第146話 文楽とペンギン先生

「音楽に対抗して文学は文楽ぶんがくになりました。文が楽しいと書きます。純文学も純文楽と表記しなければなりません」とペンギン先生が言った。

 文学部純文学科教授であるところのえらいえらいペンギン先生が言うのだからまちがいない。

 文学は文楽になり、純文学は純文楽になったのだ。

 僕は先生の言葉をノートに一字一句克明にメモした。

「音楽は音学にでもなっちまえばいいのです。でも音楽は音楽のままだそうです。文部〇学省からの通達の注に書いてありました。ここはまちがえてはなりません」

 ペンギン先生の現代文学基礎理論を僕は一番大切な講義だと思っていて、同時に一番楽しみにもしている。

「ところで、ペンギンは人類ではなく鳥類です。飛べないけれど、直立二足歩行するけれど鳥類です。これに関して文部〇学省はなんの通達も出していませんが、普通に常識なので、みなさんまちがえてはいけませんよ」

 始まったぞ、と僕は思った。ペンギン先生の講義は脱線が非常に多くて楽しい。僕が先生の講義を愛好する所以だ。

「ちなみにコウモリは飛ぶけれど哺乳類です。ガッデムコウモリ野郎、超音波でも出していやがれ」

 僕はまだ二回生でゼミに入ることはできないが、三回生になったらぜひともペンギン先生の五言絶句ゼミに入りたいと熱望している。漢詩にはまったく興味はないが、ペンギン先生が教えてくれるならなんでもいい。さいわい毎年募集定員割れしているそうなので、希望すれば入れる可能性は非常に高い。しかし面接でペンギン先生に嫌われると容赦なく落とされるそうなので油断は禁物だ。先生はコウモリが嫌いだ。まちがってもコウモリを礼賛してはならない。

「さて、文楽は楽しくなければなりません。まちがっても苦しく学ぶようなものであってはいけません。だって文楽なんだもの。最低限でも音楽と同程度に楽しくなくてはなりません」

 先生が滑らかに講義をつづける。ペンギンの手だか羽だかわからないところがふりふりと動く。

「できれば音楽以上に楽しくありたいものですが、壁は非常に高いと言わざるを得ません。ビートは人類と鳥類の脳の快楽回路を直接刺激することができ、メロディは心臓のときめき回路に濃密に触れることができるからです。対して文楽はどうか。読んで意味を理解してようやく楽しめる表現形式です。これはつらい。音楽に比べると非常に面倒くさくて回りくどい。負けそうですね。でも負けてはなりません。どうやって勝てばよいのか」

 ペンギン先生の愛らしい瞳が微かに陰る。先生は考えている。いかにすれば文楽が音楽に勝てるか考えているのだ。先生はいつも即興で語って講義をしている。グルーブ感を大切にしたライブをしたいと五言絶句ゼミで語ったそうだ。ペンギン先生は極めて音楽的な文楽者である。

「絵画と音楽と物語の発祥は人類の黎明にまで遡るという説があります。文楽は物語の末裔です。数百万年の歴史があると言ってもよいでしょう。しかしながら、音楽の誕生は鳥類の起源にまで遡及できると先生は思っています。その歴史は数億年におよびます。あれ、歴史的にも文楽は音楽に勝てそうにないですね。だめだな。勝率はねえよ。文部〇学省はそのあたりをどう考えているんでしょうね。やっぱ文楽は文学でいいんじゃないかな~なんて先生には思えてきました」

 ペンギン先生は南極で突然変異したコウテイペンギンだ。行き倒れていたところを日本の南極観測基地のひとつ、あすか基地の隊員に救われた。基地で救護して、柔らかく煮た魚を食べさせていたら元気になった。南極の大地に返そうとしたら、突然日本語をしゃべり出し、「ペンギン社会にはいまは帰りたくない。理由は言いたくない」と言ったそうだ。先生は日本の水族館に送られ、しゃべるペンギンとして有名になり、本を読むペンギンとしても人気を博し、あれよあれよという間に大学教授になっていた。空前のペンギンである。

「先生の前には文学者になる道とともにミュージシャンになる道もありました。ご覧のとおり先生には指がなくて楽器を演奏することはできませんが、ペンギンばなれしたこの声帯で歌手になることもできたのです。芸能事務所からスカウトされたことがあるからまちがいありません」

 それはまちがいかもしれない。先生の音痴は一緒にカラオケに行った何人もが証言している。先生は存在自体に稀有な価値があるからスカウトされたのだろう。

「ではなぜ文学、いや、文楽の道を選んだのでしょうか。文楽には知的愉悦があるからか、物語は人と一部の鳥類の心を動かす力を持つからか、それとも杜甫の詩に感動したからか。それもあるが、それだけではありません」

 僕はメモを取るのをやめてペンギン先生の話に聴き入った。

「文楽は意味の芸術であります」

 先生の愛らしい顔が苦悩に歪み、その狭い額に脂汗がにじんだ。

「先生はかつて仲のよいペンギンからおまえの話は意味わかんねえと言われたことがあります……。先生は……わたしは……ショックを受け、ペンギン社会から逃げ出しました。それ以来、意味について考えつづけています。江碧鳥愈白 何日是帰年……。海はエメラルドグリーンで、ペンギンはいよいよ白い。私はいつになったら南極に帰ることができるのだろう……。簡潔にして楽しい文楽を極めたとき、先生は友達に再会できると思っています」

 そのとき、講義時間の終了を告げる鉦が鳴った。

「おや、まだまだ語り足りませんが、時間になったようですね。ガッデムコウモリ野郎、文楽フォーエバー、みなさんごきげんよう」

 ペンギン先生はぺたぺたと演壇を歩いた。助手に抱きついて、そこから降ろしてもらっていた。

 五言絶句ゼミに入り、いつしか助手になって先生を抱きしめたいと僕は思った。 

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