第155話 食品工場害虫大発生事件
食品加工工場で害虫が大発生するという事態は、あってはならないことである。
しかし、五月下旬にそれが起こった。四月に本社から派遣されてきたばかりの工場長は、その対応で胃に穴が開いた。
その事件の顛末を以下に記す。
工場長は、食品事業の素人だった。
工場に異動するまで、本社で総務の中間管理職を務めていた。
前の工場長が転職することになり、急遽その穴埋めを任されたのだ。
会社は多角的な経営をしていて、事務職はなんでも屋みたいなものだった。辞令をもらえば、どこへでも行かなくてはならなかった。
三月下旬に、給食製造配送センターの工場長を務めよとの内示をもらって、彼はまったく畑違いだよとため息をつきながら、引き継ぎを受けるため、会社の軽自動車で本社から工場へ向かった。
食品工場は鉄道駅から遠く離れた郊外にあった。周辺は工場や倉庫と住宅が混在していた。準工業地域である。近くに濁った不吉な沼があった。
「工場内にネズミがいっぱいいるんだよ。その駆除をやらなきゃいけないんだけど、面倒くさくってさ。田舎に帰って、雑貨屋を継ぐことにした。あとはよろしく頼むよ」と前工場長は言った。
「ここではいちおう工場長が責任者なんだ。おれは食品のことはさっぱりわからないんだけど、なにかあったら、責任を取らなくてはならない。ネズミの糞が食べ物に混入して食中毒事件が起こったら、私財で賠償してもらうよ、なんて本社の食品事業部長に脅されたこともある。やってられないよ」
「はあ、そうなんですか」と新任の工場長は若干の不安を感じながら言った。
「そうなんだよ。食品の専門家として、管理栄養士がひとり、栄養士がひとり、調理師がふたりいる。きみを含めて、その五人が社員だ。パートの調理員が三十人ほどと派遣社員のボイラーマンがふたり、給食配送員が六人、事務員がひとりいる。みんな隙あらばさぼろうとしてる。彼らを管理し、食中毒や異物混入事件を未然に防ぎ、万が一発生してしまったら、全責任を負う。それがきみの仕事だ」
「嫌な仕事ですね」
「嫌だから、おれは辞めるんだよ。こんなつまらなくて、なにが起こるかいつもびくびくしてなくちゃならない仕事はごめんだ。きみもさっさと辞めるか、早く本社へ呼び戻してもらう算段をした方がいいよ」
「まだ職務についてもいないのに、そんなことを言われたのは初めてです」
「すぐにおれの気持ちがわかる。とりあえず、着任したら、ネズミの駆除に取りかかってくれ」
工場には管理棟と食品加工場と配送場があり、管理棟の屋上に喫煙所がもうけられていた。
前工場長はそこで煙草を吸い、新工場長は準工業地域と不吉な沼を眺めた。ふたりは不景気な世間話をした。以上が引き継ぎのすべてだった。
四月一日から、新任の工場長はマイカーで給食製造配送センターに通った。
管理栄養士から、調理は朝七時三十分から始まると聞いていたので、七時には事務室に入った。部下たちになにかしらの挨拶をしたかったが、みんなばらばらと出勤してきて、白衣を着て、手指の消毒をして、食品加工場に入っていった。雑談すらできなかった。
工場長は手持ち無沙汰で、ぼんやりと椅子に座った。
回転椅子を回して背後の窓をのぞくと、なにを製造しているかわからない工場となにをしまっているのか不明な倉庫と深緑と茶色の中間色をした沼が見えた。
八時三十五分に、派遣社員の事務員が出勤してきた。五分の遅刻である。
「おはようございます……」
二十代半ばくらいの覇気のなさそうな痩せた男性だった。
工場長は、さまざまな部署を経てきた四十代のベテランの事務職員。しかし、食品工場の仕事は皆目わからない。
事務員はパソコンを起動し、仕事を始めた。なにをしているのか、工場長にはわからない。
「ねえ、前工場長から、ネズミの駆除をしろって言われているんだけど」
「ああ、ネズミがわんさかいるんですよ」
「駆除って、どうすればいいのかな」
「パソコンに害虫害獣駆除業者の資料がありますよ。電話して、発注したらいいんじゃないですか」
そう言われて、工場長もパソコンを起動し、たくさんのファイルを開き、駆除会社の連絡先を見つけ出した。
工場長は電話をした。
「給食製造配送センターの工場長です。ネズミの駆除をお願いしたいのですが」
「株式会社A化学研究所のAと申します。ネズミですか。どのような状況か教えてください」
工場長は困惑した。ネズミがいるという話を聞いているだけで、状況なんて知らない。彼は小さな声で、事務員に聞いた。
「どんな状況なの」
「僕に訊かれてもわかりませんよ。現場のことは、栄養士か調理員にたずねてください」
「誰か呼んでくれる?」
「いまはみんな調理で手いっぱいですよ。無理です」
「いつなら大丈夫なのかな」
「午前中は調理、午後は食器洗浄です。三時くらいになったら、手が空くみたいですよ」
「みたいって……。三時なら確かに大丈夫なのかい?」
「僕は二時に帰ります。よくは知りません」
工場長はさらに困惑した。
「すみません。また連絡します」と言って、受話器を置いた。
午後一時五十五分に、事務員は事務所から出た。フライング帰宅だが、これからいろいろと助けてもらわなければならないと思って、工場長は彼を注意することができなかった。タイムカードなどは存在していない。
午後三時頃、管理棟がざわざわと騒がしくなり、食品加工場から、管理棟へ社員やパートたちが移動してきたようだった。みんな休憩室へ行き、事務室には顔を出さない。
男性休憩室と女性休憩室があった。工場長は男性休憩室のドアをノックした。
「はーい」
休憩室から声がしたが、誰も出てこない。
工場長はおそるおそるドアを開けた。
白衣を脱ぎ、ジャージ姿になった男たちが畳敷きの部屋に座っていて、無言で工場長を見た。
「今日からここの工場長になりました。ネズミのことを教えてもらいたいんですけど」
「ネズミ!」
小柄で三十代半ばくらいの男性が威勢よく叫んだ。
「大変なんですよ。なんとかしてください」
「なんとかしたいから、状況を教えてください」
「いっぱい糞が落ちてるんですよ。ヤバいっす。ネズミ、夜になると沼の周りからやってきて、残飯を食べるんですよ。あの沼、ヤバいっすよ」
「糞って、どのくらい落ちてるの」
「いっぱいです」
「見せてもらえるかな」
「工場長、検便は済ませましたか?」
「まだです」
「じゃあだめだ。検便してない人は、調理場には入れないんですよ」
工場長は途方に暮れた。
「駆除業者に対応してもらおうと思っているんだけど」
「ああ、業者呼んでください。おれたちが説明しますよ。今日はもうだめだな。明日の午後三時頃がいい。おれたち、四時には帰るから、ちゃっちゃと済ませます」
工場長は駆除会社に連絡して、明日の三時に工場へ来てもらう手配をした。
調理員たちは午後三時五十五分になると、さっと帰った。五分早いが、工場長はやはり注意することができなかった。
午後五時に、ボイラーマンが事務室にのっそりとやってきた。
「わしが工場の門を閉めることになっとります。そろそろお帰り願えますか」
「わかりました。お先に失礼します」
工場長はマイカーで帰宅した。
事務員、調理員と少し話し、駆除業者に電話をしただけだが、ひどく疲れていた。
駆除業者は給食製造配送センターの点検をした。
午後四時頃、Aと名乗る駆除会社の専務が、工場長に点検結果の報告をした。
「建物にひび割れや穴があります。シャッターにも隙間があります。ネズミはそこから侵入していますね。足跡や糞を多数確認しました」
「どう対応すればよいのですか」
「建築会社に依頼して、ひび割れなどを修理してください。シャッター会社に隙間のブラシガードを設置してもらう必要もあります。それらを早急に行っていただいた後、私たちが糞を徹底的に除去し、消毒します。必要ならネズミ駆除用の罠を設置します」
「わかりました。除去と消毒、罠の見積もりを出してもらえますか」
「はい。それと、問題はネズミだけではないですね。コバエが少しいました。近くの沼で発生するんですよ。あの沼はヤバいんです。あそこからいろんな虫が発生して、飛んできたり、下水管を伝って侵入したりするんです」
「はあ、コバエですか」
「気をつけた方がいいですよ。ネズミも面倒ですが、虫はそれ以上に厄介です」
工場長はそれを聞いて、憂鬱になった。
A専務は社用車で帰っていった。
駆除会社、建築会社、シャッター会社から提出された見積書の金額を合わせると、百万円近くにもなった。工場は昭和五十年代に建てられたもので、老朽化がかなり進んでいる。建築会社の社員が「これ、建て替えた方がいいですよ」と言ったほどだ。
工場長は本社の経理課に電話し、修理代を出してくれるよう交渉した。
「そんな予算はありません」
「出してもらえないと、近いうちに食中毒事件が起こります。うちは操業停止になります」
「仕方ないですね。今回だけですよ」
なんとか予算を確保し、修理や消毒を実施した。
平日は操業しているので、修繕や消毒の作業を行うことはできなかった。
工場長は休日出勤し、給食製造配送センターの門を開け、業者の仕事に立ち会った。
ネズミ対策やどこから入り込んだかわからない金属片の食品への混入事件やトイレ清掃についての清掃業者と調理員の対立解消などに追われて、工場長はばたばたと慌ただしく五月中旬までを過ごした。その頃には、すでにこの仕事を辞めたくなっていた。
そして、最悪の日となる五月下旬の月曜日が訪れた。
七時三十分に管理栄養士が事務室に入ってきた。
「工場長、コバエが発生しています」
「コバエがいるのは知っていますよ。気をつけて調理してください」
「かつてないほど大量に発生しているんです。調理場に来てください」
工場長は白衣と白帽を身に着け、手指の消毒をして、調理場に入った。もちろん検便はすでに済ませている。
蝶のような形の羽を持ったコバエが、たくさん宙に舞っていた。
何百匹いるのか、数え切れない。無数にいる。工場長は呆然とした。
「この状況で調理できる?」
「かなりむずかしいですね」
給食製造配送センターは、いくつかの事業所や私立学校と契約していて、午前十一時三十分までに配送を完了しなければならない。できなければ、事業所の労働者や学校の教員と生徒が昼食を食べられないことになる。配送先は辺鄙なところが多く、コンビニなどは遠い。
「とにかくできるだけコバエが混入しないように気をつけて、調理を始めてください」と工場長は指示した。調理を最初からあきらめるわけにはいかなかった。
工場長は上司に連絡しようとした。
上司は食品事業部長だ。工場長と同格の相談役として、食品事業管理課長がいた。
本社に電話したのは、午前七時四十五分。ふたりとも、まだ出社していなかった。定時は八時三十分。事業部長は重役出勤することで有名で、管理課長は定時きっかりに出社することを、工場長は知っていた。
緊急事態なので、工場長は事業部長の携帯に連絡した。
「はい」という部長の声が聞こえた。
「給食製造配送センター工場長です。おはようございます。朝早くにすみません」
「おはよう。なにかあったのかね」
「工場内にコバエが大発生しています」
「コバエ?」
「はい。たくさんの虫です。無数に飛んでいます」
「そうか。気をつけたまえ」
「すみません、本日の食品調理の中止を許可してください」
「中止?」
「虫が食品に混入する怖れがあります」
「中止なんかしたら、大変なことになるぞ。何百人もの人が、昼飯を食えなくなる。苦情の嵐が来る」
「しかし、害虫混入事件を起こすよりはマシです」
「事件を起こすことなく、給食を無事につくり、配送するのがきみの仕事だ」
「今日の調理を強行したら、混入事件が起きる可能性大です。中止させてください」
「コバエとやらは、すぐに駆除できるのかね。中止は今日だけで済むのか?」
「わかりません」
「適正に職責を果たしたまえ。私は忙しい。失礼する」
電話が切られた。
まだ話すべきことがある。
工場長は再度事業部長の携帯に連絡したが、部長が電話に出ることはなかった。
八時三十分、工場長は事務室から本社の食品事業部に電話し、部長への取り次ぎを依頼した。部長は取り引き先へ直行しているとのことだった。食品事業管理課長に電話を回すよう頼んだ。
「はい、食品事業管理課長です」
「給食製造配送センター工場長です」
工場長は、調理場内でコバエが大発生していて、調理が困難であることを課長に説明した。
「大変ですね」
「大変なんです。調理を中止してよいですか」
「どうして私に許可を求めるのですか」
「部長と連絡がつかないんです」
「ああ、部長は出張でしたね」
「それで、課長に判断を仰ぎたく、連絡しました」
「私には判断なんてできませんよ。そちらがどういう状況なのかわからないし、中止を決定する権限もありません」
「現場だけで判断してよろしいのですか」
「さあ。私にはなんとも言えません。そのことも含めて、工場側で対応してください」
「そのこと? 課長はどこまでのことを言っているのですか」
「いろいろですよ。給食の製造を中止するとなったら、配送先に連絡しなくちゃいけないだろうし、そのコバエとやらをなんとかしなければならないだろうし、明日以降の見通しを立てなくてはならないし、いろいろです。部長が指示できないのなら、すべてを工場長の裁量でやるしかないでしょうね」
食品事業管理課長は頭がいい。先のことが見える。そして責任は回避する。
工場長は気鬱になりながら、受話器を置いた。
「カレーをつくっている釜にコバエが何匹も落下してきて、すでに混入が発生しています。ざるにも降ってきて、サラダ野菜の中に混ざっている怖れがあります。ごはんだけはなんとか炊けていますが、食缶に移す過程で混入する怖れが大きいです。とにかくハエが多すぎるんです。調理と配送の中止をしてよいですか」と調理責任者の調理師が言った。午前九時二十分のことだった。
調理師が言うのなら、無理なのだろう。
工場長は最終確認をするために、また調理場に行った。
コバエの大群が舞っている。さっきより増えているような気がした。本当に増えているのか、気のせいなのかわからない。
「調理を中止してください」と工場長は言った。
事務室で、工場長は事務員に「配送先に電話します。私とあなたとで、手分けして連絡しましょう。手伝ってください」と頼んだ。
「僕は急ぎの仕事をかかえているんです。連絡は工場長だけでしてください」
事務員はパソコンに向かい、相変わらずなんだかよくわからない仕事をしていた。
工場長はため息をつき、何十か所とある配送先への連絡を始めた。
「従業員の昼飯をどうしてくれるんだ。弁当を配達してくれ」
「申し訳ありません。それができないんです」
「バカヤロー、おまえのところに毎月いくら払ってると思っているんだ。責任を果たせ」
「すみません。本当に申し訳ございません」
工場長は事情を説明し、謝りに謝った。
「コバエだと? そんなに不衛生なところで食品をつくっているのか。もう注文しないからな」
「申し訳ありません。衛生にはかねがね気をつけているのですが」
「ならコバエなんて発生しないだろうが。おたくはネズミまで飼っているんだろう」
どうしてネズミのことまで知っているのだろうと困惑しながら、工場長は電話に向かって頭を下げた。
「弁償してくれよ」とも言われた。
「本当に申し訳ございません。そのことについては、会社とも相談させてください」
「おまえが払え」
「すみません、すみません」
だんだんと自分がなにを言っているのかわからなくなってきた。
十一時三十分になっても、全配送先への連絡は終わらなかった。
十二時近くになって最後の連絡をしたときは、「いま頃になって、なにを言っているんだ。すぐに給食を届けてくれ」と言われた。もうまともに答えることができず、「はあ、できればそうしたいのですが」と言った。
昼食抜きで、工場長はA化学研究所に連絡した。
留守番の女性が出た。
「今日は社長も専務もいないんですよ。全社員が消毒で出払っています」とのことだった。
工場長は別の害虫駆除会社に連絡した。
五月下旬はどこの業者も忙しいらしく、連続で断られた。
B建物管理株式会社というところが、午後四時頃なら、害虫駆除担当者を派遣できると答えてくれた。工場長は依頼した。
午後一時十分に、B建物管理株式会社から電話がかかってきた。
「社長のBと言います。コバエ発生の件を聞きました。Cという社員が夕方におうかがいします。ところで、害虫は発生源を特定し、そこを消毒しなければ、何度でも発生するんです。工場内に水たまりがあってもいけないし、下水道から来る場合もあります。下水道業者にも見てもらった方がいいですよ。なにかしらの修理が必要になるかもしれません」と言われた。
工場長は下水道会社にも連絡して、来てくれるように頼んだ。
工場長は本社の経理課に電話し、コバエの大発生により本日の調理が中止になり、明日以降の見通しも立たず、早急に害虫駆除と消毒を行わなければならないと伝えた。
「コバエ大発生の原因も追究し、場合によっては下水道工事を実施しなければなりません」
「そんな予算はありませんよ」
「なくてもやらなければ、うちは操業再開ができません」
「先日、今回だけですよって、言いましたよね」
「この工場は、昭和の建物と設備をいまだに使っているんです。修繕しないのなら、つぶすしかありません」
「つぶすかどうかは、経営陣の判断でしょう」
「それはそうです。ですが社長にだって、すぐにつぶせるわけがありません。今年度中は、いろんな取り引き先へ給食を届ける契約があるんです。できるだけ早く再開するほかに選択肢はありません。必要なお金を出してください」
「いくらですか」
「まだわかりません。駆除と消毒を何回やれば、コバエの発生が終息するのかわからないし、下水道から発生しているとして、どの程度の補修工事をやればいいのかもわからないんです」
「見積もりが出てから連絡してください」
「お金を出せると言ってもらえないと、今日の消毒も発注できないじゃないですか。見積もりをもらうのに時間がかかし、修理に着手するのにさらに時間がかかります。即発注したいんですよ。配送先にいつから給食を届けられるようになるのか、説明しなければなりません。いくらかかろうと、急いでコバエを根絶し、再び発生しないように修理をするしかないんです。ある程度の予算を確保しておいてください」
「いくらぐらいですか」
「少なくとも百万円」
「即答はできかねます」
「頼みます、お願いします」
経理課との話が終わった直後に、食品事業管理課長から電話がかかってきた。
「事業部長からのご指示がありました。保健所に電話して、指導してもらえとのことです」
「保健所? うちは混入事件を未然に防止したし、食中毒を起こしたわけでもないんですよ」
「でも虫が大発生したんでしょう?」
「いまそのことで大忙しなんですよ。保健所への連絡と対応なんてできません」
「じゃあその旨、工場長から部長に言ってください」
課長は電話を切った。
工場長は、部長に電話しても無駄だということがわかっていた。
どうせ保健所対応もやれ、やらなければならんと言われるに決まっている。
工場長は保健所食品衛生課に連絡した。いつとは約束できないが、できるだけ早く担当者をそちらへ行かせるということになった。
午後二時四十分に、下水道会社の社員が来てくれた。
工場長は調理師とともに、調理場やその周りの下水道設備を案内した。
「ここには汚水のトラップ桝がないですね。下水管を通って、害虫が侵入できる構造になっています。トラップ桝を設置しないと、あの沼から、いくらでも虫がやってきますよ」
「あの沼……」
「トラップ桝、設置しますか?」
「いくらぐらいかかりますか」
「会社に戻ってみないと算出できません」
「すぐに見積もってください。できれば、大至急修理の手配もお願いします」
「ご発注いただけないと、手配はできません。部材の準備に時間がかかるので、発注してもらってから、いくらかお時間をいただきます」
「発注します!」と工場長はやけになって叫んだ。
午後三時十分、調理師が「工場長、怪しいところがあるんです。見てもらえますか」と言ってきた。
工場長は調理師に連れられて、食品加工場と配送場の間にあるベルトコンベアを見た。食缶や食器を運ぶためのものだ。そのベルトコンベアは、下部を金属板で覆われていた。金属板の隙間から、コバエが飛び出していた。
ベルトコンベアの下、コンクリートの中に下水管が埋設されている。下水管のルートはわかりにくいが、点検孔から推測することができた。下水溝につながり、それはあの沼のすぐそばを通っている。
「金属板をはがしてください」と工場長は言った。
「いいんですか。いったんはがすと簡単には元に戻せないし、地獄の釜を開けることになるかもしれませんよ」
「地獄の釜とはどういうことですか」
「文字どおり、このコンベアが地獄かもしれないということです」
「もうすでにこの食品工場は地獄ですよ。とことん地獄を見てやろうじゃないですか」
調理師はバールで金属板をこじ開けた。
すると、中から大量のコバエが飛び出した。とてつもない数だった。
「高圧洗浄機で、ここを洗い流してください」と工場長は指示した。
調理師は倉庫から洗浄機を持ってきて、ベルトコンベアの機械を収納してある金属板の中を高圧の水で洗い流した。
流れ出てくる水は黒かった。よく見ると、無数の小さな黒い幼虫が水の中に含まれていることがわかった。
「ここはコバエの巣だ……」と工場長はつぶやいた。
ベルトコンベアは三十メートルほどの長さがあった。
調理師は高圧洗浄機から水を排出しつづけた。黒い水が透明になるまで、一時間ほどもかかった。
午後三時五十五分に、B建物管理株式会社のC氏が到着した。
特殊な服を着て、薬剤を散布する。消毒を実施すると、明日まで誰も調理場の中に入れなくなるとの説明を受けた。
「やってください。もう今日はこれ以上の作業はやりません」と工場長は答えたが、その言葉を言っている最中に、保健所の職員がふたり連れでやってきた。
保健所職員に調理場内を見せないわけにはいかなかった。
工場長はC氏に少し消毒開始を延期してもらうよう頼んだ。
「わかりました。待っています。少し工場内を見てもよいですか。効果的な駆除方法を考えておきます」
「けっこうです。よろしくお願いします」
工場長はふたりの保健所職員を中に入れて案内した。
保健所の指導はうんざりするほど細かかった。
「下水道のトラップ桝はしっかりと設置してください」
「網戸が破れているところがありますね。害虫が入ります。直しておいてください」
「換気扇に防虫網をつけてください」
「エアカーテンの不備があります。あらゆる出入口に設置してください」
「糞がありますね。ネズミ対策も徹底してください」
いくらかかるんだ、と工場長は頭をかかえた。
「一週間以内に実施した対策とその後の予定を報告してください。必要に応じてまた来ます」
保健所職員が帰った後で、C氏が工場長に告げた。
「大発生している虫はチョウバエです。別名便所虫。二週間程度で卵から成虫になり、また卵を産みます。これだけ大発生していると、一日ですべて駆除するのは不可能です。少なくとも三日連続で消毒しなければならないでしょう。発生源はベルトコンベア付近と考えられますが、完全には特定できません。その他の箇所でも害虫が発生または侵入している可能性があります」
「徹底的に消毒してください。お願いします」
断腸の想いで、工場長は言った。
三日間は、完全に操業停止だ。消毒後、場内を完璧に水洗いしなければ、調理器具は使えない。ベルトコンベア金属板の撤去や下水トラップ桝の設置、網戸の修繕なども急いで進めなければならない。権威者ぶった食品事業部長や憎たらしい食品事業管理課長に説明し、承諾をもらわなければならない。経理課とも折衝しなければならない。保健所に進捗報告をしなければならない。なによりも大変なのは、配送先への報告と謝罪だ。
辞表を書こう、と工場長は決めた。
辞表を懐に忍ばせて、明日から仕事をしよう。
すでに胃がしくしくと痛んでいた。
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