彼女のスマホ

神村 涼

第1話 僕と菅野

 渋谷区千駄ヶ谷にある雑居ビルの一室で、僕は目の前の上司に小言を言われていた。


 「ったく! 前田ぁ! 納品リストを確認しろって、いつも言っているだろ! この紙納品リストを見たら現物の有る無しくらい子供にもわかるだろ!? 菅野とは雲泥の差だ! どうして、そんなにもお前は――」

 

 先刻から始まった嫌味混じりの説教は、既に三十分が過ぎようとしていた。その間ずっと、立ちっぱなしだ。社内では日常と化していて、誰も止めに入る人は居なかった。


 もう三十分か……、そろそろ良いだろう。


 「部長すみませんでした。もう一度確認して来ます」


 誠意ある謝罪の言葉と深々と御辞儀を行って、上司が先程からひらひらと仰いでいた納品リストを掠め取った。


 「あっ! おい! まだ話は終わって無いぞ! 次、間違えたらクビだからな!」


 いつもの罵声を背中に浴びながら、僕は一階にある物品を保管する倉庫へと足を運んだ。


 そもそも、僕は怒られるような事をしていない。最初に渡されたこの紙納品リストには、追加で書き加えられた物が載っている筈が無い。要は上司が後で記載した物を、僕に伝えて無かったのだ。


 しかし、それを言うと更に無駄な時間になるのを知っている。この会社に勤めだした頃は、それは可笑しいと何度も反抗したが、長年勤めて来た人の思考や方針は中々変えられるものでは無い。それぞれが培ってきた土台があるのだから、それを否定しては火に油を注ぐだけだ。


 そう思えるようになった僕もそちら側へ足を踏み入れているのだろうな。そんな事を考えながら下階へ通じる階段を降りると、いきなり僕の胸に缶が飛び込んできた。


 それを落とさない様に慌てて受け止めると、先程上司から掠め取った納品リストが、くしゃっと音を鳴らした。


 「おっ! ナイスキャッチ。また、えらく長い説教だったな友則。缶コーヒー飲むだろ?」


 声の方に目を向けると同期の菅野の姿があった。


 「陽太――危ないじゃないか。外回りは終わりか? しかし、これどうするんだよ」


 僕は菅野に向かって皺だらけになった納品リストを目の前に突き出した。それを見た菅野は薄笑いを浮かべていた。


 「別に良いだろ? それを見ると少しくらい気が晴れるってもんだ。俺も今戻ったばかりだから、缶コーヒーでも飲んで一息入れようぜ」


 「そうしたいけど、早く済ませて報告しないと再びアレが始まるからなぁ」


 「俺が手伝ってやるよ。それに俺と一緒だったら、あの小太りも文句は言わんだろうさ」


 「流石、この会社きっての営業成績トップは言う事が違うな。僕と同期だなんて言っても誰も信じないだろう」


 菅野は僕の嫌味とも取れる言葉を華麗に受け流して、自分の手に持っていた缶コーヒーのプルトップを心地良く開けていた。僕も続けて缶コーヒーを開けると微かにコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。


 僕と同期として入社した菅野は、研修期間が終わると持ち前の明るい性格で営業マンとして新規の取引先をどんどん獲得していった。それに引き換え、対人があまり得意では無い僕は成績が伸び悩む。遂、先々月に内勤を命じられた身だ。


 まぁ、そんな話はどこにでも転がっている話だ。菅野は僕と同じで二十七歳と言う事もあり、入社直後に程なくして仲良くなった。今、考えてみると菅野の屈託の無いフレンドリーさもあったと思う。そのお陰で公私共に仲が良い。


 「そうだ! 今晩、飲みに行こう。先日、特別賞与を貰ったんだ。それで焼肉でもどうだ?」


 「それに花金だしな」と菅野は目を輝かせて楽しそうに言った。特別賞与が出た事を僕は知らなかったな。菅野だけが受け取ったものだろうか。会社として菅野を留めたい意志が伝わって来る。


 菅野が貰っている事を包み隠さず、僕に伝えてくれるのは信頼の証なのだと思って良いよな。


 「タダ酒ほど美味い物は無いからな、僕が断る理由なんてないよ」


 「そんな事は無いだろ? 同棲中の彼女が――」


 「おい! 前田ぁ! 確認作業にいつまで掛かってんだ! 俺が帰れないだろ!」


 聞きなれた怒鳴り声に僕はびくりとして振り返る。階段の上から上司が睨んでいた。


 「部長! 俺が確認したい事があって、前田の作業を止めてしまいました! 俺も手伝うんで、部長は先に上がって良いですよ」


 僕の横から顔を出した菅野を見て、上司はわざとらしく慌てるのだった。


 「そっ、それなら良いんだ。後は頼んだぞ」


 そそくさと消えて行く上司を見送った後、僕と菅野は声が出るのを堪えながら笑いあった。


 菅野の手伝いもあって確認作業は定時を一時間ほど経過した所で終わった。菅野は自前の腕時計を見ている。彼女の明美さんがくれた安物だとか言っていたな。


 「丁度、飯時を過ぎた辺りか。よっし、いつもの店行こう」


 「僕は戸締りしてから行くから、先に外で待っていてくれよ」


 了解、と菅野が言って会社から出て行くのを見送った。事務所には誰もおらず、複合機の電源ランプが寂しく灯っていた。


 戸締りを終えた僕は菅野と合流して並んで歩き出す。雑居ビル群を抜けると、二千十九年十一月に竣工した。国立競技場が見えて来る。多くの人々が来場し、熱い汗が迸り盛大な歓声が響き渡る筈の大きな建造物は、事情により現在は巨大なモニュメントと化していた。


 そこから外苑西通り沿いに南下して、明治神宮第二球場側に曲がるとこじんまりとした焼肉屋が見えてくる。僕と菅野は大抵そこでちょっと酒を引っかけては、他愛もない話をするのだ。


 すれ違う人達の中には、男女で手を繋いで歩いている姿が見て取れた。反対側の手には買い物袋を提げていた。はみ出たネギに目線がいく。


 ああ、今から家に帰って鍋にでもするのだろうか。ふと、無意識の内に僕は、彼女の温もりを探して冷え切った手を眺めていた。もう直ぐ、クリスマス・イブか――。


 「友則! 着いたぞ、如何した? ぼうっと突っ立って、寒いから早く入ろうぜ」


 「悪い。寒すぎて指先の感覚が無くてな……」


 菅野は冗談交じりに「それは早く暖まらないとな」と酒を煽る素振りを見せて口角を上げるのだった。

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