ご挨拶
いちご
ご挨拶
そもそもスマホや携帯が復旧する以前は、彼女の家に電話をかけるのも相当な勇気と金が必要であったと聞く。
固定電話しかなかった時代なんて小さな子どもの時くらいで、思春期の頃には普通に携帯を持つことを許されていた世代としては想像もつかないが――いや、今現在とんでもないことに身をもってその苦労を味わっているのはなんの因果か。
「やばっ。緊張して寝過ごした挙句にスマホ忘れてくるとかありえね」
行き交う人々から逃げるように端に寄り、何時だろうかと電光掲示板の時刻を確かめる。次に来る電車に乗れなければ約束の時間に遅れることは確定だった。
スマホを取りに家まで戻るか。
それともこのまま行くか。
明久が迷ったのは三十秒にも満たなかったが、それでも相当な逡巡を重ねた。
「っし。行こう」
ジャケットのポケットから財布を取り出し券売機で目的地までの切符を買う。今はスマホでなんでも支払いできるので切符を買うという行為自体が久しぶりで少々迷ったのは仕方がない。
便利な分、それを持っていないときの不便さといったら。
切符を改札に突っ込んで通り抜けそのまま行こうとして駅員に止められた。まさか出てきた切符を取り忘れるなんてミスを犯すとは。恥ずかしすぎてぺこりと会釈した後はダッシュでホームへと向かった。
「くそぉ。調子狂う」
列に並んで舌打ちする。
本当なら取りに戻るべきだったろうし、分かっていてそれを選択しなかったのはどうしても待ち合わせに遅れることができなかったからだ。
焦りと緊張で変な汗をかいている。
ポケットからアイロンをかけたハンカチを取り出し額の汗を拭う。
「まあ、菓子折り忘れてないだけでもまだマシだな」
左手に下げた黒い紙袋にはちょっとお値段の張る某有名店の羊羹が入っている。
少しでもいい印象を持ってもらいたいという下心の籠った手土産だが、それを忘れてれてしまっては大枚を叩いた意味がない。
「こっちだったら家に帰るしかなかったわ」
ある意味スマホで良かったと考えるべきだろう。
時間通りにホームに滑り込んできた電車に飛び乗り、五つ先の駅で降りる。普段使わない駅は新鮮というよりも、彼女が使っているのだというだけでなんだか特別な景色に見える。
今度は慎重に改札を抜け、無事に出られたことに内心ガッツポーズをしながら待ってくれている梓紗の姿を探す。
割と小さな駅なので人の出入りがそれなりにあってもすぐに探し出せる――はずなのだが。キョロキョロとしながら改札付近を動き回るが梓紗の姿はない。行き違いにならないように気をつけながらちょっと足を延ばして駅の入り口まで移動したがそれらしい人影も見えなかった。
「ヤバい」
スマホが無いことに不安を覚える。こういう時に一番使えるツールを持っていないというのは相当なハンデだ。
しかも梓紗のスマホの番号も知らないし、そもそも知っていても覚えていない。
便利さゆえの弊害。
ここで彼女と合流して自宅に向かい、両親に挨拶する予定だった明久は「詰んだ……」と呟き空を仰いだ。
タクシー乗り場の近くだったから乗るのかと思ったのか、黄色い車がすっと寄って来てぴたりと停車する。
「あ、いえ。すみません。乗りません」
慌てて手と首を振って乗車拒否すると助手席の窓がウィーンと開いて、そこから梓紗がひょっこりと顔を出してきた。
「何度もメッセージ入れたのに既読にならないし、電話も出ないからめちゃくちゃ心配したんだけど?」
「え?いや、スマホ家に忘れて」
「はぁ?忘れた?取りに帰らなかったの?」
「緊張して寝過ごしたんだって。取り帰ったら間に合わないからそのまま電車飛び乗ってきた」
ふうん、と帰した梓紗がちらりと運転席の方を見た。そこには仏頂面をした男性が座っており、明久を黒縁の眼鏡越しにじっと眺めている。
「あ、えっと、すみません。梓紗さんの、お父さん、でしょうか?」
「そうだが」
値踏みする視線を受けてたじろぎつつ明久は名を名乗って勢いよく頭を下げた。お付き合いさせてもらっていることもちゃんと告げ、黒い紙袋を「お好きだと聞いたので」と差し出すと。
「ふぅん。そうか。うん。ありがとうな」
途端に目尻を下げて態度を軟化させた彼女の父にほっと胸を撫でおろし「乗りなさい」と促されたので急いで後部シートに深く座る。
梓紗がこっそりと「忘れたのそっちじゃなくてよかったね」と囁いたので「ほんとにな」とお互いに笑う。
後から聞いたところによるとスマホを取りに戻らず、時間を守ろうとしたことが良かったとお父さんが言ってくれたらしい。
お陰でこうしてウェディングドレスを着た梓紗がお父さんとバージンロードを歩いてくるのを見れているのだから、忘れるということもたまにはいいこともあるんだなと感慨深く思うのだった。
ご挨拶 いちご @151A
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