パンドラの電子箱

香月読

パンドラの電子箱

 ある男が死んだ。

 四十年勤めた会社を退職し、帰宅する途中の転落事故だった。自宅最寄り駅の階段から足を滑らせて、頭を強く打ってしまったのが死因となる。

 当時は夕方から雨が降っていて、駅の階段は多くの人が通ることでよく濡れていたらしい。高齢者に差し掛かる男が足を取られたのも無理はない。荷物を両手に持っていた為に頭を守れなかったのは、運が悪いとしか言いようがない。

 気難しい人間であったせいか、誰かに背を押されたのではないかだの、他者とぶつかって落ちただの、騒ぎ立てる輩も多かった。それが事故に落ち着いたのは、設置されていた防犯カメラのお陰だった。


 男の妻は、心無い人達の噂話に塞ぎ込んでしまった。気力がなくなってしまったのか、男の葬儀が終わった頃に体調を崩し、後を追うように旅立った。

 元々仲が良い夫婦で、定年退職後はどこか旅行でもしようと話していたと言う。仲睦まじい夫婦に訪れた不幸は、大したニュースにもならなかった。


 夫婦には涼乃という名の一人娘がいた。遅くにできた子供だからと、とても可愛がられていたらしい。

 涼乃は相次ぐ両親の死に泣くこともせず、淡々と通夜葬儀を行っていた。それが感情を爆発させる暇すらない故だと、幼馴染である和哉にはよくわかった。わかるからこそ何も言わず、できる限りの手伝いをしようと心に決めていた。

 事務処理や心の整理ができた涼乃から連絡があったのは、彼女の母親を見送ってから三ヶ月ほど経った頃だった。





「急に面倒なこと頼んでごめんね」


 顔の前で両手を合わせて謝る涼乃に、和哉は別に、と首を振る。

 涼乃からの連絡は他愛もない頼み事だった。否、内容自体は労力を使うものだったが、葬儀の時に見た能面のような表情とは違う、よく知る彼女の声に安心して気にはならなかったと言った方が正しい。

 頼み事と言うのは、遺品整理の手伝いである。涼乃の両親は相次いで急死したようなもので、荷物の片付けが大変だと言う。そういうことが専門の業者に頼もうにも、その前に最低限片付けをしておきたいとか。


「別に良いって。でも飯は奢れよ、焼肉な」

「ちゃっかりしておる。お礼はちゃんとするよ」


 いつもと変わらない軽口を叩きながら廊下を歩く。和哉が案内されたのは、玄関から一番奥の部屋だった。そこは六畳ほどの和室だ。

 部屋自体はすっきりとしていた。開けた廊下側の襖傍には何も置かれておらず、奥には押入れと上に天袋がある。左手側の壁に小さな嵌め込み窓があり、その下に文机と座椅子が置かれていた。


「片付いてない? 俺必要なの?」

「そう見えるのは今だけだよ」


 そう言って涼乃は部屋に入り、奥の押入れを開けた。見ると下段には小さな棚やプラスチック製のタンス、上段には多くの段ボールがある。どうやら相当な蒐集家であるようだった。

和哉は黙って視線を上げた。天袋がひい、ふう、みい……成程、想像よりも荷物はあるようだ。引き攣った笑顔になった和哉に、涼乃は重ねてごめんね、と言った。





 二時間後。和哉は「あーっ」と手を止めて天井を見上げた。長い作業はどうにも疲れる。時折こうやって声を上げて首を動かさないと骨が曲がってしまいそうだった。スマホが主流の世では曲がっていない方が稀かもしれないが。


「涼乃、これって親父さんのだっけ?」


 言いながら天袋を確認していた涼乃に声を掛ける。和哉が掲げたのは黒い手帳カバーがはめられたスマホだった。先程押入れ奥の段ボールより発見したものだった。

 しかし涼乃は振り返ってそれを見てから、首を振った。


「お父さんのスマホはもっとシンプルなの。老人用のやつ。機械音痴だから」

「おばさんのでもないよな。じゃあこれ、誰のだ」


 涼乃の母は和哉の家にもよく遊びに来ていたし、少し前に母親同士で携帯ショップに行って機種変更したと言っていた気がする。薄いピンクの可愛い機種選んでいたのよ、なんて母の言葉を思い出して和哉も首を傾げた。


「わかんないけど……どうしよう」

「中見てみたら? 誰のかわかるかもしれないし」

「うん……そうだね。見てみよう」


 和哉の言葉に頷いて、涼乃はスマホを受け取る。ページを捲るようにカバーを開き、電源を入れようとした。が、ランプが赤く点滅した。どうやら充電切れのようだ。


「充電してからかな」

「だね。その間にもう少し片付けよう」


 張り詰めた緊張を解くように息を吐いて、涼乃は肩を落とす。今度は和哉が頷いて、涼乃は充電器を取りに行き、そのスマホを繋げた。充電ランプが点くのを確認してから、二人は片付けの続きを始めた。





 荷物整理自体は時間を掛ければ片付くものだ。古臭く隅が割れた手鏡など、明らかにゴミらしいものは捨てる。取って置いた方が良さそうな蔵書や判断に困る趣味の道具は保留。しかしどちらに区分していいかわからないものもある。

 二人は天袋の奥にあった段ボールから出て来た、手帳サイズのスクラップブックを開いて悩んでいた。中には新聞記事が何枚も貼り付けられ、元よりも分厚くしている。

 問題はその新聞記事だった。どれもが雨の日に起きた事故についての報道なのだ。歩道橋の階段から落ちた、駅のホームから滑り落ちて電車に轢かれた、小さな交差点で車に轢かれた―――どれも死亡事故として処理されている。被害者は全員女性で、中には子供がいる人もいたようだ。


 これを見て不気味がったのは涼乃だった。ニュースを熱心に見るわけでもない父親が、このような記事ばかり集めていたなんて知ったのならば無理もない。和哉は何とか落ち着かせようと話題を考えたが、彼女が次に出した言葉で口を噤むことになる。


「だってこれ、どこも家の近くじゃない……!」


 新聞記事に改めて目を通した和哉は、その法則に気が付いた。起きた時期や年代はバラバラだし、そんなに頻繁でもない。しかし確かに、現場はどこも涼乃と和哉の家があるこの町で起きたことだった。

 これは偶然なのか? スクラップブックの存在も含めて、薄気味悪いことこの上ない。

 例え偶然だとしても、奇妙なそれを放置してもいいのだろうか。

 二人の答えは、否だった。





「ああ、あの事故なあ。よく覚えているよ」


 酒焼けしたようなしゃがれた声で老人は言った。彼は涼乃の家から歩いて十五分ほどにある小さな交差点前に住んでいる。スクラップブックにあった交差点事故で救急車を呼んだらしい。


「あの日はすごい雨だったね。いきなり急ブレーキと鈍い音が聞こえて」


 事故としては単純だ。雨の日に飛び出して来た歩行者を、見逃した乗用車が跳ねてしまった。歩行者の女性は病院で死亡が確認されている。

 老人はゆっくり思い出すように続ける。涼乃はメモをしながら、和哉はそのまま聞いている。


「まだ若そうな女の人だったんだよねえ。もう十年くらい前かな」

「そんなに……何か気になることとか、覚えていることありませんか?」


 そんなこと言われてもね、と老人は眉を下げる。しかし数秒考えてからあっ、と声を漏らした顔を上げた。


「ああ、思い出した。あの時警察の人が言っていたんだけどね、家の鍵がないって。どこにも見つからなかったらしいよ。それに……あの子、雨の中で何か言っていた気がするな」


 何かまでは聞こえなかったんだけどね。そうやって首を振る老人を見て、二人はまた複雑な気持ちになる。謎が解けないかと話を聞きに来たのに、余計に深まったような気がする。

 これ以上踏み込んで良いことなのかわからない。二、三また聞いてから、頭を下げてその場を後にした。





「結局よくわからなかったな。何か一つ失くしたものがあるらしい、くらい?」

「家の鍵、手帳、手鏡。重要なのって鍵かな」


 わかる限り何人かに聞いてみたけれど、得た情報はそれくらいなものだ。荷物にあるはずのものがない。遺族達は葬儀などが終わってからやっと気が付くのだ。

 しかし、と溜息を吐いて、和哉は記事を指で撫でた。六年前、女性が駅ホームから落ちた事故だ。夜に濡れたホームを何故か走っていて、ホームに落ちたらしい。この話も聞いてみたが、スマホを持っていなかったとか。当時女性を写した防犯カメラはなかったらしいので、駅員さんの証言だけだった。


「わけわかんないよな。そういえば、あのスマホもう充電終わってるんじゃね?」

「ああ、そうかも。何かわかるかな」


 調べてみても余計わからなくなった事故についてより、近くの疑問を先に解決したい。コードが刺さったスマホは、既にランプが緑に変わっていた。

 涼乃が電源を入れてみると、パスワードもなく中身が見られる。映し出されたホーム画面には、打っている途中らしいメモ帳が開いていた。

 そして二人はそれに目を通して―――すぐに、箱を開けたことを後悔する。





初音へ


 初音、誕生日おめでとう。

 せっかく初音が生まれて一回りなんだから、大好きな苺のケーキでも焼いて、好きなハンバーグを作って一緒にお祝いしたかったな。


 でもね、これだけは信じて欲しいの。

 初音よりお仕事が大事なんじゃないよ。大事な初音を育てる為に、お仕事をしてお金を貰いたいだけなんだ。

 初音のことが嫌いだからお仕事をしているんじゃないんだよ。


 来年は一緒にお誕生日のお祝いしようね。

 愛しているよ。


おかあさん

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