第153話 劉備の嫁

「策兄様のような方と結婚したい」

 孫尚香はそう願いつづけてきた。本音を言うと、兄本人と結婚したいが、それはさすがに無理。

 尚香は、江東の小覇王、孫策の妹。

 彼は揚州の英雄だった。華麗な容姿を持ち、電光石火の指揮官で、個人的な武勇も秀でていた。

 尚香が13歳のときに暗殺された。

 彼女は兄に似た美少女。男勝りの性格で、趣味は槍術。

 孫策の死後は、兄を超える英雄と結婚したいと想うようになった。


 彼女が19歳のとき、孫策の後継者であるもうひとりの兄、孫権が縁談を持ってきた。

「劉備殿と結婚してくれないか」と言われて、尚香は驚いた。

「荊州牧の劉備様……。おいくつなんです?」

「50歳だ」

 いくらなんでも年寄りすぎる。彼女は絶対に断ろうと決意した。

「嫌です」

「そう言わないでくれ。わが揚州は、荊州と同盟を結ぶ必要があるのだ。曹操に対抗するためにな」

 尚香は考え込んだ。孫権の妹だから、政略結婚はやむを得ない。

「劉備様が、策兄様以上の英雄であるなら、結婚してもいいです」

 今度は孫権が考え込んだ。劉備が、尊敬していた兄以上の英雄であるとは思えない。しかし、そう言えば、縁談がまとまらない。

「劉備殿は、当代随一の英雄だ」と強弁した。

「それほどですか」

 尚香は、男勝りの強気な性格だが、素直でもある。

「では、とにかくお会いしてみます。英雄だと思ったら、結婚してもいいです」

 孫権は妹の性格をよく知っている。つべこべ言わずに結婚しろ、と無理強いしたら、意地になって断るに決まっている。

「もしかしたら策兄貴には劣るかもしれん。だが、多少は目をつぶってくれよ。現実には、理想の英雄なんていないんだ。兄貴ですら、欠点はあった」

「策兄様には欠点なんてなかったです!」

 やれやれ、大変なブラコンだ。孫権はため息をついた。


 劉備が揚州の首府、建業へやってきた。

 蛇矛の使い手張飛と槍の名人趙雲を護衛として連れている。

 建業城の貴賓応接室で、尚香は劉備と初めて会った。

 揚州側は孫権の他に、武将の太史慈と呂蒙が同席している。

 劉備の背後には、張飛と趙雲がいる。


 見合いだというのに、尚香は着飾っていなかった。

 男の格好をし、槍を持って部屋へ入ってきた。男装の麗人。

「尚香、おまえ、見合いをなんだと思っているんだ!」

 孫権は焦り、叫んだ。

「あたしは英雄と結婚したいんです。この姿でびびるような方なら、お断りです」

 尚香は言い放った。

 そのとき、応接室に大笑いが響き渡った。

「あはははは、これはすごい姫ですな。お美しく、勇ましい」

 笑ったのは、劉備だった。


 尚香は、劉備をまっすぐに見つめた。

 笑顔が底抜けに明るい。これは大人物だ、と彼女はとっさに感じた。

 耳が大きすぎて美男とは言えないが、大人の余裕と風格がある。

 渋い風貌は、長年の苦難を越えてきたことを想像させた。

 あら、意外といい男だわ……。


 彼女は第一印象で劉備に好感を持ったが、ここで強気な性格が表れた。

「あたし、自分より強い方と結婚したいんです。劉備様、槍で勝負していただけませんか」

 劉備は微笑んでいた。

「ここにいる張飛と趙雲は、私の分身のような家臣です。彼らにお相手させましょう」

 孫権は仰天した。張飛と趙雲は、有名な豪傑だ。まともに勝負したら、妹が殺されてしまう。

「劉備殿、ご冗談を」と彼は言ったが、「それでいいです。家臣の方と勝負します」と尚香が言ってしまった。

 彼女は槍を荊州の豪傑たちに向けた。


「拙者がお相手いたします」

 そう言ったのは、趙雲だった。

「趙雲殿、やめてくれ! 妹はじゃじゃ馬なのだ。ついこんなことを言ってしまう性格なんだ。本気にしないでくれ」

「孫権様、ご安心ください。妹君を殺したりはしません。拙者は素手で戦います」

 趙雲は、武器を持たずに立ちあがった。

 圧倒的な強者のオーラがある。

 ものすごい人だ、と尚香にもわかった。でも、素手というのは、あたしを舐めすぎじゃないの、とも思った。彼女は真剣に槍術を練習してきた。並みの兵士には負けない自信がある。

 それに、趙雲の腕前を見てみたい。

 すごい豪傑を従えているなら、劉備が英雄である証拠ともなる。それを体感してみたい。


 全員が、広間へ移った。

 槍を持つ尚香と素手の趙雲の試合。

「いざ勝負。その槍で、拙者を殺してもかまいません」

「本当に素手でよいのですか? せめて木刀でも持ったらいかがですか」

 尚香は、槍先に殺気を込めた。

 劉備は相変わらず笑顔でいる。

「尚香さん、本気で戦ってみなさい。わが家臣を死なせても、文句は言わない」

 尚香は劉備の目を見た。澄んだ瞳だった。素敵な人だな、とまた思った。


「ではゆきます」

 彼女は槍を突いた。

 趙雲は軽々と避けた。

 尚香は次々と槍を突き、振り、真剣に攻撃した。

 豪傑にはかすりもしない。

 彼女の息があがってきた。趙雲はまったく息を乱していない。

「これでどうだ!」

 裂帛の気合いを入れ、突く。

 その槍を、趙雲は素手でつかんだ。

 勝負あり。


「負けました。さすがです、趙雲様。でもあたしにも意地があります。もうひと勝負したい」

 強気な尚香は、張飛を睨んだ。

「おれは趙雲ほどやさしくないぞ、尚香殿。あんたを殺してしまうかもしれねえ」

 虎のような髭をはやしている張飛に睨み返されて、彼女はひるんだ。必死に耐えた。

「あなたも素手ですか?」

「おれは片手でいい。それも利き腕ではない方で」

「まさか……」

 槍と片手? いくらなんでも負けるはずがない、と尚香は思った。劉備を見た。

「かまわんよ、尚香さん。張飛を殺すつもりでやってみなさい」

 彼は家臣を完璧に信頼しているようだ。

 よし、試してやる!


 太史慈が張飛の右手を背中に回して、縄で縛った。

「いいのか、張飛殿。この格好だと、おれでも尚香様に負けるかもしれんぞ」

「女に負けたら、死んでもかまわねえ」

 張飛は、尚香以上に強気だった。


 彼女は劉備の義弟と対峙した。

 張飛からは、趙雲以上に怖ろしげな迫力を感じた。

 片手を縛られているのに、張飛が一歩前に出ると、尚香は一歩下がった。

「どうした、孫権殿の妹君。臆病者はおれの兄貴の嫁にはいらねえぞ」

 臆病者と言われて、彼女はかっとなった。

 槍を突き出した。

 槍の柄を、張飛は左の手刀で割った。

 一瞬で、勝負はついた。

 尚香は、がくりと膝を折った。


 貴賓応接室に戻り、酒宴になった。

「尚香さん、すばらしい気迫でした。あなたと結婚したい」

 乾杯の直後、劉備がストレートに言った。男らしい。

 すでに彼女は彼が好きになっていた。

 いまとなっては、年の差なんてまったく気にならない。

 ほんのりと頬を赤く染めた。

「はい……。ふつつか者ですが、どうかよろしくお願いします」

「私は逃げ足の速さで知られている。曹操の大軍に追われたときは、妻を捨てて逃げた。それでもよいのか?」

 劉備は笑っていた。さきほどまでの柔らかい笑みではなく、凄みのある笑顔だった。

 試されている、と尚香は感じた。

「かまいません。大将が生き延びるために逃げるのは、あたりまえのことです。危機の際は、あたしを置いて逃げてください」

 きりっと答えた。

「あなたに惚れた」

 劉備はもとの笑顔に戻った。

「孫権殿、この婚儀、ぜひとも進めていただきたい」

 孫権は、政略結婚が無事にまとまりそうで、ほっとした。

「妹を頼みます」


 尚香には、気になったことがあった。

「劉備様、あたしは側室になるのですか?」

「前の妻はもう死んでいます。正室としてお迎えしますよ」

「よかった……」 

 彼女は素直に口に出した。

 応接室が笑いで包まれた。


 孫尚香と劉備は、仲睦まじい夫婦になった。

 後年、事情があって、尚香は孫権のもとに戻ることになったが、離れても劉備を想いつづけた。

 夷陵の戦いの後、彼が死んだと聞いて、涙を流し、長江に花を投げた。 

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