第51話
ゾクリ、と。
馬車の中でその雄叫びを聞いたイオは背筋が冷たくなって動きを止める。
それはイオだけではなく、馬車に乗っている他の面々も多かれ少なかれ同様だった。
馬車を牽く馬はそんな中でも走っていたが、それは聞こえてきた雄叫びの主から少しでも早く離れる為に走っているかのような、半ば暴走に近い走り。
何かがいる。
それは餓狼の牙が喰い殺されていたことで分かってはいたものの、それでも雄叫びだけでここまで相手を怯えさせるような存在であるとは、この場にいる誰もが全く想像出来なかっただろう。
それでもこうして逃げていればと、そう思っていたのだが……そんな中で、ふと一人が口を開く。
「嘘……だろ……」
決して大きくない声。
だというのに、不思議なくらいにイオを含めて馬車に乗っている者の耳にはその声が聞こえてきた。
幸か不幸か、そんな声が聞こえたからこそ不思議と動かなかった身体も多少ではあるが動くようになる。
だが……それは決して幸福なことだけではない。
何故なら、声を発した者の視線の先を……山の木々をへし折りながら姿を現した存在を、その目で直接見ることになってしまったのだから。
「グガアアアア、グモオオオオオオオオオオオオオ!」
何だ、あれは。
それがイオの正直な感想だった。
四足の獣……どことなく牛をベースにしたモンスターのようにも思えるが、その木々よりも高い全高を持つその巨大さは、とてもではないが牛には見えない。
また、頭部からは角が生えており、身体中からは牛には存在しないような鋼のごとき体毛を持つ。
牙が生えているのも、普通の牛とは違うだろう。
牛をベースにしているモンスターであると納得は出来るのだが、同時にとてもではないが牛をベースにしているモンスターだとは思えないような、矛盾した感覚。
そして何よりも、まだかなりの距離があるというのに、殺気の類を感じるような能力のないイオでさえその存在からは圧倒的な気配……存在感とでも呼ぶべきものを察することが出来た。
「ベヒモス……だと……」
不意に聞こえてきたのは、一体誰の言葉だったのか。
そもそもの話、モンスター……ベヒモスの圧倒的な存在感に押し潰されそうなこの状況で口を開いたことが凄まじい。
ベヒモス? とイオは頭の中だけで呟く。
日本にいた時から多くの漫画を楽しむイオだっただけに、ベヒモスという名前は当然のように知っている。
言われてみれば、たしかにこの馬車を追ってくる巨大なモンスターはベヒモスというのが相応しいような姿をしていた。
「逃げろ、逃げろ、逃げろ! もっと速度を出すんだ! でないと……このままだと追い付かれるぞ!」
不意に馬車の中にいた一人が、追ってくるベヒモスを見ながら叫ぶ。
その言葉を聞いた者たちは、意表を突かれたように驚き……次の瞬間には息を呑む。
そう、ベヒモスは巨体であるにもかかわらず……いや、巨体だからこそか、その走る速度は速い。
馬車との差は少しずつではあるが確実に狭まってきていた。
馬車を牽く馬は、戦場に出ても興奮したりはせず冷静に行動出来る。
しかし今、そんな馬は普段の冷静さを完全に忘れたかのように、必死になって走っていた。
走り始めてから、まだそこまで時間は経っていない。
だというのに、すでに馬の口からは泡が浮かんでいた。
それだけベヒモスから発せられるプレッシャーは強烈なのだろう。
ベヒモスとはまだ十分に距離があり。馬車の中にいるのにろくに動くことが出来ないイオの様子がそれを示している。
「ベヒモス……って、一応聞くけど……どのくらいのランクのモンスターなんだ?」
自分の中にある怯えを何とかしようと、イオは半ば無理矢理口を動かして隣のレックスに尋ねる。
レックスもまたベヒモスの放つプレッシャーによって動きが鈍くなっていたものの、それでもイオよりは滑らかに口を動かす。
「ランクAですよ。モンスターの中でも最強格の一つと言ってもいいと思います。とてもじゃないですが、本来ならこんな場所で遭遇するような相手ではないです」
そう答えるレックスの口調は、間違いなく震えていた。
もっとも、ベヒモスのランクについて尋ねるイオもまた、十分に言葉が震えていたが。
「逃げられるのか?」
「……難しいでしょうね」
不可能ではなく難しいと言ったのが、レックスのせめてもの気遣いだろう。
イオもレックスのそんな言葉から、何となくその言葉の意味は予想出来た。
しかし、それは理解出来るものの、だからといって今は逃げるしかないのも事実。
「弓だ! ベヒモスが近付いてきたら弓を使え!」
別の馬車に乗っているルダイナの叫びが周囲に響き、イオの耳にも聞こえてきた。
そんな指示に、イオと同じ馬車に乗っている者たちは我に返ったように弓を手に取る。
また、矢も次々と手にし、ベヒモスが近付いてきたらすぐにでも射れるように準備する。
イオは弓を使ったことがないので、矢の準備に回った方がいいだろうと考える。
(弓で攻撃すれば、よけいにベヒモスの敵意を強めるだけになりそうだけど……本当に大丈夫なんだよな?)
そう思うも、ベヒモスは何故かイオたちの乗っている馬車をひたすらに狙ってきている。
もうベヒモスのいた山から随分と離れているが、それでもベヒモスは諦めるということを知らない。
弓で攻撃をしてもしなくても、結局のところベヒモスがイオたちの乗っている馬車を諦めるということをしない以上、少しでも相手の嫌がることをする必要があった。
あるいは……本当にもしかしたらだが、射られる矢を嫌がって馬車を諦めるかもしれないという希望もある。
もっとも、矢で攻撃されたことによって怒りを覚え、余計に馬車に固執するといった可能性の方が高いのかもしれないが。
「イオ、矢の補充について頼めるか? 馬車の中で出来るだけ多くの矢を射るとなると、迂闊に動ける余裕はない」
弓を構えた者の一人が、イオにそう言ってくる。
当然のように、イオはその言葉に頷く。
今は少しでも自分が生き延びる可能性を高くする必要があるというのは、イオも理解している。
「分かった。俺が出来ることは可能な限りやらせてもらう。その代わり、ベヒモスの相手は頼むぞ」
イオの言葉に、当然だと頷く。
今はこうして逃げているが、その距離は次第に近付いてきているのだ。
そうである以上、何としても弓で相手を牽制し、距離を開ける必要があった。
(というか、ゴブリンの軍勢よりもベヒモスの方が圧倒的に脅威だと思うんだが……何で今まで情報がなかったんだ? これだけの巨体なら、移動していればすぐにでも見つけられるだろ?)
イオがそんな風に考えている間にも、ベヒモスと馬車の距離は縮まっていく。
それでも、まだ誰も恐怖から矢を射るといったような真似をしないのは、黎明の覇者に所属している傭兵たちだけのことはあるのだろう。
だからといって、馬車の中が緊張していない訳でもないのだが。
馬車の中は、緊迫した空気という表現が相応しい様子になっている。
そして……
『放て!』
ベヒモスが馬車に十分追い付いてきたところで、ルダイナが叫ぶ。
同時に、全ての馬車から大量の矢が射られた。
イオが驚いたのは、その矢の大半がきちんとベヒモスに向かっていたことだろう。
以前聞いた話によると、今回の戦いに参加している者たちは大半が弓を専門に使っているという訳ではないはずだった。
だというのに、現在こうしてイオの視線の先では次々に矢がベヒモスに届いている。
……ただし、その矢がベヒモスに対して有効なのかどうかというのは、また話は別だったが。
見て分かるような、鋼のような頑丈な漆黒の体毛。
その体毛は見た目通りの強固さを持っているのか、射られた矢の大半を弾いていた。
偶然体毛の隙間を縫うようにベヒモスの皮膚に突き刺さった矢があっても、その矢は皮膚を切り裂くことすら出来ずに地面に落ちる。
「嘘だろ……」
あまりに常識外の頑丈さに、イオの口からはそんな声が漏れる。
しかし、矢を射る者たちはそんな光景を見ても特に驚いたりはしない。
この世界の住人として、ベヒモスについて多少なりとも知っているからこそだろう。
あるいは、少しずつ近付いて来るベヒモスに対する恐怖を抑え込むために、矢を射るという行為に集中しているだけか。
そういう意味では、直接ベヒモスを攻撃するといったような真似が出来ないイオが一番恐怖を覚えていてもおかしくはなかったのだが。
実際にイオは次第に近付いて来るベヒモスの存在に恐怖を覚えている。
だというのに、攻撃をする手段がなく、弓を使っている者たちに矢を渡すといったような真似しか出来ないのだ。
(今は何とかなる。きっと何とかなる。それに……そう、俺には流星魔法がある!)
そう思った瞬間、不思議なくらいにベヒモスから感じる恐怖は減る。
もちろん恐怖が減るとはいえ、それは完全になくなった訳ではない。
今も馬車を追ってくるベヒモスは、イオにとって恐怖すべき対象ではある。
それでも、本当にどうしようもなかったら……逃げ切るのが無理なら、どうにか出来る手段があるというのは、イオに自信をつけさせるには十分だった。
(とはいえ、流星魔法でベヒモスを倒せるのかといった問題はあるけど)
矢筒の中の矢がなくなってきた相手に、矢の入っている矢筒を渡し、空になった矢筒にはまた矢を詰める。
何人分もの矢の補充作業をしながら、イオは考える。
ゴブリンの軍勢に流星魔法を使ったとき、一撃で全滅させたのは間違いない。
だが、ゴブリンの軍勢の大半は普通のゴブリンで構成されていたのは間違いない。
上位種や希少種といった類もいたのは分かるが、それらにしてもゴブリンがベースだったのは間違いない。
それに比べると、現在自分たちを追ってきているベヒモスはゴブリンとは比べものにならないくらいの巨体を持つ。
そんなベヒモスを相手に流星魔法で対処出来るのか。
そんな疑問を抱きつつも、イオとにかく今は自分の行動に集中するのだった。
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