第40話 キックの魔獣
かつて小林聡というカリスマ的人気を誇ったキックボクサーが居た。
彼はムエタイ狩りと言う困難な道のりを歩んだが、日本人として藤原敏男以来23年ぶりに現役ムエタイ王者を倒した彼は日本を代表するキックボクサーの一人になった。
だが、そんな彼ですらサンドバッグの様に一方的に叩きのめされ、打ちのめされた試合があった。
対戦相手の名はサムゴー・ギャットモンテープ
そう。麗衣が目標として模倣したあの伝説のムエタイ王者だ。
小林選手は成す術も無くKO負けを喫し、ミドルキックで肘を破壊された。
全試合KO勝ちを目指していた小林選手はKO率が高い代わりに防御を犠牲としたリスキーな戦い方が多かった為、敗戦もまた多かったのだ。
だから、こういう言い方をしては悪いかも知れないが、敗戦自体は珍しくなかった。
故に全試合の勝利も敗戦もあまりにも劇的で、まるで漫画のような試合だったのが人気を博した理由の一つだったが、小林選手の数ある敗戦の中でサムゴー戦程インパクトを残した一方的な敗北は無かっただろう。
敗戦後、小林選手は「獣の檻に閉じ込められた様だった」と言った趣旨の事を語ったらしい。
俺はそんな逸話を思い出していた。
俺の目の前にいるのは「キックの魔獣」。
今の俺はまさしくリングと言う「獣の檻」に閉じ込められた餌の様な気分だった。
「如何した? スパーを止めるかい?」
ブラッドさんに問われ、恐怖で失われかけていた闘争心に再び火が付いた。
「クソっ!」
俺は震える両足をグローブでバンバンと叩き、大声を上げ無理矢理勇気を奮い起こした。
「やってやらぁ!」
我ながら冷静さを欠くなんてらしくない。
今までどんな格上を相手にしても冷静さを無くした事はない。
過去に俺にとって最強の相手は織戸橘環先輩……姫野先輩の妹だったが、一方的に打ちのめされたあの時ですら俺は打開策を常に考えながら戦っていた。
だが、今の俺は頭が真っ白になり、只真っすぐ突っ込んで行った。
素人の様にフェイントも無く、真正面から全力でワンツーを振るう。
こんなものが当たる訳も無く、ブラッドさんはバックステップすると一言言った。
「ボーイ。冷静になれ」
全身に鳥肌が立ち、まるでボディブローを喰らった後の様な嫌な汗が流れた。
俺の眼前にはブラッドさんの岩の様な膝小僧が当たる直前で止められていたのだ。
所謂寸止めだ。
ブラッドさんが本気であれば俺の顔面は膝で破壊されていたに違いない。
「舐めやがって!」
怒りで恐怖も忘れ、俺は再びこの魔獣の様な外国人に襲い掛かった。
◇
長い様で短い3分はあっと言う間に終わった。
そして、妃美さんがこのスパーリングを許可した理由をスパー中に否応なしに理解してしまった。
こちらが本気で殴りかかっているのにも関わらず、ブラッドさんはマススパーリングで流していたのだ。
しかも、マスと言っても殆ど寸止めに近く、当ってもダメージは皆無だった。
俺が一度のダウンも取られず、この場で無事に立っている事が何よりも事実を物語っていた。
盛り上がっていたのはこちらだけで、ブラッドさんは端っから俺を本気で相手にしようとは思っていなかったのだ。
先程ブラッドさんが妃美さんに耳打ちしていたのは恐らく軽くマスで流すつもりと言う自分の真意を伝えた為であり、妃美さんはこの体重差でスパーを許可したのだった。
だが、情けない事にガチのスパーじゃなかったことに俺はほっとしていた。
「ナイスファイト! タケル!」
ブラッドさんはグローブを脱いだ手で俺に握手を求めてきた。
何処がナイスファイトなんだよ?
流石元プロだけあってサービス精神に溢れているよな。
「サンキュー。ブラッドさん。流石ですね。手も足も出ませんでしたよ」
俺は悔しさを嚙み殺してブラッドさんを讃えた。
まぁ、アマチュアでもグリーンボーイと言っていい俺と元プロキックボクサーなんだから当然だけどな。
「中々のスピードだったよ。最初の方の無茶な攻めはとにかく、小ぎざみな上体のフェイントでカウンターとこちらの打ち終わりを狙うのは良い作戦だったよ」
こちらから強引に攻めても当てられる予感がしなかったので、寧ろフェイントで攻撃を誘い、カウンターを狙う作戦に切り替えた。
だが、それだけでは経験や実力の差は埋めがたく、こちらが本気で打っているのにも関わらず、軽くいなされるか、左の返しに合わされ、全部入れられてしまった。
あのパンチが一発でも本気であれば、俺は今頃こうして話している事など出来ず、担架の上で運ばれていた事だろう。
「しかし、君もまだまだ粗削りだが、レイイと同じ様に可能性を感じるね。アマチュアキックボクシングではまだCクラスだと聞いたが、他に何年位格闘技の経験があるんだい?」
「小学生の時白帯で空手は辞めたのでアレはノーカンだとして……去年キックを始めてから半年ちょいぐらいですね」
ブラッドさんはレイチェル選手と目を合わせた後、妃美さんに訊ねた。
「彼の言っている事は本当ですか?」
「ええ。本当ですね」
「何と! では、何か過去に他の格闘技経験がある訳じゃないんですね!」
「えっ……。まぁ、始めの頃はミドルキックすらまともに打てませんでしたから」
「凄いですね! だとしたらレイイ以上の才能かもしれません」
「そうですね。ウチのジムとしてはプロとして、ゆくゆくは看板選手になって欲しい一人ではあります」
妃美さんの口からそんな話は聞いた事が無かったので驚いた。
「そんな事考えていたんですか?」
「そりゃあ、アマチュアと言えど全戦全勝全KOで、しかも自分より大きな選手ばかり倒している小碓君を期待しない訳無いでしょ? 麗衣ちゃんと貴方がプロになってくれて、ウチのジムから更にチャンピオンが二人増えたらウチのジムがどれだけ収益が上がる事か……」
このおねーさん。本人を前にして収益とかいうなよ。
それに、麗衣はとにかく、俺に関しては過大評価すぎる。
「えーっと……俺も今のところはプロになるつもりは無いんスヨね」
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