第130話 死贈蚊

 死贈蚊しぞうかが日本中に増殖している。私は怖くてたまらなかった。死贈蚊は、体がどろどろに溶けてしまう溶解病ウイルスを保有していて、刺されると死んでしまう。恐るべき蚊だが、外見はヒトスジシマカにそっくりで、見分けがつかない。本当の名称はシロスジシマカという。死贈蚊は通称だ。

 私の家は沼に隣接していて、庭は広くて藪に覆われている。要するに、蚊がたくさんいる家なのだ。死贈蚊もいるかもしれない。

「蚊が怖くて、こんな家には住めないよ!」と私はお父さんとお母さんに向かって叫んだ。

「確かに死贈蚊は恐ろしい」

 お父さんは眉間に皺を寄せていた。

「でも、この家は大正時代から残っている先祖伝来のものなんだ。蚊なんかのために、放棄するわけにはいかないんだよ」

「蚊なんかってなによ! ただの蚊じゃないのよ。死を贈る蚊なんだよ!」

夏美なつみ、落ち着いて」

 お母さんは信じられないほど落ち着いていた。庭にたくさんの死贈蚊が棲んでいる恐れがあるのに、どうして落ち着いていられるのだろう。

「死贈蚊は日本中に生息しているのよ。どこにも逃げられないわ」

「そうかもしれないけれど、うちは蚊が多すぎるよ! この村も田舎すぎて、蚊がうじゃうじゃいる。こんなところにはいられない。東京に引っ越そうよ!」

「そう簡単に引っ越しなんてできるわけないだろう。お父さんは村役場に勤めているんだよ。働かないと、家族みんなが路頭に迷う」

「転職してよ! お願いだから、東京で仕事を探して!」

「夏美、無理を言わないでくれ」

 お父さんが困惑した顔をしていたので、私は口を閉じた。私はわがままを言っているのだろうか。

「お姉ちゃんの言うとおりだよ。ここは怖すぎる。古い家で、隙間が多くて、どこからともなく蚊が入ってくる……。怖いよ!」と弟の夏生なつおが言った。

 私と弟はふたりとも夏に生まれた。だから名前は夏美と夏生。そしていまは夏だ。忌まわしい蚊が活発に飛び回る夏。

 蚊が怖くて、夏休みだというのに、私も弟もほとんどの時間を自室に引きこもって過ごしている。その部屋の中にも蚊が入ってくることがあるので、私はずっと蚊取り線香を焚き、虫除けスプレーを体中に吹きつけ、殺虫剤を握りしめて暮らしている。神経質すぎると思われるかもしれないが、蚊に刺されて死なないための当然の予防措置だと私は思っている。

「とにかく、すぐに東京に引っ越すなんて無理だし、この家も簡単には手放せない。とりあえず、庭の草木を刈り取ろう。そうすれば、蚊も少なくなるだろう」とお父さんは言った。

「死んだおじいちゃんは村長だったし、お父さんは村役場の部長なのよ。私たちはこの村を捨てるわけにはいかないの。それに、東京にだって蚊はいるのよ」とお母さんは言った。

 母方の祖父が村長だった。お母さんの郷土愛は人一倍強い。

 私は中学2年生で、夏生は小学6年生だ。両親がここにいると言うなら、生活力のない私と弟は村から離れられない。

 数日後、造園業者がやってきて、庭の木々を伐り倒し、除草をした。作業をしたのは、3人の男性だった。だが、彼らは除草中に倒れた。死贈蚊に刺されたのだ。やっぱりシロスジシマカは庭にいた。

 お母さんが救急車を呼んだ。溶解病は致死率99パーセントの病気だ。しかも、病状は急激に進行する。救急車は間に合わず、造園業者の人たちは庭でどろどろに溶けて死んでしまった。私は男の人たちの肉体がじょじょに液状にとろけていくのを目撃し、腰を抜かした。人が生きながら溶けていく光景は、本当に恐ろしいものだった。

 庭の藪はまだ半分ほど残っていた。お父さんはつづきをやってくれる業者を探したが、死贈蚊を恐れて、引き受け手は見つからなかった。

 日曜日に、お父さんはレインコートを着て、ビニールの手袋をはめ、フルフェイスのヘルメットをかぶって、自ら庭の草を刈った。完全装備のはずだった。でも、蚊は微細な隙間から入ってくる。

 完全装備を解いて、家族4人で一緒に昼食を取っているときに、お父さんは発病した。私とお母さんと夏生が見ている前で、お父さんは溶け始めた。

「あれ、おかしいな? 蚊に刺されるはずはなかったんだが……」

 服のどこかに隙間があったにちがいない。

 顔が溶け、体が溶けていく。 

「あああ……。おれ、死ぬのか……」というのが最後の言葉だった。お父さんはびちゃっと食卓に溶け落ちた。

「あなた!」とお母さんは叫んだ。夏生は「お父さん……」とつぶやいて、どろどろに溶けた遺体を見下ろしていた。

 私はと言えば、「ぎゃーっ!」と喚いて、自室に逃げた。お父さんの死体は、目玉だけが溶け残っていて、それが私の方を見つめていた。恐ろしくて気が狂いそうだった。

 その後、ほどなくしてお母さんと夏生も死んだ。家の中で死贈蚊に刺され、溶解病で亡くなったのだ。

 こんな家に住みつづけるべきではなかった。

 こんな村にいるべきではなかった。

 さっさと蚊の少ない大都会へ移住するべきだったのだ。

 私はいつもより念入りに虫除けスプレーを体に吹きつけ、殺虫剤を右手に持って、家から脱出した。

 東京へ行く。

 子どもひとりで生きていけるかどうかはわからない。でもここに居つづけたら、まちがいなく死んでしまう。

 私は最寄りの駅行きのバスに乗った。到着するまで、約1時間かかる。ここはコンビニひとつない僻村なのだ。隣の市まで行かないと、鉄道に乗ることすらできない。

 車窓から村を見た。山深い村で、バス道路沿いに家々が建っている。神社の前のバス停に溶けた死体と着る人を失った衣服があって、私は目を背けた。

 溶解死体を見たバスの乗客の顔面が、恐怖で引き攣っていた。私の表情も似たようなものになっていることだろう。

 この村はもうだめだ。早く逃げ出したいと痛切に思ったとき、ブーンという嫌な音が聴こえた。

 バスの中に蚊がいる!

「いやだあああああ。蚊なんかに殺されたくないよお!」

 私は絶叫した。

 そのとき突如として大きな衝撃を感じ、私はバスの座席から床に投げ出された。

 なにが起こったのだろう?

 私は立ち上がり、車内を見回した。

 中年の女の人が悲鳴をあげ、運転席を指さしている。

 運転手さんがどろどろに溶けていた。

 私は事態を理解した。操縦者を失ったバスが、民家に衝突していたのだ。フロントガラスが粉々に砕け、運転席はひしゃげていた。

 バスはもう動きそうにない。

 駅はまだまだ先だ。私はこの村から出られずに死ぬ運命なのだろうか。

 バスから降りて、とぼとぼと歩いて、駅に向かった。周囲には田んぼや山林が広がっている。怖い。この村にはやつらがたくさん棲んでいる。

 血を求める数匹の蚊が、嫌な羽音を立てて、私に近寄ってきた。

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