言葉だけが
中原恵一
術後経過 一冊目
1.
白いカーテンが、吹き込む風でふわり、ふわりと波打っている。
病室の扉を開けたとき、僕は俄かにやわらかな春風を感じて陽の差す方へ目をやった。
南向きの窓を持つこの部屋は、待合室からのびる廊下の冷たいリノリウムの床とうってかわって、暖かい穏やかな雰囲気だった。
ニスの光る木製の柱と、壁を埋める暖色系のタイル。若干子供じみているけれど、これなら患者の心持もよくなるのではないだろうか。
重病患者の相部屋と聞いてやってきたが、実際来てみると想像していたよりはかなりましだった。
この病室は四隅に並べられた四人分のベッドのうち、三つが現在使用されているらしい。
手前右側の一人は今、おそらく検査か、何かで外出中なのだろう。ベッドにはくしゃくしゃになった布団が脱ぎがたになったまま放置されていた。
奥の左側には、百合の挿さった花瓶が机の上にひとつ。
そしてベッドにはシーツを腹掛け代わりに、一人の老人男性が仰向けに寝ていた。黄土色の白くふやけた腕の肌を見るに、随分高齢のようだ。
眼窩に窪んだ皺がよった瞼は静かに閉じたまま、一見微動だにしていないように見える。だが、よく見ると呼吸のたびに胸が僅かに上下していた。
こんなになっても生きてるって不思議だなと、僕は一瞬考えてしまう。
――あ、そうだった。
うっかりして大切なことを忘れるところだった。
僕は午睡を貪る老人から、反対側にある右奥のベッドのほうへ視線を移した。
半分あいたままになっているガラス戸から差し込む光線を眺めながら、虚ろな目をしてベッドの上に佇む少女――。
せっかくの大きな瞳を覆い隠すように薄く開かれた瞼。
悟りきったような物憂げな表情。
髪の毛はバッサリと短く切られていた。ちょうど剣道部の男子のようになってしまった、寂しげな頭。
チャームポイントだった日本人形のような綺麗な長い黒髪は、長時間の手術で失われたのだ。
薄いピンク色のパジャマに身を包んだ彼女は、子供のように騒ぐわけでもなく、ただ黙ってぼうっとしていた。
彼女が、
彼女こそ、僕が今日ここに来た理由。
僕がわざわざ家から遠く離れた駅の方まで出向いて市立総合病院に来たのは、ほかでもなく、彼女の見舞いのためだ。
授業が終わった後、すぐに教室を飛び出して制服のまま駆けつけた。
心配で心配でたまらなかった。
あの日から、ずっと。
事故の話を聞いた日、僕はいてもたってもいられなかった。
今の彼女からは想像できないが、ひどい事故で頭部に損傷を受け、手術に半日もかかったとのことらしい。額に巻かれた包帯が痛々しい。
改めて見ると、見た目は髪以外に特別大きな変化はなかった。
彼女はもともと身長は高くなかったが、前よりも更に小さくなっている気もする。
顔色は悪くはなく血色も人並みといったところか。健康そうではないにしろ、快方へ向かっているようだ。
しかし表情は乏しい。
放心しているのか、焦点が定まらない二つの瞳は宙を見つめるばかり。
いざやってきてみたものの、意識がどこかへ飛んでいるような彼女を前にして、僕は差し詰めどうやって話しかけていいか分からなくなってしまった。
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