第92話 臭人がゆく 

 臭人くさびとが歩いている。

 その者からはすさまじい悪臭が発生している。

 風下にいる人は悶絶して気絶する。屍累々といった惨状だ。

 バキュームカーとスカンクのおならと腐った銀杏とくさやの干物の煙を混ぜたような臭いがするのだ。

 臭人に罪はない。

 その者、毎日お風呂に入り、ていねいに体を洗っている。

 しかしなぜか体から悪臭が漂い出る。本人は鼻が慣れて麻痺しているのでわからないのだが、嗅いだ人はたまらず失神する。

 歯だってきちんと磨いているが、口臭は濃縮したアンモニアのごとしだ。

 毒ガスクラスの危険性を帯びている。

 臭人も生きていかねばならぬ。

 米とコロッケと肉と野菜を買うために商店街へやってきた。

 商店街のお客さんたちは臭人警報を聴いて、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰った。

 店の主人や従業員などは戦々恐々としながら持ち場を守っている。

 みんな臭人が悪人ではないことを知っている。臭人に罪はない。悪いのは臭いだ。

 臭人はまず米屋へ向かった。その者が来ることを知って米屋の若旦那は逃げ出したくなったが、鼻を洗濯ばさみでつまんで堪えた。臭人も米が買えなければ困るだろう。

「こんにちは、米を売ってください」

「そこに置いてあるから、持って帰ってくれ」

「あの、お代はいくらですか」

「千円でいいから。早く買って帰ってくれ」

「安いですね。なんかすみません」

 臭人は千円札をレジの横に置き、米袋を大きな布の買い物袋の中に入れた。

 その者が去った後、若旦那は消臭剤を撒いたが、悪臭は容易には消えなかった。撒いている途中で気絶した。

「あんた、大丈夫かい」と言ってかけ寄った美人の奥さんも残り香を嗅いで倒れた。

 繰り返すが、臭人に罪はない。その者、人に迷惑をかけないように、清潔を心がけている。しかし臭うのだ。どうしようもなく臭うのだ。内臓から何か得体の知れない物質が漂い出しているのかもしれないが、医者も学者も臭人に近寄りたくないので、すべては謎につつまれている。

 その者、次に肉屋へ向かった。揚げたてのコロッケがほしいのだ。

 番をしていた肉屋の主人は恐怖に堪えられず、逃げ出した。長女が健気に店に残った。彼女は臭人が困っていることを知っていた。勇敢な少女。コロッケを三つ揚げ、紙袋につつんだ。

「コロッケをください」

「二百四十円です……」

 そう言い残して、肉屋の長女は崩れ落ちた。

 臭人は釣銭のないように小銭を置き、あたたかい紙袋を取り、買い物袋の中に入れた。

 その者が去っても、主人はしばらく帰ってこなかった。長女は倒れたまま長時間放置される破目になった。勇敢なる少女よ、永遠なれ。

 そのような商店街の店主や家族や従業員の勇気ある行動により、臭人は無事に買い物を終えることができた。その者は無事だったが、商店街は無事ではなかった。救急車すら出動した。

 臭人は家に帰った。帰宅途上でも、数多の人を昏倒させた。

 その者、巨大な敷地の中に建つ大豪邸に住んでいた。

 ともに住める剛の者はいない。

 臭人はテレビを見ながらコロッケを食べた。

 今夜もゆっくりとお風呂に入ろうと思っている。

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