やさしいおとぎ話
@vel_59
はじまりの夜
少年は夜闇の海に、世にも美しいものを見た。
その憐れな生き物は、鼻の曲がるような臭気が立ちこめる中で静かに燃え上がり始めた少年の闘志を、一瞬にして、頼りない蝋燭ほどに弱めてしまった。
少年は二月の海の寒さを忘れた。胸の奥の寂しさも、理由のわからないやるせなさも、すっかり忘れてしまった。
「眠れないの?」
月光を透かして輝く薄桃色のヒレは、水の重さを微塵も感じさせず、春の陽の中を舞い踊る蝶の羽によく似ている。少年は思わずため息をこぼした。
「眠り薬が効かないのか」
船の先端から緑色の薬剤が流れ出る鈍い音と、目前の生き物がヒレをうねらせるたび僅かに立てる波の音が混ざり合う。少年は注意深く、生き物の顎に触れた。
「僕はフランツ。君の名前は?」
生き物の顔をそっと引き寄せると、その瞳孔が大きく広がるのが見えた。玉のように滑らかな肌に、しっとりと濡れた瞳。薄く品のある唇は透けるように淡い。フランツはふと、妙な衝動に駆られた。震える親指でそっと唇を撫でてみても、その表情が歪むことはない。
その時、すぐそばに、もはや亡骸のような姿の人魚がずっしりと浮き上がってきた。瞼を半分だけ閉じて、舌をだらりと出している。フランツはまるで言い訳をするかのごとく、眠り薬の効かない人魚に語りかけた。
「こうして眠らせて静かにさせながら、特別な薬を君たちに打ち込む。そうすると君たちに卵が宿って、それはやがてこんな美しい玉になるんだよ。世界中で、高値で売れるんだ。僕の父さんは、それを売る会社をやってる」
少年は胸元からペンダントを引き出して見せた。乳白色に濁った、愛らしい玉である。それは月の光を浴びると、きらきらと哀しそうに揺れた。
「でもひとたびこの薬を使うと、肌が醜い灰色に濁ってしまうらしい」
人の言葉を解さないのか、人魚は少し眉を顰めて、難しい顔をした。
「今日僕は、初めて船に乗ったんだ。いずれ会社は僕のものになるから、現場を見ておかないといけない」
その時人魚は、白く細長い腕を水面から出し、少年の頬に触れた。冷え切っているが、柔らかい手のひらだった。少年はその手のひらに頬を擦り付けると、鋭いため息を吐いた。
「まさか、こんなに美しい生き物だとは知らなかった。君だけが特別なんだろうか」
少年は不意に足もとをまさぐって小さな弦楽器を取り出すと、そっと胸に抱えて、控えめに奏でた。繊細な弦は、流れるように弾かれようと音を乱さず、ただ目前の人魚の耳に絡みついた。その穏やかで甘い音色は船員たちを眠りの底に沈めたままで、二人だけをくるりと包み込む。人魚はうっとりと目を潤ませ、頬杖をつくように首を傾げた。
「あと少しで、船員たちが起き出してくる。幸い君は眠り薬が効かないようだから、今夜は深く潜って隠れているといい」
人魚はヒレを揺らして、ゆっくりと後ずさりをした。
「僕の言葉がわかるのか、いい子だ。そうだ、この音を合図にしよう。僕がこれを奏でる時は、水面に顔を出しても平気だよ」
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