「第5章 どうしようもない事」 (2)

(2)


 その日は、朝から重たい雲が太陽を隠して、冷たい雨が降っていた。


 巧は、そんな天気を物ともせずスタスタと駅へと向かう。何故かと言うと、彼は数学の課題の答え合わせが楽しみで仕方がなかったのだ。課題の出来には自信がある。二人が自分のノートを見たら驚くだろうか。数学が苦手教科なのは知られている。だからよくノートを見せてもらっていた。


 何よりも佐原はどんな反応をするだろう。驚くか、それとも悔しがるか。


 朝の教室の光景が目に浮かび、自然と歩くスピードが速くなる。


 意識的にはいつもの倍の速度で進んだ電車で大きな乗り換えのある駅に到着した巧は、地下鉄の改札を抜けてホームへと降りた。


 今日も大勢の乗客で賑わっており、皆の手には傘がある。傘から滴る雨のせいでホームは広く濡れていて密閉された地下の空気は淀んでいた。


 巧は既に形成されている列の最後尾に並んだ。多くの学生やサラリーマンが列を作り、地下鉄の到着を待っている。


 最後尾で今か今かと地下鉄を待っていると、次第にこれは一種の試練なのだと考え始めた。何かを楽しみにしている時に現れる時間の神様がもたらす試練。


 例えるなら誕生日の一週間前や夏休みを待っている時と同じである。


 教室で自分の広げたノートを羨望の眼差しで見る二人。


 数分後の未来を想像してつい口元が緩んでしまう。その事に急に恥ずかしくなり、慌てて咳払いで誤魔化した。


 咳払いをした反動で視線が僅かに揺れる。その時、上下する視界に想像の中で会っている佐原の姿があった。


 一瞬、視界に映った佐原に気付いた巧は顔を上げて、彼女の姿をよく探す。流石に振り返りはしないだろうが、それでも自分を見つけてくれないだろうかとつい願わずにはいられない。


 佐原は自分より三人分前に並んでいた。これでは気付かれるのは難しい。


 駅に着いた時に挨拶ぐらい出来ないものか。そして叶うなら一緒に登校出来たら……。願望的は止まらない。いかにして、彼女に気付いてもらうか。それしか考えられなかった。


 しかし巧は佐原がずっと隣に向かって親しげに話している事に気付く。


 相手は自分のような暗い人間ではない。クラスで女子グループと話しているのを何回も見ているし、この駅は沢山の乗り換えがある。予めそのグループと待ち合わせをしていても何にもおかしくない。知っている顔なのかと淡い好奇心から体をズラして確認しようとするが、丁度トレンチコート来た長身のサラリーマンに隠れて見えなかった。隣にも隙間なく列が伸びており、不用意に体を横にズラせない。これ以上ズレたら、列から出たと思われてしまう。


 巧は諦めて大人しく電車の到着を待った。


 毎朝流れているスピーカーからのアナウンスが聞こえて、地下鉄が到着する。開くドアから洪水のように降りる乗客がホームに寄せて、列が揺れた。そのお蔭で巧は、佐原の隣にいる人物を見る事が出来た。


 背中の筋を一瞬、何かが走った感覚がした。それはその人物のせいだ。


 佐原の隣にいたのは、悠木。


 衝撃の大きさに思わず体が固まってしまうが、後方から地下鉄に乗ろうとする乗客とぶつかって、すぐに現実へ戻る。


 現実に引き戻された巧は心臓の動悸を抑えつつ、進む列に従って車内へ入った。シートは即座に全部埋まり、各々つり革に手を掛けていたり、自分の立てる位置を見つけていた。いつもの満員状態、本来ならば座れなかった事を悔やむが今日に限っては、立っている方が都合が良かった。


 二人は、依然こちらに気付いおらずシートの中心に並んで座っていた。巧は二人に見つからないように乗客の壁を利用してドアに背中を預けて立っていた。その行動原理は自分でもハッキリ分からない。


 まだ遅刻はしないのだから、無理に乗らずに一本見逃しても良かった


 それなのにどうしてだろうか。


 今、二人と同じ車両にいる。


 地下鉄が静かに動き出す。巧はイヤホンを耳から外した。


 目を瞑り、余計なものを見ないようにした。その効果は充分で少なくとも一駅に着くまでは、いつもと変わらなかった。


 二駅目に到着して乗客の乗り入れが行われる。ホームから入る雨の匂いで目を開けた時、連動して今までオフにしていた感覚スイッチがオンになってしまった。そのせいで彼女の声が耳に入ってくる。


——それで、今日もやるの?


——やるよ。いつも通りに。


 二人の話し声。教室で何も感じないのに。車内で聞くと全身から拒絶反応が出て、口の奥が痒くなり手の先が震えた。


——私、毎回話しかけに行くの、結構面倒なんですけどー。それに正直言って不安なんだよね。


——不安? 勉強が? アイツ勉強は本当に出来るぞ?


——そうじゃなくて彼、私の顔を横目でチラチラ見てくるのよ。本人は気付かれてないつもりなんだろうけど、正直バレバレ。あの視線を我慢するの結構大変なんだよ?


 ため息混じりでそう話す佐原。


 彼女の言葉に悠木は、「あー」っと言って上を向き、頬を指で掻く。


——まあ、こっそり見るくらい許してやってくれよ。害はないんだし。


——あるよ、気持ち悪いじゃん。大体私は席が隣だから逃げられないんだからね。たまに授業中でも見てくるし、きっと今日も見てくるんだろうなぁ。あー、気持ち悪い。


 大げさに自身の体を抱きしめて震える佐原。


——向こうは、確実に佐原に惚れてるんだろうな。アイツ去年一人だっただろう? だから女子にちょっとでも優しくされたら、惚れちゃうんだよ。


——こっちは迷惑なんですけど。ねえ、どうしてこんな事しなくちゃいけないの? 勉強なら二人で出来るじゃない。


——しょうがないだろ? 田中に頼まれたんだから。流石に担任に呼び出されて頼まれたら断れねえよ。それにアイツと仲良くしておけば、俺達二人の内申も考慮してくれるらしいから。


——内申を良くしてくれるからって。そんなの誰か適当なのに押し付ければ良かったのに。


——報酬付きのボランティア活動だと思えばいいさ。でも、そんなに嫌なら今日は止めとくか? どうせアイツから話しかける事は出来ないから黙ってればいいし。


——ううん、頑張る。金曜日だし。だけど来週の月曜日は止めて。週初めの朝はゆっくりしたい。


——りょーかい。


 報酬付きのボランティア活動。


 その言葉は嫌にクリアに耳に入ってきた。


 しかし、担任の田中が発端だとは思わなかった。巧の頭に三十過ぎの元気が好物の男性教師の顔が浮かぶ。今の話を彼にも聞かせてやりたい。聞けば自分がした事の無意味さと愚かしさが分かるはずだ。


 思わず自虐的な笑みを浮かべた。


 自分の中に得体の知れないガスが溜まっているのを感じる。


 巧は下を向いて目を閉じて息を止めた。


すると、地下鉄がレールを走る振動が足から上がってきて、不安定な体を程良く刺激する。やがて、我慢の限界が訪れて空気を吐き出してから目を開いた。ゆっくりと呼吸を再開する。


 よし、リセット完了。


 体に溜まった澱んだ膿を排出した。と言ってもこれは応急処置。まだまだ残っている。


 少なくとも今日の学校生活は保つはずだ。


 そう確信して降りる駅に着くのを待った。


 最寄り駅を出てから学校に着くまで、巧は一度も振り返らない。あの二人は座っていた分、電車から降りるのが遅かった。だから確実に後ろにいる。


 どんな事があっても振り向かない。


 時間を計っているかのように素早くロッカーから必要な分の半分の量を取って、教室へと向かう。取ってきた荷物を引き出しに押し込めた時、二人が教室へと入って来た。


 並んで入って来なかったので、何か事情があるのかも知れない。そんな事を思いつつ巧は数学のノートを開き、一時間目の課題を確認する。


 今日一日、そこから先の事は巧は覚えていない。


 それは決して無意識ではなく、むしろ意識的に覚えないようにしていた。


 悠木とも佐原とも会話はした。数学の課題も見せ合った気もする。だが、自分は何を言って相手はどう返したのか。記憶は一切ない。


 記憶機能を停止していた脳が再び動き始めたのは、午後五時を過ぎた頃。


 帰りのホームに立ってからだった。

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