第117話

 黎明の覇者と山を越えてきた多くの者たちとの交渉は当然ながら熱くなる。


「ベヒモスの素材に売却は、そこまで積極的ではないと?」

「そうではないわ。けど、そちらの提案する値段ではとてもではないけど売れないわね」


 商人の一人とローザはそれぞれに自分の主張をする。

 商人としては、ベヒモスの素材を少しでも安く入手したいと思っている。

 それに対して、ローザはその値段の安さからとてもではないが売るような真似は出来ないと主張していた。

 もちろん、ローザはベヒモスの素材を売らないとは言っていない。

 ローザにしてみれば、ベヒモスの骨がこうして存在している以上はここから迂闊に移動することが出来ない。

 ベヒモスの骨を捨てて移動するといった真似をするのなら、移動することも可能だろう。

 しかし、ベヒモスの骨を捨てるような真似はとてもではないが出来ない。

 だからこそ、ローザとしては出来ればベヒモスの骨を処分したいとは思っている。

 思っているが、だからといって商人が提示してきた金額でというのは、とてもではないが無理だった。

 商人はローザがどうにかしてベヒモスの素材……特に骨を処分したがっているのを知っている。

 だからこそ、そこまで大金を出さないのだ。

 商人だけに情報収集の技量は高く、現在の黎明の覇者がどのような状況なのかを十分に理解した上での行動なのだろう。

 実際、黎明の覇者としてはいつまでもここにこうしてはいられない。

 ドレミナをあれだけ強引に脱出してきた以上、そう遠くないうちに追っ手がくると思っているのだ。

 普通に考えれば、その可能性は非常に高い。

 しかし、実際には英雄の宴亭まで部隊を派遣してきたのはドレミナの領主ダーロットの仕業ではない。

 他の貴族に唆された……正確には今回の一件だけではく、以前からそのような相手と繋がっていたドレミナの部下がやったことなのだ。

 しかし、生憎と今の状況で黎明の覇者がそれを知ることは出来ない。

 ダーロットが女好きだからこそ、この機会にソフィアやローザを……それ以外にも黎明の覇者に所属している女を手に入れようと、そう思ってしまったのだ。

 普段の生活態度を考えれば、そのような結論になるのは当然だったが。

 もしこの時点でダーロットが実はソフィアたちを狙っていないというのを知っていれば、ローザも急いでベヒモスの骨を売るといったようなことを考えなくてもすんだのだが。


「おい、いい加減にしろ! いつまでそっちの交渉をしてるんだよ! 交渉をするのは商人だけじゃなくて、俺たちもだろ!」


 ローザと商人のやり取りを見て不満そうに叫んだのは傭兵の一人。

 ベヒモスを追ってきた部隊に所属する者の一人だ。

 隊長はそんな様子を見て、頭を抱えている。

 相手が黎明の覇者であると本当に理解しているのかと、そう言いたげな様子の隊長。

 しかし、そうして一人が不満を口にすると、その不満を口にした者の周囲にいた他の者たちがそれに同調するように叫ぶ。


「そうだ、そうだ。そもそも、本来ならあのベヒモスは俺たちが倒すはずだったんだぞ! なのに勝手に倒して、それで素材はそっちが全部持っていくのかよ?」


 この言葉に苛立ちを覚えたのは、交渉の様子を見ていたソフィア。

 自分の部下やイオが必死になって倒したというのに、その戦いを汚されたようが気がしたのだ。


「そこまで言うのなら、試してみる? ベヒモスと戦ったときの戦力と、貴方たちが戦って、それで勝てれば貴方たちもベヒモスを相手に勝てたということになるわ。こちらの戦力でも本当に危ない状況だったのだから」


 ざわり、と。

 ソフィアの言葉を聞いた者たちはそれぞれに反応する。

 そんな中でも真っ先に反応したのは、隕石を調べていた者たちだ。


「本当か!? では、また隕石を降らせるといったこともするのだな!?」


 そんな叫びが周囲に響く。

 隕石の調査に来た者たちにとって、自分たちが調査する隕石が増えるというのは歓迎すべきことだ。

 あくまでも自分たちに被害らしい被害がでなければという前提の話だが。

 そして今の状況を考えると、隕石を落とされるのはベヒモスを追ってきた者たちであって、自分たちではない。

 ……それはベヒモスを追ってきた者たちが隕石を使われれば死ぬということになるのだが、その辺については全く考えている様子はなかった。

 まさに喜色満面といった様子の研究者たち。

 同時に、商人の方も鍛冶師に……もしくは珍しい物を集める趣味がある貴族に売れるということで、隕石を買い取るのも悪くないかと思う。

 そんな者たちとは違い、この話の流れに焦ったのはベヒモスを追ってきた者たち……特にそれを率いる隊長だ。

 このままだと本気で自分たちが黎明の覇者と戦うことになりかねないと思ってしまう。

 そのようなことになれば、まず生きて帰れない。

 相手が手加減をすれば、まだ多少はどうにかなるかもしれないが、今の話の流れから考えてそうなるかどうかは微妙なところなのだから。


「待って下さい!」


 だからこそ、このままの状況にはしないと隊長は必死になって叫ぶ。

 もしこのままソフィアの言うようなことになった場合、自分も死ぬ可能性が高い。

 黎明の覇者との実力差を理解出来ない者が死ぬのは構わない。

 だが、それに自分が巻き込まれるのは絶対にごめんだった。


「何かしら?」

「ソフィア団長が今の言葉に我慢出来ないのは分かります。ですが、あのように思っているのは一部の者だけ。あのような者たちと私たちと一緒にしないでくれると助かります」

「おいっ! お前一体何を言ってるんだよ!」


 隊長の言葉に真っ先に反応したのは、先程黎明の覇者に対して不満を口にしていた男だ。

 まさかこの状況で自分が切り捨てられるとは、思っていなかったのだろう。

 もしここで隊長に見捨てられるようなことがあれば、それこそどうしようもないと理解してしまう。

 だが、隊長は言葉を発した相手に冷静な……いっそ冷徹と言ってもいい視線を向ける。

 自分だけの力でどうにか出来るとは思っていないのに、あんなことを言ったのかと。


「何を言っている? それはこちらの台詞だ。お前が誰の手の者なのか、あるいはどれだけ自分の力に自信があるのかは分からない。だが……それでも、今のこの状況において黎明の覇者を敵に回すということが、どういうことか分かっているのか?」

「ふざけるな! 俺たちが倒すべき獲物を横から奪ったんだぞ! なら、その賠償を求めて当然だろう!」


 その言葉に、隊長は心の底から呆れたといった視線を向ける。

 今のこの状況で、そのようなことを言うとはと。


「本気で俺たちがベヒモスに勝てたと? 本当に大丈夫か? あの骨は見ただろう? あんな巨大な存在を相手に、倒せると思っているのか?」


 隊長のその言葉に、話を聞いていた者の多くが納得した様子を見せる。

 常識的に考えて、骨だけであれだけ巨大なベヒモスを相手に、そう簡単に勝てるとは思えなかったのだ。

 ……そんな中で、隕石を調べに来ていた学者たちのみが残念そうな表情を浮かべている。

 この流れからすると、恐らく隕石が降る光景を見ることは出来ないと、そう思ったのだろう。

 もっとも、そのように思っているのは学者たちだけなのだが。

 他の者たちにしてみれば、自分たちのいる場所のすぐ側で隕石を落とされるといったような真似は絶対にごめんだった。

 そんな学者たちに目を向けたのは、ローザ。

 ソフィアの視線が向けられてる傭兵たちに向け、ローザが口を開く。


「そこにいる人たちは、隕石が落ちてくるのを楽しみにしているみたいだし、戦ってあげたらどう? もっとも、そうなったときにどのような結果になるのかは、私には分からないけど」


 半ば挑発するようなその言葉は、だからこそ相手に与える衝撃は大きい。

 実際にはイオはまだ黎明の覇者の客人でしかないので、もし戦いを行うにしても、それに参加出来るかどうかは別の話なのだが。

 とはいえ、今回の一件にはイオも強くかかわっているのは間違いない以上、もし戦うということになれば間違いなくイオも参加するだろう。


「待て、待ってくれ。何度も言うようだが、こちらには黎明の覇者と敵対するつもりはない! そのような馬鹿なことを言ってるのは、こちらの中でも一部の者だけだ!」

「おい、お前は俺たちの隊長だろう! そんな奴が俺たちを見捨てるのか!?」


 黎明の覇者に不満を口にしていた男のその言葉に、隊長は当然といった様子で頷く。

 いや、それはむしろお前は何を言ってるんだ? と常識的なことが実は常識ではないといったように言われたかのような、そんな様子で。


「俺がお前の隊長であるのは間違いない。だが、お前はその隊長である俺の指示に従ったのか? 自分は俺の指示に従わないのに、自分の要望には応えて欲しいというのはどうかと思うぞ」

「ぐ……それは……」


 隊長の言葉に男は反論出来ない。

 今回の交渉の場において、隊長からは特に何も要望するつもりはないので、場を荒立てるなといったように前もって言われていたのは事実だ。

 隊長にしてみれば、黎明の覇者というランクA傭兵団を相手に不満を口にして、それで敵対するようなことになったらどうするのかと、そう思っていた。

 そして事実、今の自分たちはそれに近い状況になっているのだ。

 そうである以上、ここで今のような状況をもたらした相手を切り捨てる。

 それが現在の隊長にとって最善の手段なのは間違いない。

 不満を口にしていた男は言葉に詰まり、慌てて自分の周囲を……自分の意見に同意していた者たちに視線を向ける。

 だが、周囲にいる者たちは男から視線を逸らす。

 男の不利を理解し、このままでは自分も戦いに巻き込まれてしまうと思ったのだろう。

 何より隊長やその仲間を自分たちの側に引き込めなかったのは、大きな……まさに致命的なまでの被害だった。


「お、おい。どうしたんだよ? 何でそんな態度をしてるんだ? 約束を忘れたのか? 今なら……」

「約束? 何のことか、ちょっと分からないな」


 自分のすぐ近くにいた男にそう言われ……自分が見限られたと判断した男は、ショックを受けてその場に座り込むのだった。

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