9.

「――はい」


 はっきりと、一言。

 僕はもう一度大きく息を吸い込んで、一気に言い切った。


「あれは、いじめでした。僕の主観でしかありませんが」


 先生は、どう思うのだろう。

 僕は今日の授業のとき以上に、胸がどきどきしている気がした。


「……そうか」


 先生は視線を僕から逸らして、病院の建物を見上げた。

 

 十階建ての病棟は近辺でも一番高い建物で、茜色に染まる暗い空の果てには点々と小さな星々が輝いていた。

 春とはいえ、夜が近づくと少しまだ肌寒い。


「あぁ……」


 先生は、わざとらしいほどに大きなため息をついた。

 黒縁の眼鏡は、空を見上げる先生のあの目を隠してしまっている。


 先生がどんな表情をしているのか、そんなことはわかりきっている。


「あぁーっ、ちくしょぉおーっ」


 通行人が驚くのではないかというぐらいの声量。

 不意に先生が、両手を口にあてて力強く叫んだ。

 

 突然のことで僕も吉久保さんも、一瞬先生が何を言ったのかよく解らなかった。


「俺、教師失格だな」


 吐き捨てるようにそうひとりごちて、先生はしゃがみこんだ。

 僕と吉久保さんは先生の一連の行動を、何もせずただ見守っていた。

 

 先生にこんな一面があるなんて――。

 写真部でずっと一緒だったのに、僕は気づかなかった。


 去年も白石さんは、少しいじめに近い形で外されたり、無視されたりしていた。

 僕は、なんとか彼女が部活にいる時だけでも「楽しく」過ごせるように努めてきたつもりだった。

 先生は薄々勘づいてはいたと思うけど、敢えて言及しなかったのだろう。

 

 今年に入ってクラスが変わったとき僕は期待した。

 だがすぐに甘い期待は裏切られ、無視はやがていじめに変わった。

 クラス編成があってから一か月しか経っていないのに、彼女にとって学校は極めて居心地の悪い場所へと変わってしまった。

 下校チャイムまで彼女を閉じ込めておく監獄に。

 

 だけど、ますます状況が悪化してきていることだって、彼女の表情がどんどん死んだようになっていっていることだって、勘が鋭い狭山先生だったらすぐに気がついたはずだ。

 先生ならなんとかしてくれる――。


 でも、手をこまねいているうちに、事態は最悪の結末を迎えた。


「そんなこと、ありませんよ。先生は、かれんちゃんのこと少しでも分かってあげようとしたじゃないですか」


 吉久保さんはフォローを入れたが、先生は苦虫を噛み潰したような顔のままだった。


「俺ぁな、今日あいつら問いただそうと思ったんだ。授業をつぶしてでも、そっちがやりたかった。自分の担任クラスでいじめなんて絶っ対、許せない。たとえそれがどんなに些細なものであったとしても、だ」


 先生は止まらない。


「ごめんな、水無月。巻き込んじまって。

 俺あの時どうしていいか分からなかったんだ。みんな水を打ったようにシーンと黙り込んでさ。だんだん、あいつらに馬鹿にされてるんだな、なめられてるんだな、って悪い考えが頭ん中で止まらなくなっちまってよ」


 僕だけじゃなかった。

 あの時、先生だって苦しんでいたんだ。

 先生も先生である前に、どうしようもなくちっぽけな一人の人間なんだ。


「でも、あれじゃ白石は当分の間、学校戻ってこれないじゃねぇか」


 先生は失望したように、眼鏡をかけたまま顔を平たい手で覆った。


「いじめられて、誰も味方がいなくて、おまけに事故にあって言葉がしゃべれなくなるなんて……。自分の生徒一人守れないのに、俺ぁ教師やってるなんて人様に申し訳がたたねぇよ」


 吉久保さんは先生の話を聞きながら泣いていた。

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