完璧にトレースできる。頭の方はちょっと心許ないけれど。それでも、今まで誰にもバレたことはない。

 これでユウトに近づき、彼の人となりを確かめようと思う。

 校舎の階段をのぼり、いつも未玖を見送る方の教室へ僕が入る。挨拶してくるクラスメイトに笑顔を返し、未玖の机へたどり着く。彼女はいつも机の左側に鞄をかける。覚えている限り全部完璧にやった。両親だって見破るのは難しいはずだ。

 席の近くにいたユウトが、僕へ気づいてひょいと片手を上げた。

「おはよ神ぐ──あれ椋? なにしてんの?」

「ウワマジか」

 速攻でバレてしまった。思わず飛び出た僕の声を聞き、やっぱり椋じゃん、とさらに確信を得た様子で歩み寄ってくる。

「椋、それなに、」

「おい騒ぐな! 周りにバレるだろ」

「え? バレたくなかったんだ、ゴメン。で、それなにやってんの? 神宮は?」

「僕は、未玖のクラスが見たくて変装してきた。未玖は風邪で休み。……ユウトこそ、なんでわかった?」

「喉仏と声」

「CVか……」

 そういえばゲームの神宮椋も、女性声優だけれど未玖とは違って少年声だった気がする。喉仏はもともとかなり主張が薄い方なので気を配っていなかった。いろいろ、ぬかったな、とカツラの上から頭を掻いた。

 ユウトは神宮風邪かあ、と間延びした語尾で言う。

「じゃあ、放課後見舞い行くな!」

「来るな」

「椋はシスコンだよなあ。いっつも、暇があったら神宮のとこ来てるし……」

「……それ、おかしいか」

 ふと声のトーンが落ちたのを自覚する。『シスコン』とはよく言われるけれど、あまりいいニュアンスを伴っていたことがない。近親者への態度として気持ちが悪いとか、依存しているように見えるとか、忌避感込みの説教をもらうこともある。

「僕はただ、ずっとそばで育って、愛着を抱いている相手のことを、心のままに大事にしたいだけなんだ。ダメなのか?」

「椋は割と脊髄で生きてるよな〜」

 へらりと笑って、それからユウトは小首を傾げる。

「別にいいんじゃないの? シスコンでもマザコンでもなんでも。迷惑になんない限り、人のそーゆーこと、俺は口出す気にならないなあ」

「……君は結構ドライだよな」

 ゆるい口調に、体の力が抜けた。そんな僕へユウトが微笑みかける。

「神宮のカッコ、似合ってるじゃん。たまに女子制服着てうちのクラスで授業受けてったら?」

「変装を乱用する気はない」

「そっか」

 思えば、未玖を挟まずに会話したのは初めてだったかもしれない。変わったやつだな、という印象が強い。でも、きっと善人だ。

 そのまま教師と生徒をだまくらかして一日授業をやり切ったが、結局ユウトへ悪感情を抱くことはなかった。

 未玖から彼を引き離そうとすることは、本当に正しいのだろうか。そんなことを、本当はもう、ずっと前から考えている。





◇◇◇





 熱でぼやけた眼をひらく。静かな家に、私はひとりきりだ。

 両親も仕事に行ったし、双子の兄も今頃学校だろう。

 うるさいのは苦手だけれど、ひとりでいるのも得意じゃない。お母さんのお腹の中でさえ椋と一緒にいたせいで、誰の気配もない空間は妙に居心地が悪い。重い体を起こし、ベッドから這い出す。

 特別目的もないままふらふら部屋を彷徨い出て、気づけば私は兄の部屋のドアを開けていた。双子なのになんとなく私の部屋とは違う匂いがする。限界がきて彼のベッドの上へ倒れ込んだ。

 ぐったり垂らした手がベッドと壁の隙間にかかり、指の腹へ、なにかが触れた。つるつるした表面の、紙みたいな触り心地。摘んで引きずり出す。掌に乗るサイズの小箱だった。

「れーてん、れーに……?」

 表の印字を声に出す。裏面を見るけれど、言葉が頭に入ってこない。しょうがないから箱を開封してみて、それでやっと、私の持っているのがなんなのかを理解する。

「コンドーム……」

 椋の部屋に、コンドームがある。しかも、隠してる。あの人はいつも、聞いてないようなことまで私に洗いざらい喋っちゃうのに。

「……椋……彼女、できたのかな」

 コンドームはえっちする時に使うもので、そういうことはお互いに、していいと同意できた相手とするのがセオリーで、だから。コンドームがここにあるということは、椋にそういう相手ができたっていうことなのかな。彼女だかセフレだか知らないけれど、そういう。

 ぎゅ、とパジャマの胸を握る。

 椋は最近、ユウトと私の中をやたら気にしていたと思えば、自分は黙ってコンドームなんか買っていて、もう、よくわからない。全部面倒で眠くなってきた。椋の布団に潜り込む。

「ばか、椋……」

 呟いた。恨みがましげな声がひとりだけの部屋にか細く響いて、溶けていく。私はそういえば、ひとりが嫌いなんじゃなくて、双子の兄がそばにいないことが耐えがたく苦しいんだったなと、いつか身に染みて感じたのをまた思い出す。とろとろと意識がまどろみに落ちていく。





◇◇◇





 未玖の熱が下がるまで、予想通り三日ほどかかった。

 両親は共働きで遅くまで帰らない。だからこの数日、一応入部した部活動には顔を出さず、授業が終わればすぐ帰宅するようにしている。

 家に帰ると、体温もほぼ平熱に戻った未玖が居間のソファでテレビを見ていた。

「ただいま。体調、どうだ?」

「おかえり。もう、全然元気だよ。明日から学校行く」

「そうか、よかった」

「うん……」

 元気だという割に沈んだ返事をして、未玖はテレビへ視線を戻した。それほど内容に興味を抱いているような横顔ではなかった。

 学校を初めに休んだ日から、未玖はずっとこの調子だ。昨日までは風邪のせいかと思っていたけど、今日の様子ではそれも違いそうに思える。なにか悩み事でもあるのだろうか。

 胡乱に思いながら未玖の隣に座る。きしりとスプリングが鳴り、未玖がわずかに肩を竦める。

「……未玖、なにか、僕に言いたいことがあるか?」

 尋ねれば、黙ったまま惑うように視線を揺らし、それから未玖はゆっくり僕へ顔を向けた。柔らかな唇が薄く開閉を繰り返した。

「私、私さ……生徒会、やってみようかな……」

「えっ」

 思わず焦った声が漏れる。僕の反応を、未玖は妙に温度のない目で観察していた。なにか、怒っているみたいだった。

「え、ええと、未玖、それは」

「……うん。椋は、私が生徒会に入るの、やなんだよね。椋はそういうこと言わないけど、顔と態度にすっごく出るから。椋が嫌なら私も入んないようにしようって、前まで思ってた」

 僕はそんなにわかりやすいか。いや、そうではなく。

「それなら、どうして……」

「どうしてとか、全部。……全部! 私のセリフなの!」

 ガタ、と脛でローテーブルを押し、未玖が急に立ち上がる。潤んだ目がぎらぎらと蒼く光って見えた。感情を鎮めるためか、ふう、と一度大きく息をする。

「……椋、彼女できたんでしょ?」

「なに……?」

「もしかしてセフレ? ううん、どっちでもいいけどさ、そういう人」

 ふらりと未玖は一歩踏み出し、僕の前に立ち塞がる。窓から差す暮れ方の陽が未玖に遮られて、彼女の形の影が僕へ落ちる。逆光で表情がわかりにくい。

「椋は……なんなの。私とユウトのこと、関係ないくせに気にしてみたり。それなのにひとりで彼女作ったり。私、もう、喜んだり悲しくなったり疲れたよ」

 僕の脚の横に未玖の手が置かれる。太腿が膝の上に乗り上げる。正面から柔い妹の肉体が僕へしなだれかかってくる。耳に流れ入る囁き。

「ユウトの生徒会に入りたい。私のこと、うまく使ってみせるってユウトは言ってくれた。やってみたいの。それに……椋は私から離れていくのに、私にはどこにも行くななんて、ひどくない?」

 ふふ、と笑った吐息が鼓膜をじかに揺らす。自棄みたいな暗い笑い方だった。膝に乗っかった妹のせいで身動きを取れず、触れる息のこそばゆさにただ肩を震わせた。

「未玖……?」

「椋。私がなんで志望校に落ちたか知ってる?」

「なんでって……電車、間違えたんだろ?」

 僕がそう言った途端、未玖は「あは」と不気味に、椿がぼろぼろ落ちるときみたいに笑った。

「わざとなの。わざと行かなかった。自分の意思で、逆方向の電車に乗った。椋のいない学校に……ひとりで通って、ひとりで生活するんだっていうの……あの日、急に、耐えられないと思った」

 そして未玖は徐に上体を起こし、真正面から僕を見据えた。

 宣告のように、止める間もなく決定的な言葉を吐き出す。

「椋が好き」

 ぐう、と喉に言葉が詰まってなにも言えなくなった。即座に否定ができなかった。目を見開く僕の頬を未玖の手が包み、徐々にその顔が降りてくる。色の薄いまつ毛が起こす震えを間近に感じ、慄き、僕は。

「まままてまてまて!!」

 とっさに未玖の顔を押さえた。掌の下で不満げに唇が尖り、もごもごおそらくは抗議をしようとする。苦しそうだったので、警戒しつつ口元を解放してやる。

「未玖……なにを」

「キスしようとした」

「どうして……?」

「すればわかることもあるんじゃないかって。椋が、はっきりしないから」

 キスを、しそうになって、呼気が唇に触れて、電撃のように閃いたのは『可能だ』という言葉。

 僕は、できる。血の繋がった双子の妹と、キスも、きっとそれ以上のことも、平気でできる!

 近親相姦の禁忌なんてどうでもよかった。それがわかった。

「ダメだ」顔を覆う。「僕もう、戻れない、元の、まともなきょうだいに……」

「……私はずっと、そこにいたんだ。戻れない場所……。もう戻れないから、私と一緒にそこで、生きてよ」

 細い腕が僕の背中に周り、覆いかぶさるように抱きしめられる。彼女の体温が甘く肌に染みる。

「お願い、お兄ちゃん……」

 縋る声。僕は、ああ、と嘆きにも感嘆にも似た吐息を漏らした。










「未玖、帰るぞ!」

 勢いよく生徒会室の扉を開け放つ。ユウトやその他攻略対象たちの視線と囁きが体に突き刺さった。うわ、来た、妹狂人、未玖の男体化エトセトラ。だいたいいつもの反応だった。

 僕を認めて未玖が席を立つ。

「じゃあ、椋も来たからこれで」

「え〜、もうちょっとやってってよ〜! 未玖ちゃんいなくなると書類仕事カスしか残らないんだってえ……」

「知ったことか、ブラック労働に未玖を巻き込むな。ほら未玖、行こう」

「うん。荷物まとめるから、ちょっと待って……」

 ガサガサ、机の上に広がったプリント類をかき集め始める。少し時間がかかりそうだ。手持ち無沙汰に見守っていると、無事この夏生徒会長になったユウトが声をかけてくる。

「椋、今日もお迎えご苦労様。お前部活はいいの? なんか入ってなかったっけ」

「生物研究会。出席義務はないし別にいい。……ユウトは、未玖になにもしてないだろうな」

「ないって、毎日言ってるじゃん。俺のことなんだと思ってんの」

「エロゲ主人公男」

「風評被害が過ぎるだろ」

「役員を顔のいい女子ばかりで揃えている生徒会長なんてエロゲの主人公だろうが」

「あ、結構ぐうの音も出ないな……客観的に見ると……」

 本当に身のない会話をしているうちに、支度の整った未玖が僕の袖を引く。ひとつ頷いて、ユウトへ手を振った。

「じゃあな」

「うん、また」連れ立つ僕らへ、ユウトはふと眉を緩めて生暖かい目をした。「せいぜい、法の隙間くぐってやってけよ」

「言われるまでも」

 あの日に僕と未玖のふたりで決めた。離れたくないのなら、離れないための覚悟をすること。異常でもなんでもいいから、歯を食いしばって一緒に生きることを。

 帰り道、人気のない通りで手を繋いだ。すっかり馴染んだ手の温もりを、それでも皮膚に焼き付ける。

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