六 大蛇の涙
北陸の水旅を終えた笙明の一行は、彼の兄、弦翠と一緒に近江国を進み都を目指す事となった。初めて来た地に妖娘の澪は目を爛々とさせていた。
「澪!よそ見は危ないぞ」
「でもね、篠、あんな家の形を見たことがないもの」
「ははは。それでは先が持たぬぞ。ワシのそばをしっかり歩け」
仲が良い篠、澪、龍牙の様子を馬上の弦翠は目を細めていた。
「妖隊退治は楽しそうだな」
「兄者。そのような事は有りませぬ。我々は何度死に目に遭ったか?なあ、篠」
「そうですよ。俺は何度も笙明様を助けたんですから」
「それはかたじけない。なあ。娘もか」
「キャ?」
弦翠が怖い澪は大柄な龍牙の後ろに隠れた。これに弦翠がため息をついた。
「大変な嫌われようじゃ」
「ごめんなさい。でも。その」
豪胆な弦翠。澪は彼が苦手であった。これには一行は笑った。
「まるで私が何かをしたかのような」
「気にせずとも。兄者。時期に慣れます」
「そうだよ。先を急ごう」
黄金色位輝く稲穂の道。彼らは進んでいった。都への道であったが彼らは妖隊。怪しげな妖力漂う方へと歩みを寄せていた。
「ねえ。あの湖は何?」
「琵琶湖じゃ。大海原よ」
目を細める笙明に澪は胸を弾ませ小走りに向かっていた。これを追う篠。湖面が光る美しい風景に龍牙も深呼吸をしていた。しかし背後の二人は神妙な顔つきであった。
「いい眺めじゃ……はて?二人とも」
「笙明はわかっておるの」
「兄者も。油断召されるな」
殺気立つ八田兄弟に驚く龍牙であったが、二人の兄弟は馬を走らせた。その先には橋がかかっていた。先に着いていた篠は振り向いた。
「あ。笙明様」
「篠よ。いかがした」
「向こうを見て。何かいるよ」
馬上から降りた二人は橋の向こうにどぐろ巻く大蛇を見つめた。
弦翠は戸惑う澪を背に、馬の手綱を預けた。
「お主らはここにいろ。ここはわしが」
「兄者。参るぞ」
「おお」
八田兄弟はヒューーヒュウと舌を出す大蛇に向かった。
「妖め!お前を斬る!」
「私は、これで」
怒る兄に対し笙明は懐から笛を取り出した。その美しい調べに浸った湖畔に大蛇は苦しみ出した。この間。龍牙も太刀を構えじっと蛇を睨んでいた。
ずるりずるりと動く大蛇の真っ赤な眼。彼らを囲んだ蛇に、弦翠は韻を唱えた。
「滅・戒・拘・苦・死・屈……」
蛇はさらに苦しみ出した。これに篠は突進して行った。
「俺が行く!それ」
そして龍牙が太刀を振るうと、大蛇は急に白煙を吐き出した。
「毒だ?吸うな!」
「伏せろ」
笙明の怒号の中。煙から遠かった澪は二頭の手綱を掴み怯んでいた。
「そうだわ?こっちに。早く」
馬を逃がそうと澪は手綱を引いた。しかし馬は怖いのは動かなかった。
「ダメよ!ほら」
「娘。どけ」
助けにきた弦翠は懐に澪を抱き、代わりに綱を受け取った。そして澪共々馬を煙から遠ざけた。
「風上だ。ここにいろ」
「はい」
木に手綱を結んだ弦翠に澪は返事をしたが、彼は小首を傾げた。
「どうなさいました?」
「やはり気になる。一緒に来い」
「え」
そういうと彼女の手を取り大蛇の元に戻ってきた。その煙が消えた橋の先へ二人は走って行った。
「どうじゃ。ん。あれは?」
「弦翠様……誰もいないわ」
「笙明!篠。龍牙殿!」
叫んでも誰もいない橋の上。しかし弦翠は橋がやけに水に濡れているのを見つけた。
「娘。これを」
「血が混ざっていますが、これは蛇の血です……あ?水の中を見て」
橋の下の川。これは琵琶湖へと続いていた。
この川からは赤い血がポツポツと滲んでいた。
◇◇◇
その頃。笙明はようやく目覚めていた。
「ここは」
「やっと気がついたか」
目の前には篠がいた。その背の奥には龍牙が立っているのが見えた。ここはどうやら船の様子だった。
「笙明様、ここはね」
「篠。静かに。奴が来たぞ」
「殿はお目覚めでござりますか?」
ここは船の中。不思議なことに水の中を進んでいた。船の主は美しい娘だった。
「私は先の大蛇でございます。長い事、強いお方を待っておりました」
怪しい香りの女はそう言って頭を垂れた。彼女に笙明は眉を潜めた。
「して。大蛇よ。我らをどうするつもりじゃ」
「食べるのかよ!」
「美味くないぞ」
「そうではござりませぬ。助けて欲しいのです」
女主人の話では琵琶湖に浮かぶ小島にて、
「我らを虐めて。私の子供もたくさん食われてしまいました。どうか退治をして欲しいのです」
「蛇なんだから。あんたの方が強そうだけど」
「足がないからな。蜈蚣の方が強いのではないか」
篠と龍牙の話を笙明は腕で遮った。
「静かに。それではこの船は小島に進んでおるのか」
「左様です。どうか、お助けくださいませ」
涙涙の大蛇の女。これに笙明はじっと見つめた。
「お主も妖ではないか」
「はい。ですが、私の命もあと少し。この私の妖の塊。殿様に差し上げます」
女主人の背後には家来達が並び共に平伏し、下がっていた。笙明はこんな女主人の話を受け入れた。そして退治する事とした。
「その前に。お食事をどうぞ」
「おお?御馳走じゃ」
「龍牙って。これをまさか食べる気?俺は止す」
何が入っているか不明な料理。これを気にせず食べる龍牙を篠は呆れて見ていた。その間、笙明は水鏡を出していたが、何も映らなかった。
「やはりダメか」
「澪なら平気さ。弦翠様といるんだもの」
「……そうじゃな」
どことなく寂しそうな笙明は船の外に見える湖底の世界を黙って眺めていた。
◇◇◇
「弟達はあの小島に向かっているようだ」
「どうします?私達も参りますか」
「まずは近くへ進むか」
弦翠は馬に澪を乗せ、二頭で湖畔に進んだ。あたりは夕暮れになっていた。彼は野営をすると言い、手頃な場所を確保した。
「湖面の風が強いが、お前は寒くないか」
「はい。それよりもお腹が空きませんか?」
「あ。ああ」
馬に積んでいた食事の道具で澪は夕餉を作り始めた。弦翠はこれを眺めていた。
「呑気なものだ」
「そうですか?だって笙明様は必ず退治してお戻りですもの」
「……信頼しておるのだな」
いそいそと食事を作る娘。弦翠は火を起こした。やがて辺りには良い匂いがしていた。
「お主は……弟と一緒に都に来るつもりでおるのだな」
「はい。お仕事をいただくつもりです」
「弟は神に使える仕事だ」
弦翠は笙明の都の生活を澪に話した。彼女は料理をしながら聞いていた。
「よって。お主の居場所はないかもしれぬ」
「わかっております」
この弾んだ声に弦翠は彼女の顔を見た。焚き火に照らされた顔はどこか幸せに満ちていた。
「良いのです。笙明様のお気持ちだけで。澪はそれだけで幸せです」
「娘……」
「さあ。弦翠様。できました。お味はどうかしら」
差出した碗。彼は澪の手ごと掴んだ。
「キャ?」
「いちいち騒ぐな。どれ」
やっと受け取った彼はこれを口にした。湯気の向こうには心配そうな澪の白い顔があった。
「いかがですか」
「美味い。こんな美味いものは都でも食べられぬ」
「まあ?葉と小魚だけなのに?」
朗らかに笑う娘。弦翠の厳格な顔が緩んだ。
「……ああ。誰にも渡したくないな」
「そんなにですか?」
「私は嘘は言わぬ」
湖面の小波。虫の音。夏の夜空の星。草を揺らす涼しい風。眩しい月夜。優しい時間。汁の匂い。燃える木の音。炎が照らす娘の白い顔。夜風に揺れる娘の黒髪。彼は彼女を胸に抱いた。
「弦翠様?」
「澪よ……なぜ震えるのだ」
「寒くて」
「私がいる」
そう言って弦翠は頭を撫でた。しかし彼女は彼の背面の月を見ていた。
「あ、あそこを見て」
「なんだ」
夜になった世界。二人は、琵琶湖の小島から立ち昇る狼煙を見ていた。静かな夜。星が瞬く空には月が浮かんでいた。
続く
次回「大蜈蚣を斬る」へ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます