28 十代後半から幻覚とせん妄の発作に苦しむようになった咲実の視界を、

 

 

 

 十代後半から幻覚とせん妄の発作に苦しむようになった咲実の視界を、わたしは一度だけ共有したことがある。

 休みがちながらなんとか高校を卒業した咲実は女子大に入り、無遅刻無欠席だったわたしは理学部に入った。ふたりで暮らすという条件で、家を出た。わたしたちの大学はわりあいに近かったので、その中間あたりにアパートを借りたのだ。咲実は半年足らずのうちに具合が酷く悪くなり、中退した。もう病院にも行かない、薬も飲まない、家にも帰らない、と宣言した咲実は、高校の頃から付き合っていた西嶋氏の別荘に住み始めた。高校のカウンセラに紹介された大学病院とも、両親とのあいだのごたごたも、最終的にわたしが週に数回咲実の元に通う、ということを折半案にして落ち着いた。西嶋氏の別荘は、別荘といっても普通の旧い日本家屋で、庭に井戸があった。わたしは監視役のようなものだった。両親とは咲実はうまく口が利けなかったから。

 

 

 真夏の午後だった。空がとてもなめらかで濃密な青色をしていて、入道雲が出ていた。わたしは咲実を連れて、日用品を買いに町まで出ていた、その帰り道だった。

「あ、」

 咲実が住宅の庭に咲いていた向日葵に反応した。

「ああっ、」

 両手であたまを押さえて呟く。わたしは異変を察して荷物を道ばたに置いた。

「サクちゃん、危ないよ、空襲がくる、逃げよう、早く、逃げよう、サクちゃん、」

 そっと咲実に触り、大丈夫、空襲なんてないよ、大丈夫だよ、となだめる。その刹那、見えたのだ、わたしにも。家々が燃え、サイレンが鳴り響き、空は翳り。シュウウウ──という無気味な音が辺りを包む。熱風。

「サクちゃん! 空襲だよ、逃げよう、早く!」

 咲実は慟哭し、わたしが摑んだ両腕を振り回した。

 季節を間違えて狂い咲いているコスモスの群れ。

 道のあちこちの壊れた家々。瓦礫の山。

 あれは、このあいだの空襲でやられた跡だ。

 地面から水道が生えていて、ぽたっ、ぽたっと落ちている。

「サクちゃん! 早く、逃げなきゃ!」

 逃げなきゃ、ねえええサクちゃああん……、と弱く泣き叫ぶ咲実の声で、我に返った。

 わたしが落ち着かなければ。

 目を閉じて、何度か深呼吸した。

 ここに空襲が来たりはしない?

 殺させない。

 そして、殺さない。

 私は生かす。死なせない。

「咲実、いい? 手を繋いで一気に走るよ。大丈夫だから。大丈夫だから、ね? ほら、行くよ!」

 咲実が震えながらわたしの手を握り締め、走りながらわたしの世界は、妄想から現実に戻っていった。 

 




 咲実がいってしまっても、わたしは別に落ち込んだりしなかった。ただ、いろいろな細かいことに集中するようになった。余計なことを考えないように。咲実が残していったビーズとテグスで、複雑な花模様のネックレスを細工したりした。夜はあの日以来、心地よく眠れるようになった。たまにあの髪の房を手に取ったりしてみたが、借り物のセンチメンタルには巧く嵌まれずにまた仕舞った。

 

 草野くんが電話を掛けてきた。

「お姉さん、まだ居るの?」

 と、云う。会いたいな。

「ごめん、もう、居ないの」

 わたしは答えた。じゃあふたりで逢おうと云うことになり、わたしたちはカクテルバーで待ち合わせをした。

 

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