(3)

 英士は自宅に戻るまで、ほとんど口を開かなかった。


 ヒスイはその理由をはっきり理解していないようだったが、敢えて英士に話しかけることもなかった。それが英士にとってプラスにならないことがわかっているからだ。


 ヒスイがそういう気を回せるようになったことに、英士は感心していた。ただしそれは、他人事のような、ぼんやりとした感動だった。特に嬉しくも哀しくもなかった。


「おかえりー。どうだった、ロボット工場は?」


 帰宅した二人を迎える遥の声は、いつも通りののんびりとしたものだ。休日の昼下がりである。お気に入りのティーセットの手入れでもしているのだろう。


 ごめん、母さん。せっかくの週末を嫌な気分にさせちゃうかも。


 英士は心の中で呟いて、彼女がいる居間に入った。


「どうしたの? 怖い顔して……」


 英士とヒスイを迎えた遥は、困ったように笑う。


 その白々しさで、英士は確信してしまった。


 彼女はこれから何が始まるか察している。英士が突然〈WIRE〉研究所の見学に行くと言い始めた理由を、そしてそこで得てしまった受け入れがたい現実を、彼女は知っている。

 親というのはそういうものだ。子供が必死に隠していることも、死に物狂いで見つけた答えも、何だって知っている。


「危ないことはしなかった? 研究員さんに迷惑かけなかった?」


 それなのに、月並みの心配をしてみせる。嗤うように、嘲るように、聞こえてしまう。そんなことはないのだけど、感じてしまう。

 英士は遥に、棘のある言葉を投げかけずにいられなかった。


「やめろよ、母さん。全然おもしろくない」


「……そうよね。ごめんね、英士」


「謝ってほしいんじゃない。話してほしいんだ」


「何を、話してほしいの?」


「わかってるんだろ!」


 つい、怒鳴ってしまう。

 遥は困ったような微笑を崩さずに、すっと目を閉じた。


「何で話してくれなかったんだよ……」


「…………」


「殿羽碧なんて『人間』、存在しないんだって。どうして教えてくれなかったんだ!」


 英士の絞るような叫びが、虚しく宙を舞った。


「ごめんね、英士……ごめん……」


「ごめんじゃわからないよ……説明してよ、母さん! 説明しろ!」


 掠れた声で返す遥に、英士は言葉を重ねる。


 震えるまつ毛が見えないわけじゃない。

 握った拳が見えないわけじゃない。


 それでも、英士は彼女を責めるしかなかった。それしかできないほど、英士も内心取り乱しているのだから。


「そのことは私が説明するわ、英士君」


 ゆえに、彼女の闖入は幸運と言えた。


 偶然というには不自然であっても、それは今論じても仕方のないことである。

 冷静で、事情を知る、第三者。それを満たしているのなら、何だっていい。


「……やっぱり、才花さんも噛んでるんだね」


「私以外に、あんな完璧なヒューマノイドが組める人間はいないわ」


 才花がヒスイの頭を撫でる。

 ヒスイはこの状況に適切な態度を見出せていないのか、無表情でそれを受け入れていた。


「殿羽碧は、私が大学生活の全てを賭して製作したヒューマノイドよ。成長型AIを積んだ一番機。言ってみれば、ヒスイの姉になるかしらね」


 俺の姉ではなく、か。


 才花の言葉に言い知れない虚無感を感じながらも、英士は才花から目を離さなかった。


「私は、人と共に変化していく……共に成長していくロボットを理想に据えたわ。ロボットを、道具ではなく『友人』や『家族』として定義したかった。だから私は、殿羽碧を、チャイルドケア・ヒューマノイドとしてデザインした」


「『それ』が、俺の家に来た理由は?」


 才花が一瞬、痛みを堪えるような表情をする。


 とっさに『彼女』と――『ねーちゃん』と言えなかった自分に気付き、英士は少なからず自らに失望した。


「理由は二つ……一つは、タイミングよ。彼女を実地で成長させようという時に、あなたの両親はベビーシッターを探していた」


「もう一つは……?」


「あの子が、あなたを選んだ。何人かいた候補の中からね。その理由は私も知らないけれど、一番危なっかしく思われたんじゃないかしら」


 第一条を刺激されたのかも、と才花は苦笑した。


「碧は優秀だった。現に、幼かったとはいえ、あなたは彼女をロボットとしてではなく姉として慕っていた。そうよね?」


 英士は躊躇いがちに頷いた。

 英士が碧を姉として好きだったのは間違いない。いつも手を引いてくれた彼女は、確かに英士の家族だった。


「けれど、ロボットはロボットよ。いくら人に似せても、必ずどこかで綻びが生じる。いつまでもあなたの姉ではいられない。いつか明かさなければいけないし、そうしなくてもバレてしまう日は来たでしょうね」


 ロボットが完全に人になることはできない。ヒスイが食事を楽しめないように、碧にもできないことはいくつもあったろう。誤魔化すのにも限界があるはずだ。


 いや、もう限界だったのだ。


「転機はあなたの小学校入学くらいかしらね。あなたは覚えてないかもしれないけど、碧にとっては決定的なことがあったわ」


 彼女がロボットであると露呈する要因になり得ること。英士には一つ、心当たりがあった。


「……俺が、ねーちゃんの身長に興味を持ち始めた」


「そうね。ごく自然なことだと思う」


 子供なりに、背伸びがしたくなり始める時期だ。承認欲求は、自分の親代わりでもあった姉に向いた。


 ぐんぐん背が伸びるぞ。すぐにねーちゃんを追い越してやる。毎月この柱に印を付けてくから。


 そういう、他愛のない発想をしたのだ。


 そして碧はロボットである。どのような条件でも、身長が変わることはない。


「私は潮時だと思った。ロボットであることを明かしたら、きっとあなたは驚いたでしょうけど、嫌いになることはないと確信していたから。もうお姉ちゃんはやめましょう、って碧に言ったわ」


「だけど、そうはならなかった……」


「あの子が、意地を張っちゃってね。『えーじを傷付けることはできない。少なくとも、えーじと身長の比べっこはしなければならない。お姉ちゃんであるうちに』なんて言って聞かなくて。あの子、なんと新しいボディに換装できないか、なんて言い始めたのよ。馬鹿みたいでしょう?」


 三原則の効力だけでこうなったとは思えない、と才花は言った。

 才花が命題としている感情の発露は、もしかすればそのとき既に、一つの達成を見ていたのかもしれない。


「碧もヒスイも、私にとっては娘のような存在よ。望むことはしてあげたいけれど、『自我』の転送なんて研究は例がなかった。少なくとも医療分野の〈MIRE〉には、ね」


 英士の中で、ピースがパチリと合わさった。


「『経験の移植』……」


 才花はやや大仰に見えるほど、重々しく頷いた。


「そうよ。それが自我の転送には、最も近い技術だった。だから、たっぷりとした経験を積んだヒューマノイドの提供というかたちで、私たちは『経験の移植』の研究に協力することにしたの」


「それでねーちゃんは、軍事施設のはずの〈WIRE〉に通って……」


 ヒスイが持ってきた写真に写り込んでいた彼女の姿は、そういうことだったのだろう。そして研究資料にも、殿羽碧を示す『型番』は明記されていたに違いない。


 自分の何気ない発想が、碧をそこまで突き動かしていたことを、英士は知らなかった。


「ええ。〈WIRE〉に通って、そこで事故に巻き込まれた。不幸にも……ね」


 そこからは、英士も心得ている。


 彼女は〈WIRE〉の敷地内で、仮設足場の崩壊に巻き込まれて大破した。死んでしまったのである。


 英士は、周りのロボットが身を呈して碧を救わなかったことについて、重大な裏切りだと確信していた。絶対遵守の第一条が、守られなかったと思った。


 しかし、碧はロボットなのだ。ロボットは、自らを犠牲にしてまで、ロボットを救ったりはしない。自然、第三条が発動することになる。


 現場の危険を知り尽くしている工事用ロボットは速やかに退避し、単なる子守用ロボットである碧は逃げ遅れた。そういうことだ。


「落下物だったから、頭をやられちゃって……碧の修復はできなかった。そうかと言って、あの子がロボットでした、なんて言える状況じゃなかったし、あなたも信じようとはしなかったはずよ。そうこうしているうちに、あなたはロボットを目の敵にすることで、傷付いた心を支え始めた……時間が経てば経つほど、余計に真実を話せなくなってしまっていたわ。遥さんを責めるのは、筋違いだと思う」


 才花の言うことは的を射ていると言っていい。当時の英士は碧がロボットだったと言われて納得はしなかっただろうし、時間の経過がマイナスに働いていたのも確かだ。


 遥を責めるのは、道理に合わない。しかし、英士はそう簡単に頷くこともできなかった。


 胸の前で手を組み俯いている母は、英士の誤解と事の真実を知りながら、見て見ぬふりをしてきた人物である。止むを得ずでも、悪意がなくとも、はいそうですかと済ませられるようなことではない。


 これは少なくとも、英士の十年間を縛ってきた問題なのだ。


「それからね、英士君。私があなたのところにヒスイを連れてきたのは、他ならない遥さんが望んだからよ。あなたがもう一度、ロボットと生きることができるようにって。それを実現できるのは、きっと殿羽碧の妹であるヒスイだけだって」


「俺とヒスイが、事故のことを調べて、しかも真相に辿りつくっていうのまで……母さんは、予想してたの?」


 英士の質問に、遥は力なく笑った。まさか、と。自嘲気味な笑いだった。


「母さんね、碧のことはずっと秘密のままにしておくつもりだったわ。掘り返すこと自体が、英士のためにならないと思っていたし。だけど、あんたがロボット嫌いのままなのは、やっぱり碧が浮かばれないじゃない。あの子はあんなに英士が好きだったのに、英士もあんなに碧が好きだったのに、嫌いってことにされちゃうのは……母さん、見てて辛かった」


「それでロボット嫌いだけでも直そうって……? そんなの、勝手過ぎるよ……」


「私の自己満足、よね。ごめんなさい」


 英士の言葉に、遥は否定することはなかった。ただ、謝り続けた。

 それは英士にとって、酷く居心地の悪いことだった。


「……ごめん。ちょっと頭冷やしたい」


 だから、英士は逃げてしまった。

 碧のことについて、整理がついたわけではない。そうかと言って、母親を責めて、謝罪をさせたいということでもない、と思う。


 英士には向き合う時間が必要だった。


 居間を出ていく英士を、才花も遥も止めなかった。


「エージ……」


 そんな二人を交互に見て、そして英士の出ていった扉を見つめるヒスイ。英士を追おうとするものの、すぐに思い直して動きを止め、また足を踏み出そうとする。


 傷心の英士を追いかけたい。しかし、同じ人間である才花たちがそうしないのだから、追いかけるというのはむしろ彼を傷付ける行為かもしれない。それでも彼を放っておくのは、彼の観察を投げ出すのは、ロボットとして正しくないとも言える。


 彼女の中の情報の流れは、葛藤とでも呼ぶべきものだった。

 ヒスイは、自らがどう行動すべきか、まったく分からなくなっていた。


「三原則は、頭で考えるものじゃないわ。許されないことなら、勝手にブレーキがかかるのだから」


 カクカクとおかしな動きをしているヒスイに、才花が愛おしそうに笑いかけた。


「ヒスイ、あなたはあなたの心のままになさい」


 心のままに。心など、ロボットたる自分にあるのだろうか。

 いや、それをこそ、今日まで学んできたのではなかったか。


「エージを追う。私はエージを助ける使命がある」


 ヒスイはそう口にして、今度こそ一歩を踏み出した。

 ヒスイは扉を開くと、まっすぐ英士の部屋を目指した。


「……ねえ、才花さん」


 ヒスイの後ろ姿を見ていた才花に、遥が声をかける。


「彼女、素敵な子に育ったわね」


 遥の言葉に、才花は照れ臭そうに笑った。


「ほんと、私のヒスイをあんな風にしてくれちゃって。ちょっと妬けちゃうわ」

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