第4話 風の音楽とその搾取
「とても美しい場所を見つけたのよ。広々とした草原が広がっていてね。いつも風が強く吹いているの。その風の音が綺麗で、いつまで聴いていても飽きないのよ」
姉が辛い失恋をした時期に、よく言っていた話だ。姉は地元の信用金庫に勤めていた。職場内恋愛をして、婚約までしたのだが、彼氏が信用金庫の別の女の人と浮気をした。姉は大きなショックを受けて、仕事を辞めた。辞職してから、一人暮らしをしていたマンションの部屋に閉じこもりがちになった。私はときどき姉のようすを見に訪問していた。
「ねぇ、大丈夫?」
「大丈夫よ。草原で風の音を聴いているから」
草原なんてこのあたりには存在しない。私は姉の精神が弱っているのだろうと思った。
弱っているのは精神だけではなかった。食欲もなく、体力も落ちているようだった。姉はすっかり痩せてしまった。私は少し心配していたのだが、もっと心配して、無理にでも病院に連れていけばよかったのだ。ある日姉はベッドの上で衰弱死していた。
姉が言っていた美しい場所を見つけたのは、遺品を整理していたときだった。姉が生前に使っていた品々を捨てる物と取っておく物に分けているとき、涙がこぼれて、気持ちを落ち着かせようと思ってベランダに出た。姉は高層マンションの十七階に住んでいた。部屋には見晴らしのよいベランダがついていた。ベランダでは緩やかに風が吹いていた。それが不意に、強い風に変わった。
気がついたら、私はいつの間にか草原に立っていた。
そのときはわけがわからなかったのだが、姉のベランダのある箇所が、異世界への入口になっていたのだ。そこでは風が強く吹いていた。びゅうううぅぅぅ、ごおぉぉぉぉぉぉ、ひゅーん、ひゅうぅぅぅーん、こおぉぉぉぉん、と豊かな音色で風が鳴り、よく聴いてみると、風の音はメロディを奏でていた。これがいつまで聴いていても飽きない音かぁ。姉はここに来ていたのだな、ということがわかった。草原には岩がところどころに転がっていて、特徴的な三角形の岩が近くにあった。三角形の岩に触れようと近づいたら、私はベランダに戻っていた。
私は異世界に頻繁に出入りするようになった。私は大学三年生だったが、大好きだった人にフラれて、現実が辛かった。異世界で強い風を身に受けて、風の音楽を聴いていると、現実を忘れられた。姉のように食欲を失うということはなかった。それどころか私はお弁当を持って異世界へ行き、食事をしながら風の音を聴いたりしていた。
私には親友がいた。パソコンを使って作曲するのが趣味のちょっとエキセントリックな女の子だった。私は内向的な性格で、たいした体験もしないまま大学三年生になっていた。行動的で好きなことにはとことんはまる親友の刺激的な話を聞くのが好きだった。私が異世界のことを親友に話すと、彼女は行きたがった。
「連れていって! 風の音楽が聴きたい!」
私は親友と一緒に姉の部屋のベランダへ行き、異世界に入った。風は秋の台風のように強く涼しく吹いていた。いつものように重層的な音色で、メロディとサブメロディを奏でていた。親友は一瞬で異世界が気に入ったようだった。風の音に耳を澄ませ、三時間ぐらい異世界にいた。
現実に帰ったら、親友が興奮して言った。
「すごい風の音楽だった。ねぇ、私あの音楽をパソコンのソフトで編曲して、世に出したい。ネットに投稿してもいいかな?」
断る理由があるとは思えなかった。いいよ、と私は言った。親友は「風の音楽№1」という電子音楽を作って、ネットに投稿した。最初はたいして注目されなかったが、「風の音楽№3」あたりから再生回数が増え始めた。
私と親友は異世界に通った。異世界では毎日異なった風が吹いていた。吹き飛ばされそうな暴風、心地よく感じられる程度の強い風、南の風、北の風、霧混じりの風、からっと乾いた風。風はいつもちがったメロディを演奏していた。親友は注意深く風の音に耳を澄ませて、現実に帰ると、なるべく早いうちに編曲して自分の音楽に仕立て上げ、ネットを通して世界に聴かせた。
「風の音楽№6」がブレイクした。再生回数は百万回を超えた。音楽会社が親友に接触してきて、風の音楽のCDを出したいというオファーをした。野心家の親友は私に相談しないでオーケーした。それを聞いたとき、私は少し不機嫌になった。
「風の音楽はあなたのオリジナルじゃないのよ。あなたは編曲者でしょう? それなのに、あなたの音楽としてCDを出すの?」と私は詰問した。
「作曲者が風では変でしょう? 異世界を秘密にしておくには、私の名前で出した方がいいのよ」
私と親友は異世界のことは秘密にしておこうという約束をしていた。あの美しい世界が他の人たちに荒らされるのが嫌だったのだ。
風の音楽のCDは大ヒットした。日本だけでなく、世界中で好評だった。親友は一気に天才音楽家として知られるようになった。CDは売れに売れた。
その頃、異世界では異変が起こっていた。風がしだいに弱々しくなり、メロディが聴き取りにくくなっていた。私には直感的にわかった。私たちの現実世界が異世界の風のメロディを搾取して、風のエネルギーを奪っているのだ。そのことを親友に話すと、彼女は鼻で笑った。
「そんなことあるはずがないでしょう。非科学的すぎるよ」
「異世界の存在自体が超自然的なの。科学とかでは説明できないよ。とにかく、現実世界で風のメロディが広がるのに比例して、異世界では風の力が弱まっているわ。あなたは、風の音楽の発表をやめるべきよ」
「そんなの嫌よ。もう始めちゃったんだから。これからも私は音楽家として生きるの」
「やりたければ、自分のオリジナルでやってよ。異世界の風のメロディを使うのはもうやめて」
親友はやめなかった。異世界に連れていくと、風の音楽に耳を澄ませて、少しずつ弱くなっていくメロディを懸命に聴き取って、新作の「風の音楽」を発表し続けた。
私は親友との仲が悪くなってもかまわないと決断して、彼女を異世界に連れていくのをやめることにした。異世界には姉の部屋のベランダからしか行けないのだから、私の協力がなければ、親友は異世界には行けない。
「もうあなたを異世界に連れていくのはやめる」と伝えたら、親友はものすごく反発した。
「やめてよ! 異世界はあなただけのものじゃないのよ。私には異世界の音楽をこの世界に広める義務があるの!」
「あなたは異世界の力を搾取しているのよ。もう看過できない」
「私の作曲家の道を断つつもりなの」
「あなたは最初から作曲家じゃなかった」
「ねぇ、お願いだから、私から異世界を奪わないで」
「あなたが風の音楽を奪うからいけないのよ」
「もう友達じゃないの?」
「友達よ」
「なら、ひどいことをしないで。異世界に行かせて」
「それだけは、だめ」
親友はものすごく強い目で私を睨んだ。
「私は絶対にまた異世界に行ってみせる」と捨てゼリフを残して、私から離れていった。
私はまた一人で異世界に行くようになった。風は相変わらず弱々しかったが、まだエネルギーを残していて、かすかにメロディを奏でていた。
親友はまだ異世界に行くのをあきらめてはいなかった。私は男の人に襲われて、姉の部屋の鍵を盗まれそうになった。親友のしわざにちがいなかった。幸い男の人は逮捕されて、警察署で親友に依頼されて犯罪に及んだのだと白状した。親友は犯罪者となり、音楽会社との契約を破棄された。
私は哀しかった。もう親友ではなくなった。
風のメロディが私たちの現実世界で流れる回数は減っていった。CDは販売停止になったし、新曲が出なくなると、ネットでの再生回数も激減した。
私は異世界に通い続けた。私の現実世界で、風の音楽の搾取がなくなると、異世界の風は少しずつ勢いを取り戻していった。風は強くなり、また美しく力強い音楽を奏でるようになった。
異世界の方が現実世界より心地いいと思うこともあった。でも私は異世界に入り浸っているわけにはいかなかった。大学四年生になり、就職活動をしなければならなかったし、卒業論文を書く必要もあった。私は夢中で現実世界で活動し、なんとか希望していた会社から内定を勝ち取った。
姉の死から一年が経過していた。いつの間にか、姉の死や失恋や親友の喪失といった痛みは薄らいでいた。いつまでも哀しんではいられない。私は自分の力で生きていかなくてはならないのだ。
内定をもらった日、私は久しぶりに姉の部屋に行った。ベランダに出たが、いつものように異世界に行くことはできなかった。理由はわからないが、異世界への扉は閉じてしまったようだ。
私は十七階のベランダから私の世界を眺めた。静かに風が吹いていた。
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