第28話

 西野っちの車であるアクアの助手席に乗り込むと、エンジン音が響いた。この時間になると、対向車もほとんどない。西野っちの車のライトだけが道路に反射し、暗い道をゆっくり進む。カーステレオからは、Ed Sheeranの「Shape of You」が流れている。


 窓に反射した彼の横顔をただ見つめるばかりで、口を開く気にはなれなかった。タイヤが道を走る音だけを聞いていると、この時間が永遠に続けばいいのにと思う。でも残念ながら、一瞬で終わることは分かっている。もう、見慣れた住宅街に入ってきてしまった。


 我が家が見えてくると、車の速度はゆっくりと落ちて、キュッと完全に止まったのを感じると共にがっかりとした気持ちになる。幸せな時間に終わりを告げる合図だ。


「送ってくれてありがとう。」

「ああ。小西のことだけど……。」


 西野っちが言いにくそうに言葉を振り出したから、「大丈夫だよ」と答えた。


「あの人ともうどうにかなることは無いよ。自分でも分かってるんだ。西野っちが初めに注意してくれた通り、あの人はそこまで私のことを好きじゃなかったんだと思う。でもそれは、私の方だってそうだった。ただ私は逃げたいものから逃げて、あの人を逃げ場にしていただけ。だから逃げる必要のなくなった私は、もうあの人と交差することはないと思う。」


 これっぽっちも好きじゃなかったわけでもない。だけど彼を想う気持ちよりも、自分をどうにかしてほしい気持ちの方が勝っていたと思う。そんなのはきっと恋愛なんかじゃない。


「穂高がちゃんと分かっているならそれでいいよ。恋愛は自立した個人同士が初めてできるものだからな。」


 蓬と恩田を見ていれば、それは嫌というほど気づかされる。


「うん。今は本当にそう思うよ。」


 私が顔を緩めると、西野っちも破顔した。きっとずっと心配をかけてきたのだと思う。西野っちは私の好きな人でもあるけれど、担任として教師として良い先生だ。


「なんか雰囲気もあれなんだけど、実は今日これを渡したくてさ。」


 身体を捻じ曲げた西野っちは、後ろの座席から何やら紙袋を取り出して、それを私に渡した。


「ホワイトデー。バレンタインチョコ、くれたろ?」


 紙袋の中身を覗いてみると、焼き菓子の詰め合わせが入っていた。


「いやいや、こんな。私があげたのブラックサンダーとチロルチョコだけだし!」

「まあそこは大人の財力ってことで。みんなの前では渡せないからさ。家族と食べて。」

「いや、でも……。」


 まさか、ホワイトデーにお返しをもらえるなんて思ってもみなかった。


「遠慮するな。これは俺からのご褒美でもあるんだ。」

「ご褒美?」

「穂高はなあ。色々あったけど、ちゃんと乗り越えてきただろ。だからそのご褒美。あと、御礼も兼ねてる。穂高がたくさん心配をかけてくれたおかげで俺も教師として大切なことを学ばせてもらったし。」

「なにそれ。」


 私は笑った。西野っちに感謝されるようなことは何もしていないのに、御礼だと言えちゃう西野っちは大人だと思ったのだ。


「じゃあ、ありがたくいただきます。」

「おう。」

「今日もありがとう。西野っちが居たから小西ともまともに話ができたと思うし。気を付けて帰ってね。」

「ああ。じゃあ学校でな。遅刻するなよ。」

「西野っちもね。」


 そう言って西野っちの車を降りると、彼は片手をあげて私に挨拶をした後、車を発進させた。私はそのテールランプが見えなくなるまで見送った。抱えた紙袋をぎゅっと抱きしめる。


 私が勝手に好きなだけだ。だけど、こんな風に特別扱いみたいのを感じると、どうしても期待する心が芽生えてしまう。西野っちは何も悪くない。明日から気を付けよう。特別扱いをさせてしまわないように。






「今日まで、ありがとうございました。」


 3月の最終日、私は最後の出勤日を迎えた。店長に深々とお辞儀をすると、「こちらこそお世話になりました」と声をかけられた。


「今度はお客さんとして食べに来ます。」

「ああ。待ってるよ。」

「これよかったら皆さんで。」


 今までお世話になった御礼にと、私はお菓子の詰め合わせを買ってきていた。ホールや調理場ではまだ働いている人たちもいるから、店長にそれを渡した。


「ありがとう。よく働いてくれた穂高さんに辞められるのはこちらとしても惜しいけれど、受験頑張ってね。」

「はい。頑張ります。」

「それじゃあこれは、僕たちからの心ばかりなんだけど……。」


 店長がそう言うと、突然部屋の灯りが消えた。「え?!」と驚いた声を出すと、海援隊の「贈る言葉」の音楽とともに、ろうそくの灯りがついたケーキが暗闇にぼうっと浮かんだ。目が慣れると、それが調理場の大学生バイトの人だと分かった。


「百合子ちゃん、消して!」


 言われるままにろうそくを消すと、周りはすぐに真っ暗になった。そして明転すると、手が空いていたのか、調理場の人たち3人が集まって来てくれていた。


「百合子ちゃん、バイトの卒業おめでとう!受験頑張れよ~。」


 小さなホールケーキには、「受験ファイト」の文字がかかれたプレートチョコがのっていた。


「もう!!」


 この気持ちをなんと表現したら良いのだろう。胸の奥がつまる感じがして、視界は水っぽいもので揺れている。なんとかそれを零さないようにしているけれど、みんなにはきっとバレバレだ。


「ありがとうございます。」

「こちらこそだよ。」

「百合子ちゃん、ありがとう。あと、これも。」


 手渡されたのは、みんなからのメッセージが書かれた色紙だった。さらに溢れそうになり、私は洋服の袖で目を覆って「も~~~~。」と言いながら、天井を仰いだ。


 最初は、お父さんやお母さんへの反抗心から始めた。早く大人になってあの家から出たいって思っていた。そんな浅はかで子供の私だったから、周りの人に心配かけるようなことに巻き込まれた。


 だけど、ここで働くことは、純粋に楽しかった。変なお客さんに当たることもあったし、ミスをして怒られたこともあったけれど、働くことの楽しさと清々しさを学ぶことができた。


 こうして一緒に働いてきた人たちに贐をしてもらえることは、ここで頑張ってきた自分を認めてもらえたような、そんな気持ちになった。意地で始めたことだったけれど、続けてきて本当によかったと心から思える。


「みなさんと一緒に働くことができて本当によかったなと心から思います。今まで本当にお世話になりました。」


 そう言ってお辞儀をすると、大きな拍手を送ってもらえた。そして、頭をあげてここに集ってくれた人の顔を一人一人見る。今日、休みで出勤していない人も居るし、営業時間中だからスタッフルームに来れていない人も居る。そういう人たちの顔も思い浮かべながら。


 あまり関わりのなかった人も居るけれど、どの人も欠かせない人だったと思う。その人が居てくれるお陰で、私が楽しく働けたんだと思う。だから縁した人に感謝せずにはいられない。


「受験頑張ります!現役合格します!」

「がんばれー!」

「また顔出しにおいでな。」

「ご飯行こうね。」


 店長は、「ケーキは箱に入れておいたから。」といつの間にかケーキを持って帰ることができる状態にしてくれた。それを受け取ってから、従業員出口の扉に手をかける。


 みんなに手を振ってその扉を開ける。何度も何度も手を振ってお辞儀をしながら、一緒に働いた人たちとの別れを惜しんだ。

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