第36話
「美味い」
出された料理は、肉を蒸し焼きにして甘酸っぱいソースをかけた料理と、貝やエビ、魚といった魚介類を使ったスープ、焼きたてのパン、根菜を何らかのソースで和えたサラダといった料理だった。
お勧めの料理を頼んだので、こうして出て来た料理は料理人たちにとって十分に腕を振るった料理なのだろう。
イオはその料理を食べて出せた言葉は、数十秒の沈黙のあとに『美味い』というありきたりな言葉だけ。
だが、実際に出された料理はイオが今まで……日本にいたときに食べた料理を含めても、最高の味だったのは間違いない。
イオも家にいるときは友人や家族と美味いと評判の料理店に足を運んだりしたこともあったが、そのような場所で食べた料理と比べても目の前に並べられている料理は圧倒的に美味かった。
ウルフィに奢ってもらって酒場で食べた料理も美味かったが、この料理はそれと比べても……いや、奢ってくれたウルフィには悪いが、酒場の料理とは比べものにならないくらいの、まさに美味という表現が相応しい料理。
「英雄の宴亭は料理も自慢なのよ。私たちがここを借り切ったのは、料理が美味しいからというのも重要な要素の一つね」
正面に座っているローザの口から出た言葉は、イオを納得させるのに十分だった。
料理の味に完全に魅了されているものの、それはあくまでもイオだけだ。
ローザにとってここの料理は、美味いのは間違いないがイオほど驚くようなものではなかった。
イオと違って、このような美味い料理を今まで何度も食べてきからこそだろう。
(ランクA傭兵団なんだから、やっぱり貴族とかのパーティに招待されることもあるんだろうな。そういう意味では羨ましいけど)
イオにとっては生まれて初めて食べるような美味い料理を普通に味わっているローザを見て羨ましく思う。
そんなイオの視線に感じたのか、ワインで口の中をさっぱりさせたローザは笑みを浮かべる。
「言っておくけど、黎明の覇者に入ればこういう美味しい料理を食べる機会は多いわよ? ほら、周囲を見れば分かるでしょう?」
ローザに促されたイオは、改めて周囲の様子を見る。
食堂に入ってきたときはローザと腕を組んでいたイオに嫉妬の視線を向けていた者も多かったのだが、ある程度時間が経ったためか自分の食事に集中している者が多い。……中にはそれでもまだイオに嫉妬の視線を向けてくる者もいたが。
そんな周囲の様子を見ていたイオは、ローザの言葉が正しいのだと納得する。
食堂にいる傭兵たちは出された料理を美味そうに食べているものの、イオのように美味さのあまりに固まるといったようなことはない。
それはつまり、このくらいの料理は食べ慣れているということなのだろう。
羨ましい。
それが素直にイオの抱いた感想だった。
これだけの料理を毎日……とまではいかずとも頻繁に食べられるのなら、それは黎明の覇者という傭兵団のもつ大きな魅力の一つだろう。
「でも、この英雄の宴亭って高級宿なんですよね? そんな宿を借りきるとなれば、相当の値段がするんじゃないですか?」
「普通の人……いえ、その辺の傭兵団にとっては難しいでしょうね。けど、私たちはランクA傭兵団として、それなりに稼いでいるわ」
ここでローザがそれなりと口にしたのは、ある意味で謙遜なのだろう。
黎明の覇者が実際にどれだけ稼いでいるのかは、それこそ実際に補給を任されているローザが一番理解していたのだから。
特に今回のゴブリンの軍勢の一件では、一切戦うような真似はせずにゴブリンの魔石や素材、武器といった諸々を入手出来たのだから、かなりの儲けになるのは間違いない。
「黎明の覇者は、依頼を受けていない普段でもこういう宿に泊まってるんですか?」
今のローザとの会話でイオが気になったのは、そこだった。
現在のイオは自分がこれからどう行動するのかはまだ決めていない。
しかし、可能性としては黎明の覇者と一緒に行動することになるのでは? という思いがあるのも事実。
そうなった場合、宿泊料金をどうするのかといった問題があった。
黎明の覇者が泊まるような宿は、英雄の宴亭のような高級な宿の可能性が高い。
そのような場所にイオが泊まるのは、資金的に苦しい。
ゴブリン軍勢から入手した魔石や諸々については、黎明の覇者が他に売るよりも高く買い取ってくれるので資金的に余裕はある。
しかし資金的に余裕があるからといって、それを好き放題に使うといった真似は出来ない。
この辺り、貧乏性なイオの一面が出ていた。
「そうね。基本的には高級な宿に泊まることが多いわ。けど、別に何の理由もなくそうしてる訳じゃないのよ?」
「そうなんですか? いえまぁ、こういうしっかりした宿の方が安心出来るのは大きいですけど」
「そうね。それが大きいのは事実よ」
新鮮な野菜と果実のサラダを味わいつつ、ローザはイオの言葉に素直に頷く。
「安宿の場合、最悪店員が盗賊の一味という可能性もあるのよ。持ち物を盗む程度なら可愛いもので、場合によっては宿泊客に薬を盛って奴隷として売り飛ばしたりね」
「奴隷……ですか」
剣と魔法の世界につきものとはいえ、やはり奴隷はあるのかと納得するイオ。
とはいえ、奴隷は許せない! といったように思うこともない。
この辺も恐らく水晶によって精神を強化された影響なのだろう。
「ええ。だから安宿には泊まらない方がいいのよ。……ああ、もちろん全ての安宿がそういう風だという訳でもないわよ? きちんと新人の傭兵や冒険者が泊まれるように宿泊料金を安く設定している宿もあるし。……けど、まさか私たちがそういう宿に泊まる訳にもいかないでしょう?」
そう言われれば、イオも当然ながら頷くしかない。
傭兵や冒険者になったばかりの新人のための宿に、まさかランクA傭兵団が泊まるといったような真似をする訳にはいかないだろう。
「そうですね。そんな真似をすると、他の傭兵団からの視線が凄いことになりそうです」
「私が言うのもなんだけど、ランクA傭兵団というのは多くの傭兵にとっては憧れよ。それだけに、そのランクに相応しくないような行動というのは避けた方がいいわ。……とはいえ、中にはそんなのは全く関係なく好きなように暴れている者もいるけどね」
そう言いながら、ローザの表情は不愉快そうなものになる。
恐らくはそのような相手に対して思うところがあるのだろう。
だがイオが自分の顔を見ているのに気が付くと、すぐにその不愉快そうな色は消える。
「とにかく、高ランク傭兵団には高ランク傭兵団らしい悩みもあるのよ。そういう意味では、決して楽じゃないわ。……で、イオは何を聞きたいのかしら?」
「いえ、もし俺がローザさんたちと一緒に行動することになったら、俺も高級宿に泊まるようなことになるのかな、と思ったので」
「ああ、そのこと。それならイオ一人分くらいの宿代ならこっちで出すから、心配しなくてもいいわ」
「え? いいんですか? 俺は助かりますけど……」
イオにしてみれば、宿泊料金を黎明の覇者側が持ってくれるのは助かる。
この世界に来たばかりで、まだほとんど何も知らない状況である以上、それに甘えたいと思う気持ちは十分にあった。
しかし……だからといって、そこまで甘えてもいいのか? という思いがあるのも事実。
実際にはローザとしてはそうしてイオに便宜を図ることによって、なし崩し的にイオを黎明の覇者に所属させようという狙いがあったのだが。
そんなローザの狙いを読んだ訳ではないだろうが、イオは思いつきを口にする。
「たとえば、黎明の覇者と一緒の街や村にいても、俺はもっと別の安い宿に泊まるというのはどうでしょう?」
「それはお勧めしないわね。さっきも言ったけど、安宿というのは危険な場所も多いのよ。イオが強いのは分かるけど、それはあくまでも魔法使いとしてでしょ? 不意打ちをしてくるような相手とかには対処出来ない。違う?」
「それは……」
ローザの言葉は事実だとイオも理解出来るだけに、反論出来ない。
もし宿の従業員が先程ローザが言ったように盗賊であれば……あるいは従業員が盗賊ではなくても、安宿に泊まっている者の中には短気な者もいるだろう。そのような相手がイオを気にくわないと絡んでくる可能性は十分にあった。
そうなったときに、イオでは対処出来ない。
一応黒き蛇の傭兵と戦った経験はあるので、どうにか出来るかもしれないが。
「まさか、街中で魔法を使う訳にはいかないでしょう?」
ローザの言葉に、イオは何度も頷く。
街中で流星魔法を使えば、一体どれだけの被害が出るのか。
ましてや、自分に絡んで来た相手に対してメテオを使った場合、すぐ近くにいるイオもまた当然のように魔法に巻き込まれてしまうだろう。
それが分かっているだけに、イオとしては黎明の覇者と違う安宿に泊まるというのは却下するしかない。
あるいはイオが人当たりのいい性格をしていて、酔っ払いの相手も得意であれば問題は起きないかもしれないが……
(無理だな)
イオは自分でその考えを却下する。
レックスの件も日本にいたときならスルーしたいた可能性が高い。
しかし、実際にはイオはレックスに暴行していた黒き蛇の傭兵を止めるといったような真似をしていた。
イオが再びそういう場面に出くわせば口を挟む可能性は高い。
そのような行為をしている者にしてみれば、イオのそんな態度は面白くないと思うのは当然の話であり……そのような人物がイオに絡んでくるのもまた、当然だった。
特に酔っ払いの場合は理性よりも感情で行動する者が多い。
そうである以上、よけいにイオの態度を気にくわないと思ってもおかしくはなかった。
「そうですね。色々と思うことがない訳ではありませんけど、ローザさんたちと同じ場所に泊まった方が安全なのは間違いないと思います」
「なら、話はこれで決まりね。イオにとっても悪い話じゃないんだし、素直に私たちに甘えてくれもいいのよ。それに……イオがいれば、私たちもいざというときに安心だし。ただ、その辺を確認するためにも、一度イオの魔法をみたいんだけど……」
「目立つ、でしょうね」
イオの言葉にローザは困ったように笑みを浮かべるのだった。
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