第11話 気候変動で富士山頂は超高級住宅地。裾野は貧民街。そんな時代に生きている。

 僕は富士山頂に住んでいる。

 二十一世紀は気候変動の時代だった。国連や国家や企業や人民の気候正常化へのさまざまな努力にもかかわらず、地球の平均気温は上昇を続けた。海には発電用風車を林立させ、太陽光発電パネル島を浮かべた。街からはガソリン自動車を一掃して、化石燃料の使用を劇的に低減させたが、時はすでに遅かった。世紀末には、南極の氷はすっかり解けてしまった。海面が上昇し、いくつかの小さな島国が消滅した。日本では、都市化していた平野のほとんどが海面下に沈んだ。熱帯気候になり、真冬でも雪が降ることはなくなった。

 そして今、二十二世紀は気候恐慌の時代だ。夏には最高気温が連日五十度を超し、熱中症の死者は毎年二十万人にも達している。スーパー台風が年がら年中発生し、大水害を誘発している。かと思うと、雨が降らない時期はダムが干上がるほどひたすら降らず、大渇水だ。そんな過酷で極端な気候の時代に僕たちは生きている。

 幸いにもパパは超富裕層に属し、僕の家族は日本で一番地価の高い富士山頂の超高級マンションに住んでいる。空気が薄くて激しい運動はできないけれど、気温が三十度を超えることは稀で、最高に過ごしやすいところだ。美味しいレストラン街や便利なショッピングモールがあり、何不自由なく暮らすことができる。

 北アルプス、南アルプス、八ヶ岳の高地なども高級住宅地で、金持ちばかりが住んでいる。海抜千メートルを超える場所に住めるのは富裕層だけである。

 低地には、貧民街が広がっている。かつて富士の裾野は樹海だったそうだけど、今はちがう。樹なんて一本も生えていない。崩れ落ちそうなボロアパートが所狭しと建ち並び、ゴミと糞尿と肉の腐った臭いが漂う最底辺の人口密集地帯である。という話をママから聞いた。実は行ったことがない。治安はそうとう悪いらしい。

「けっして裾野に行ってはだめ」とママからきつく言われている。

 さて、富士山の八合目には僕が通う中学校がある。富裕層の子息ばかりが集まる学校だ。富士山にはロープウェイが網の目のように張り巡らされていて、それに乗って通学している。

 僕が属する二年一組には三十人のクラスメイトがいて、その中にひと際目立つ女の子がいる。髪を銀色に染めた不良少女Aだ。

 少女Aはやたらと僕に絡んでくる。映画見ようぜとかゲームしようぜとか遊びに誘われることがあり、復習なんかしてんじゃねぇよとかおごってくれよとかウザ絡みされることもある。

 こいつ僕のことが好きなんじゃないかと勘ぐってしまう。確かめたことはないんだけど。少女Aは容姿が優れていて、恋人になってくれるなら嬉しい、かもしれない。

「裾野へ行こうぜ」ある日彼女が言った。

「だめだよ。裾野は治安が悪いから絶対に行ったらだめだって、ママから言われているんだ」

「ママって、おまえ、ガキかよ」

「う、お母さんから言われているんだ」

「言い直さなくていいから行こうぜ。ちょっとした探検だよ」

 少女Aは僕の頭に腕を絡めてきた。情け容赦のない強烈なヘッドロックで締めつけてきた。

「痛い痛い痛い、ギブ、ギブアップ!」

「裾野行くか?」

「行くよ!」

 というわけで、僕と少女Aはロープウェイを何本も乗り継ぎ、富士の裾野の貧民街へやってきた。五合目あたりから異臭が漂い始め、二合目では、これ死臭なんじゃないの、と思うような強烈な悪臭を嗅ぐことになった。そこでロープウェイを降りた。約三千メートルを一気に下ったので、とにかく暑い。

 周りには木造や錆びた鉄骨造のアパートが建ち並んでいた。あからさまに目付きの悪い人たちが路上に座り込んでいる。ここでは不良少女Aが品行方正なお嬢様に見える。この街の住民はヤバい、と直感でわかる。

「か、帰ろうよ、A」僕は完全にビビっている。

「バ、バカ言うな。探検はこれからだろ」と強がるが、Aの声も震えている。

 二人で突っ立ったまま一歩も動けないでいると、あっという間に粗末な身なりの人たちに取り囲まれてしまった。ナイフや鉄パイプを持っている男もいる。マジで怖い!

「金を出せ。服も脱げ。下着だけは許してやる。そしてさっさと帰りやがれ」とリーダー格らしいナイフを持った男から言われた。

「現金は持っていないよ。生体認証で買い物をしているから」

「だったら眼球をくり抜いてやる。指の皮を剥いでやる」

「やめてよ。死んだ眼球で買い物はできないよ。指紋も偽造できるから、生きた眼とセットじゃないと使えないよ」

 僕は懸命に抗弁した。

 ナイフの男は凶悪な目付きで僕を睨む。あご髯が濃い。怖すぎる。

 少女Aが僕と男の間に割って入った。

「ゴールドを渡す。換金しようと思って持ってきたんだ。これを渡すよ」

 彼女は金の延べ棒をリュックサックから取り出した。

「裾野ではまだ現金決済だと聞いていたんだけど、本当なのか?」

「本当さ。円とドルと元が使える。ゴールドにはもちろん価値がある。命拾いしたな、おまえら」

「もしあたしがゴールドを持っていなかったら、どうするつもりだった?」

「おまえらの内臓を売り捌いていただろうな」

 ぞっとした。本当にヤバいところだ。さっさとゴールドを渡して、帰りたい。ところが、少女Aは金の延べ棒をリュックにしまった。

「せっかくここまで来たんだ。裾野の料理を食べたい。ラーメンという名物料理があると聞いている。あたしたちにラーメンを食べさせてくれ。そしたらゴールドを渡す」

「服も渡せ。おまえらの来ている服は高く売れる」

「わかったよ。下着で帰る。せめてラーメンを食わせろ」

「いいだろう。旨いラーメン屋に連れて行ってやる」

 ナイフの男が歩き出した。少女Aと僕はその後に続いた。鉄パイプの男がしんがりに着き、「おまえらは待っていろ」と他の者たちに告げた。鉄パイプの男の腕は太く、刺青が施されていた。だから怖いんだってば。

「ラーメン三郎」という看板の油汚れのすごい店に連れて行かれた。その店には行列ができていた。薄汚れたTシャツなんかを着た男や女たちが意外と行儀よく並んでいた。この街特有の異臭の中だったが、店からは食欲をそそる香ばしいニンニクの匂いが漂ってきていた。僕たちは列の一番後ろに並んだ。

 ラーメンのことは僕も知っていた。山頂のレストラン街にはないので、食べたことはないが、かつて日本の国民食だったという噂を聞いたことがある。

 店のドアが開いて、中から満腹したようすの人が出てくると、行列が進む。やがて僕たちの順番が来た。店内にはカウンター席が七席と四人掛けのテーブルが二つあった。僕たちは折よく空いたテーブル席に四人揃って座ることができた。強面の男二人と一緒に座って嬉しいわけではないが、まぁそれは我慢だ。

「ラーメン大盛四つだ。全部乗せ、麺硬め、味濃いめ、ニンニクマシマシで頼む」ナイフの男が注文した。意味がわからなかった。全部乗せって何?

「あいよ。ラーメン大盛、全部乗せ、麺硬め、味濃いめ、ニンニクマシマシ四丁入りましたぁ」店員が叫んだ。

 待つこと五分。野菜とチャーシューと茶色く煮込まれたゆで卵で盛り上がった丼が四つ、テーブルに届けられた。ニンニクもたっぷりと乗っている。素晴らしくいい匂いがした。

「どうやって食べればいいの、これ。野菜がこぼれちゃうよ」

「お上品に食うことはねぇ。こぼれてもいいから、がっつり食え。もたもたしてると、麺がのびちまうぞ」

「麺なんてどこにあるのさ?」

「具を食っていれば、下から出てくる。さっさと食え!」

 少女Aはすでに食べ始めていた。「旨い」とつぶやいている。僕も野菜とチャーシューの山に箸をつけた。

 炒めた野菜を一心不乱に食べていると、白濁したスープと縮れた麺が姿を現した。僕はスープをれんげですくって飲んだ。

 なんだこれ! 旨すぎる。脳天がしびれた。舌が幸福になった。ほっぺたが落ちた。いや、比喩だけどさ。

 麺をすすった。腰があり、かつもっちりしている。食べるのが快感だ。うわぁ、箸が止まらない。なんだこれ、なんだこれ。麻薬の一種なんじゃないの?

 これがラーメンか。貧民街ではこんなに旨いものを食べているのか。山頂のレストラン街の料理なんて、これに比べれば、豚の餌だ。

 少女Aと僕はまったく会話することなく、ラーメン大盛をがむしゃらに食い、スープの最後の一滴まで胃に送り込んだ。食べ終えて、呆然とした。食前と食後で、価値観が変わっていた。

 少女Aがナイフの男にゴールドを渡した。

 僕たちは二合目のロープウェイ乗り場に戻り、そこで服を脱いだ。下着姿で、僕たちは山頂に向かった。

 ロープウェイは二人乗りだった。

「また行こうぜ」少女Aが言った。

「もちろん」僕は即答した。

 金の延べ棒を手に入れなければ。そしてまたラーメンを食べるのだ。

「ラーメン三郎より旨い店もあるらしいぜ」

「嘘だろ? あれより旨い食いものが存在するのかよ」

 僕はゴクリと唾を飲み込んだ。大人になったら裾野に移住しようと決心した。

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