第84話 カナと放射性物質
大気中の放射性物質は目に見えない。
そんなものに追い立てられるとは思ってもいなかった。
カナが朝起きて、顔を洗い、朝食を食べていると、公民館長が管理人室に飛び込んできた。
「カナ、避難だ! 急いで荷物をまとめろ」
「朝っぱらからなんの騒ぎですか? また怪獣でも出たんですか?」
「そんなんじゃない。原発事故だ。ここらあたりにも放射性物質が降ってくるってえ話だ。午前9時に小学校から避難用のバスが出る。それに乗れ」
「原発事故? どこで?」
「県内の原子力発電所だ。詳しいことは私も知らん。とにかく避難だ」
公民館長は慌ただしく去って行った。
カナは途方に暮れた。相手は放射性物質だ。今度はこっそりと隠れているわけにはいかない。
「怪獣ちゃん、どうする?」
「カナは避難しなよ。ぼくは裏山に戻って暮らす。放射性物質なんか怖くない」
「怖いよ」
「人間の方がよほど怖い。人間が避難していなくなれば、ぼくは元の大きさに戻って、のびのびと暮らせる」
怪獣ちゃんはいまは20センチほどの小さなセンザンコウだが、本当は体長20メートルの怪獣センザンコウなのだ。
短い間だったけど、仲よく暮らした。
別れがたい。
「本当に大丈夫なの? 一緒に避難しない?」
「ありがとう。でもぼくはここにいる。ここがぼくの故郷だ」
わたしの故郷でもある、とカナは思った。
戻ってこられるのだろうか?
「達者で暮らしなよ」
「カナもな」
カナは荷物をまとめた。お札が1枚しか入っていない財布、ほとんど貯金のない預金通帳、印鑑、教科書、使い古しの衣服、何冊かの文庫本、水筒などをリュックサックにつめた。
怪獣ちゃんと一緒に公民館の門を出た。
カナは小学校へ。
怪獣ちゃんは裏山へ。
「さよなら……。元気でね」
「カナもな」
カナの目を優しげに見つめてから、怪獣ちゃんは草叢に消えた。
カナは小学校の校庭に行った。そこにはすでに3台のバスが停まっていた。
「早く乗ってください!」
役場の人に急かされて、カナはバスに乗った。運転手さんに訊いた。
「原発事故って、深刻なんですか? メルトダウンとかですか?」
「いろいろ訊かれるんだが、おれもよく知らないんだよ。深刻ではあるみたいだな」
「このバスはどこへ行くんですか?」
「とりあえず隣の県の避難所へ行くことになってる」
「とりあえずってどういうことです?」
「もっと遠くへ逃げなくちゃならないかもしれないってことさ。東日本が全滅する可能性もあるって、誰かが言ってた」
東日本全滅?とカナは思った。
「それは本当なんですか?」
「確かなことは、誰にもわかっていないようだぜ」
運転手さんはお手上げのポーズをし、首を振った。
カナはバスの1番後ろの座席に座った。
目に見えない放射性物質。
そんなものに追い立てられるとは思ってもいなかった……。
原発事故はとりあえず収束した。
廃炉の作業がつづいている。
カナは隣の県の仮設住宅に暮らしながら高校に通い、卒業した。
町工場の事務員の仕事に就いて、一生懸命働き、奨学金を返している。
故郷は帰還困難区域に指定されて、帰ることはできない。
それはとても残念だけど、怪獣ちゃんがあの山でのびのびと暮らせていたらいいな、とカナは思っている。
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