第27話
「いらっしゃいませ。」
いつも通りに笑顔で接客しているはずだけれど、頬の筋肉がつりそうなほど痛い。瞳が笑っていないのも自分でもよく分かるほどだ。それでも21時までは仕事の時間だから、なんとか店員としての振る舞いを続ける。
何度か小西に呼び出しボタンで呼ばれたけれど、普通に注文だった。拍子抜けする気持ち半分と警戒する気持ち半分で、店員としての姿勢は崩さない。小西が呼び出しボタンを鳴らすたびに、西野っちが心配そうにこちらを伺っていた。
小西は15分ほどで食事を終えると、会計を済ませて帰っていった。小西がここの店長をしていたことを知っているのは、私の他に今の店長だけだ。社員も入れ替わっているし、あの時働いていたバイトの子たちだってもう居ない。
当時はマスコミが少しだけ店まで来たそうだけれど、私はその時まだ体調が悪くて休職していたため知らない。私が復帰すると、「こんな店では働けない」と辞めていった人たちが居たことも知った。
彼が傷つけたのは、私だけではなかった。彼が関わっていた人たちが何らかの形で影響を受け、知らないところで心に影を落とした人も居たことだろう。その姿を見たときに、「自分の勝手だからいいじゃないか」と思って来た自分が恥ずかしくなったことを今でもよく覚えている。
小西が出て行ってから少し経って、西野っちも食事を終えてお会計をした。
「念のため、今日は俺が送るよ。もう、あがりだろ?」
西野っちは腕時計を見ながらそう言った。店内の時計を確認すると20時55分だった。西野っちのテーブルを片付けたらあがっていいと言われるだろう。
「え、いいよ。自分で帰れる。」
「いや、何があるか分からないから。駐車場で待ってる。」
「それだったら親に迎えに来てもらうから大丈夫だよ。」
「親御さんが到着するまで時間かかるだろ。その時間すらも危ないから送る。」
見たことのない険しい顔でそう言われると、私は「わかった」と頷くしかなかった。小西が何の目的でこの店にやってきたのかは分からない。だからこそ西野っちが警戒しているのだと分かった。
21時になりホールや調理場の人たちに挨拶をしてスタッフルームへと下がると、店長が事務作業をしていた。念のため伝えておいた方が良いかもしれない。
「店長、お疲れ様です。」
「ああ、お疲れ。そっかもう21時か。はやー。」
デスクから顔を上げると、店長は大きく伸びをした。
「あの。」
「どうした?」
「さっき、小西がお客さんとして来ていました。」
「小西って、あの?」
「はい。」
30代半ばの店長は、かけていた眼鏡をくいっとあげた。そして腕組をしてなにかを考える仕草をしている。
「穂高さんは大丈夫だった?」
「え……。」
店長は諸々の事情を知っている。小西が突然逮捕された後にこの店を任されたのは、他でもなくこの店長なのだから。
「私は大丈夫でした。でも、この店に客としてやってくるなんて、頭大丈夫なのかなとは思いました。」
私がそう言うと、店長は笑った。
「確かに。普通の感覚じゃ無理だな。まあでも、自分のことを知っている人は居ないだろうと思って来たのかもしれないな。でも、一番知っている人が居たから、驚いたのは小西の方かもしれないな。」
店長と小西は、店長会議でよく顔を合わせた仲だったと以前聞いたことがある。小西の勤務態度は真面目だったそうだ。実際、私たちバイトも小西のことを頼りにしていた。20代中盤という若さで店長を任されていたことも、本社から期待されてのことだったと伺える。
「帰り、大丈夫か?しばらく事務所で待機してから帰った方がいいんじゃないか?」
「大丈夫です。さっき、うちの学校の担任が店に来てて、送ってくれるそうです。」
「そうか。それなら安心だな。気を付けてな。」
「はい。お疲れ様でした。」
店長に挨拶をして従業員の出入り口から外に出ると、すっかり暗闇だった。
「百合子。」
その暗闇から、のそっと人影が現れた。危惧していた展開に背筋が凍る。まさか、西野っちや店長が心配した通りに、小西が私のことを待ち伏せしているなんて。
「話がしたいんだ。これから少しだけ時間をくれないか?」
小西は以前の優しい態度のままだった。でも、彼に対する何の感情も持っていない私にとっては、それが気持ち悪いことこのうえない。私たちは話をするもなにも、もう終わった関係なのだ。
「……人が待ってるから。」
「彼氏か?」
「違う。」
「……少しだけだから。」
消え入りそうな声で懇願されて、それを切り捨てられるほど私も冷たい人間じゃない。小西がどんな気持ちであんなことをしたのか分かろうとは思わないけれど、罪悪感は少なからずあった。
彼と一緒になっていいと思って子供だって身籠った。それなのに、甘えるだけ甘えて彼から逃げ出した。
どうしたら良いか躊躇していると、駐車場の方から足音が聞こえた。足音が聞こえる方に顔を向けると、西野っちがこちらに向かってきていた。
「お前……。」
西野っちが小西の姿を確認するなり、警戒を強めた。私はさっと西野っちの方に駆け寄り、小西と間合いをとった。
「それで、話ってなんなの?」
私がそう問いかけると、小西からは「そいつは?」と聞かれた。私の代わりに西野っちが「穂高のクラスの担任だよ。」と答えた。学校の先生ということに小西は一瞬だけ瞳を揺らした。通報されるのを恐れたのかもしれない。
「……百合子にちゃんと謝ることができなかったから。本当に申し訳ないことをした。ごめん。」
小西はそう言うと、深々と頭を下げた。私は目を大きく見開いた。まさか謝罪をされるとは思ってもみなかった。なんなら、小西には恨まれているのではないかと思っていた。
私が通報したわけでもないし、あのヤクザのような男たちを呼んだわけでもない。あそこで起きたことのすべては、小西が招いたことだろう。だけど、曲がりなりにもこの人と一生一緒に居たいと思ったはずなのに、別れの言葉も交わさずに見捨てた。
自分だけが安全な世界に逃げ出した。だから、小西には恨まれても仕方ないと思って居た。子供の命を守れなかったことは忘れなくても、この人に救われた瞬間があったことは忘れていたからだ。
「それは何に対する謝罪だ?」
小西の謝罪に対して言葉を放ったのは西野っちだった。
「……全てです。百合子を巻き込んで許されないような心の傷を負わせた。謝っても謝り切れないことは分かっています。だけど、もし、今日ここにきて百合子に会えるようなことがあれば、絶対に謝罪をしようと決めていました。自分はなんて安易に自分が築いてきたものを手離してしまったのだろうと毎日後悔しています。あの時は、手離していることにさえ気づいていなかったけれど、職を失って裁判も受けて初めて気がつきました。破壊は一瞬なんだと身をもって知りました。」
小西の話を聞いていると、私もすべてを失う紙一重だったんだと身震いする。私にはそこから手を差し伸べてくれる家族や西野っちが居た。だけど、小西には居なかった。
「私はあなたに謝ってもらいたいなんて思ったことは、一瞬たりともありません。」
「ごめん。これも俺の自己満なんだって分かってるよ。」
頭をあげた小西は、自嘲した。
「でも、それは私がこれまで、本当に良い人たちに囲まれてきたからだと思います。だからあなたも。私とあなたが関わることは、もうないと思うけれど。あなたもそういう良い人たちに囲まれることを願っています。」
「百合子……。」
私たちは迷う。だからこそ、本当に自分の幸せを考えてくれている人に囲まれることが、自分の望む人生を歩むために必要だと思う。より良い自分に成長できる環境に身を置くことが、その迷いから抜け出せる近道だと思う。
「どうか幸せに。」
「ああ。百合子も。ありがとう。」
ありがとうと言えた小西はきっと、ここから一歩踏み出すことができるだろう。私たちは会釈をしあって別れた。
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