わたしの天使

朝海いよ

わたしの天使

 彼女の家の近くの待ち合わせ場所に、定刻の五分前に到着する。住宅街の中に佇む電柱に身を預け、セットしたばかりの前髪が崩れていないか上目遣いで確認をする。肺の中に溜まった空気をゆっくりと吐き出すと、慌ただしく跳ねていた心臓の鼓動が少しだけ落ち着いた。湿気をおびた空気を吸い込みながら、ぼんやりと空を見上げてみる。

 電線の上では二羽の雀が寄り添うようにして止まっていた。仲良さげに囀りを続けていた二羽だが、唐突に一羽が大きく羽ばたいて寝惚けたような淡い色をした空の向こうに消えていった。取り残された雀は、その背中を見上げながらただ佇んでいる。

「おはよう、✕✕」

 肩を叩かれ驚くと、横にはいつも通りの制服を着こなす彼女が立っていた。彼女が首をかしげて微笑んだ瞬間、その絹のように美しい黒い髪がさらりと揺れる。仄かに香るシャンプーのかおり。全身を駆け巡る血液が一気に熱を持った。呼吸が苦しくなるのを感じながら、平静を装って挨拶を返す。

「お、おはよう」

「はい、おはよう。もしかして、寝ぼけている?でも、✕✕はいつもそんな感じかあ」

 ふふふ、と肩を揺らして彼女は背中を向けた。彼女のご機嫌な足取りが、毎朝学校へと導いていく。ゆらゆらと揺れる、コートが脱げたばかりのブレザーの背中を追いかけた。

「✕✕は今日の理科の宿題はやってきた?わたしは、昨日寝る前に気づいちゃって、なんとか解いたんだけど……苦手だから全然合っている気がしないなあ。だから、後で一緒に答え合わせしようね」

 車が駆け抜ける狭い道に、申し訳程度に設けられた歩道をゆっくりと進む。車の走行音に時々掻き消される彼女の声に相槌を打ち、その後姿を見つめていた。

 紺色の布地に包まれた華奢な背中は、太陽の粒子を反射させておぼろげに輝いている。校則で定められた丈の長いスカートは優雅に花を描き、柔肌がちらりと覗いていた。髪の毛は風にのってさらさらと舞い、誘われてつい手を伸ばしてしまいそうになる。

「そういえば、さっきたまたまテレビの星占いを見たんだけど……今日はわたしの星座が一位だったの。うれしいなあ、今日はきっとハッピーな一日になるね」

 彼女は小鳥のような愛らしい声で、ころころと話題を転換させた。彼女は振り向いて、そういえば、✕✕の星座は何だっけ?と問いかける。返答をすると、彼女は少しだけ困ったような顔をした。

「あちゃあ、その星座は十二位だったかも……。でも大丈夫、わたしのハッピーを分けてあげるから、✕✕も一位だよ」

 彼女はくるりと身を翻し、その両手で浮いていた右手を包み込んだ。彼女の体温と柔らかな肌の感触がが、右手からじんわりと伝わってくる。頬が熱を持ったことを彼女に悟られないように、つい顔を背けてしまう。

「十二位と一位を足して二で割ったら、六位くらいになるんじゃないの」

「えっ。た、確かに……。ううん、でもいいの!わたしは✕✕といる限り、ずっとハッピーで一位だから問題ないの。そうでしょう?」

 彼女は両手に力を込め、ふんわりと微笑んだ。その笑顔に、やられてしまう。甘いかおりが脳を包み込み、思考の機能を低下させた。だめだ、理性だけは忘れるな。頭の奥にいるもう一人の自分が、がんがんと警報を鳴らす。間違っても、あの言葉だけは口にするな。

「間違いないね」

 そう言葉を絞り出すと、彼女は満足そうな顔をして両手を離した。右手から徐々に無くなっていく彼女の体温を名残惜しく感じながら、それが逃げないようにぎゅっと拳を握りしめる。

 朝の眩しい太陽を背景に、紺色の制服に身を包んだ天使が微笑んでいた。その天使を、この両手で抱きしめることが出来たら、どんなに幸せだろうか。力いっぱい抱きしめて、大声で好きだと伝えたい。でも、そんなことは許されない。

「もうすぐで卒業だけど、これからもずっと友達でいてね、✕✕」

 彼女は、わたしの友達だから。わたしには、こう言う以外の選択肢は無いんだろう。

「もちろんだよ」

 顔の筋肉を出来る限り自然に上げ、笑顔の仮面を作り出す。彼女が望む限り、わたしはずっと彼女の友達で居続ける。君と一緒に居られさえすれば、わたしはいつだってハッピーだから。




 昔の夢を見た。

 死んだままの携帯電話が、毎朝六時半にだけ息を吹き返す。ベッドの脇に置かれた携帯電話に手を伸ばし、億劫な手付きでアラームを止めた。

 身体を起こすと、重い頭がくらくらと揺れた。目の縁には涙の跡のようなものがこびりついていて、それを片手で拭い去る。脳裏にはまだ、あの笑顔が焼き付いていた。胸のあたりが苦しくて、そっと深呼吸を繰り返す。今日もまた、朝がやってきた。

 乱雑に服を脱ぎ、クローゼットの中に掛けられた服を適当に見繕う。オフィスカジュアル、という曖昧な定義に当てはまっているのか、いないのか。幸い今日まで咎められた経験は無いから、おそらく正解に分類されているのだろう。よく分からないルールに縛られながら、今日もわたしは生きていく。

 冷たい冷水で顔を洗い、覚えたばかりの化粧術を顔に施す。こんなことをしても、誰もわたしの顔なんて見ないだろうと考えるのは間違いらしい。これはマナーであると、一体誰が決めたのだろう。わたしの肩身は、年齢を重ねる度に窮屈になる。

 トースターで安い食パンを焦がしながら、テレビを付ける。世間は芸能人の誰々が結婚しただとか、内閣で何々が決まっただとか、そんな情報に溢れている。

 くるくるとチャンネルを回していると、ふと星占いコーナーという表記が目に入り手を止めた。星占いだなんて、こんなもの何の根拠もないただのデタラメだろう。そう思っていても、画面から視線が離せない。

 アナウンサーの陽気な声が、順に星座を読み上げていく。二位から十一位までが発表された後、残された一位と十二位の星座。今日の一位は、おめでとうございま〜す!と意気揚々に述べられた星座は、わたしの星座だった。ラッキーアイテムは昔の写真。そして残念、十二位の星座は……。

「やだあ、わたしの星座、十二位!」

 頭の中でおどけたような、優しい声が響き渡る。

「でもいいの。今度は✕✕が、わたしにハッピーを分けてよね。そうすれば、わたしたち一位になれるものね」

 机上に置かれた携帯電話のロックを開くと、笑顔で卒業証書を持つ彼女の姿。その横では、わたしがぎこちない笑みを浮かべている。紺色の制服に身を包んだ二人組。もう何年も前に撮った、彼女とのツーショット。この写真を撮ってから、もう彼女が常にわたしの隣に居ることは無くなった。

 アナウンサーが時刻を告げた。陽気な音楽が流れ出し、新たな番組が始まろうとしている。定刻の五分前に職場に着くためには、もう家を出なければならない。

 テレビの電源を落とすと、闇に染まった液晶画面に自分の顔が映し出される。代わり映えしない、いつもどおりの自分の姿。わたしは、普通の社会人になれているのだろうか。

 シンクに食器を放り込み、玄関に転がっていたパンプスに両足を突っ込む。纏足のようなヒールにも、少しずつ慣れてきてしまった。

 わたしは今日も、彼女のいないこの街で生きている。彼女もわたしも大人になった。いつまでも、昔のままではいられない。

 早足で彼女の実家の近くを通り過ぎ、かつての待ち合わせ場所を横目で見る。彼女がここにやってくることは、もうない。

「おはよう、✕✕」

 懐かしい声を思い起こす。顔を上げると、嫌になるくらいの晴天だった。空から降り注ぐ陽光が、辺りの空気を染め上げている。

「おはよう、」

 小さな声で彼女の名前をぼそりと呟く。甘い砂糖菓子のような音の響きは、そのまま地面に落ちていった。

 今日の君の星座は十二位だったよ。わたしは一位だったから、今すぐ君のもとに行って幸せを分けてあげたい。いや、もうそんなことをしなくても、君は十分に幸せなのかもしれないけど。

 肩にかけた鞄の中身が小刻みに振動した。不審に思って足を止め、底に沈んだ携帯電話を引っ張り出す。

 久しぶりに緑のランプがちかちかと点滅し、メッセージの受信を伝えている。画面を起こすと、愛しい名前が浮かび上がった。心拍が上がり、身体から汗がじんわりと吹き出す。

「おはよう、✕✕!」

 ゴシック体で書かれた無機質な吹き出しが、彼女の声を思い出させる。そのまま画面を眺めていると、続けて文字が表示された。

「今日の占い、十二位だった!✕✕の星座は一位だったよ〜!わたしにハッピーを分けてほしい!というわけで、次はいつ会える?遊びに行こう!」

 身体に溜まった空気をゆっくりと吐き出し、新鮮な朝の空気をどっと吸い込む。占い一位の効果を実感しながら、わたしは文字を打ち込んでいく。なんだ、意外と占いも当たるもんじゃんか。もしかしたら、口角が少し上がっていたかもしれない。

 メッセージが送信できたことを確認し、静かに画面を落とす。携帯電話を右手に持ったまま、わたしは一人職場へ向かう。途中で右手が小さく振動し、胸がじんわりと熱くなった。

 わたしは、彼女がいればハッピーだ。彼女と繋がっている限り、例え占いの結果が何位だったとしても、わたしはいつだって一位になれる。

 彼女は、わたしに幸福をもたらす優しい天使。願わくは、この幸せが続くように。

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