第89話 石を捨てる。

 一瞬、目の前が暗くなった。

 気がつくと、僕は海岸に立っていた。

 ザ、ザーンと白波が浜に打ち寄せるごくふつうの海に見えた。

 しかし、浜にはたくさんの黒い石が転がっていた。

 無数の黒い石。

 大きい石も小さい石もあった。

 丸い石もギザギザの石もあった。

 共通点はどれもが黒いことだった。

 黒い石ばかりが転がっている海岸。奇妙な場所だった。

 上を見ると、青い空がひたすらに広がっていた。

 雲はひと筋も見当たらなかった。

 海岸にふたりの女性が立っていた。

 なにごとか話し合っている。

 似た容貌と背丈の女性だ。

 少し遠くてはっきりとはわからないが、ふたりは同一人物ではないかと思うほど似ていた。

 ひとりは右手に黒く細長い石を持っていた。

 その人は黒い石を海岸に捨てた。

 そして、ふたりは幻だったかのように消え失せてしまった。

 僕の目の前には男性がいた。

 僕そっくりの男だった。

「ここはどこなんだ?」と僕は訊いた。

「ここは悩みの石の海岸さ。石を捨てるか捨てないか決めるところだ」

「悩みの石の海岸?」

「そう。きみが手に持っている石をここに捨てるか、持っているか、決めるんだ」

 僕は涙滴型の黒い石を左手に持っていた。

 そんなものを持っているなんて、気づいていなかった。

「これが悩みの石か」

「そうだよ」

「なんの悩みなんだろう」

「ここではそれは思い出せないし、教えてもいけないことになっている」

「そうなんだ……」

「とにかく、いまここで、それを捨てるか捨てないかを決めなければならない。それが決まりだ」

 僕は迷った。

「これを捨てるとどうなるのかな?」

「悩みをひとつ消せるよ。悩みを抱えたまま生きていきたければ、持っていればいい。悩みを捨てたければ、石を捨てるんだ」

「その悩みがどんなものなのか知らなければ、決められない」

「それでも決めなくてはならないんだ。ここはそういうところなんだよ」

 迷ったあげく、僕は石を捨てた。

 また目の前が暗くなった。


 気がつくと、僕は大学のキャンパスにいた。

 僕の彼女だった女の子が、僕の前から立ち去っていく。

 フラれたのだ。

 2年間つきあった大好きな彼女。

「他に好きな人ができたの」と言われた。

 不思議なことに、僕は少しも傷ついてはいなかった。

 泣きたくもならない。

 何かを捨てたような気がする。

 大切なものだったようにも、一刻も早く捨てたかったものだったようにも思えた。

 何を捨てたのか、僕はまったく思い出すことができなかった。 

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