「第4章 取り残して進んで行く世界について」 (3)

(3)


 イエローブースターに頼らない方法として巧が考えたのは、沙代について、記録する事だった。


 その日、巧は一枚のルーズリーフに覚えている限り彼女の事を書き残した。


 外見、身長、髪の毛の長さ。声色の感じ、教室での態度。自分との距離、どう関わっていたか。記憶を掘り起こして、詳細に書き残していく。


 記録媒体にルーズリーフを選んだのは、授業中に書いても見つからない事と折り畳めばポケットに入る事から。


 一時間目から六時間目まで授業の時にはひたすら書き続けた。違う作業を内職していたからなのか、その日は映画の早送りのように授業が進み、あっと言う間に放課後になった。


 帰りの地下鉄の車内で、周囲に見覚えのある顔がないのを確認して、巧はブレザーのポケットから四つ折りにしたルーズリーフを取り出す。


 一日かけて出来たのは一枚のルーズリーフ。


 現在、覚えている沙代についての事は全て記載してある。時間の経過に連れて記憶が消えるのが怖かったので、内容が被るのは極力避けた。


 隙間なくびっしりと書かれた一人の女子の記録。事情を知らない人間に読まれたら、変態だと思われるのは確実な代物だ。これは誰にも見られてはいけないとつい、苦笑する。


 またこの作業を明日以降は続ける気はなかった。


 無理して作っても確実に項目が減るのは分かっている。消失自体は止められない。現に今日、沙代のルーズリーフを作成している段階ですら、空席に違和感を覚えなかった瞬間は、多々あったのだ。


そんな環境下で明日もやって今日より書けるとは思えない。取り出したルーズリーフを再びブレザーのポケットに入れて、巧は到着するまで目を瞑った。今日は授業以外の事に集中し過ぎて相当疲れている。


 それを示すかのように目を瞑った巧の意識はすんなりと落ちていった——。




 降りる駅に地下鉄が到着した時、大勢の乗客が立ち上がる足音で目を覚ました。まだ寝起きの重たい体を引きずるようにしてホームへ出る。誰も座っていないプラスチックのベンチはかなりの誘惑だったが、どうにか堪えて改札へと向かった。


 改札を出て乗り換える時になってもまだ、巧の眠気は覚めなかった。何とか次の電車に乗らなければと彼は余計な事は考えず、決められたプログラムのみ実行するロボットのように改札を通り、ホームへと出る。


 これ程までに抗いようのない疲労は久しぶりだった。


 受験勉強で徹夜をした時もこんな風にはならなかった気がする。今なら通り魔にナイフで胸を刺されたらあっさりと床に崩れてしまうだろう。大して入っていない財布を持ち去って行く犯人をコンクリートの固い地面に横になり薄れる視界で見つめるのだ。


 そんなあり得ない妄想で意識を保ちながら、電光掲示板で次に到着する電車を確認する。いつも乗っている特急が来るのは、あと五分後だった。


 大勢の乗客がホームに列を作っている。あれの最後尾に並ぶ五分は中々に辛そうだ。逆に反対側には既に車両が到着している。普段乗らない普通電車。特急の発車後に発車するので、今はドアを開けて沈黙を守っている。


 まだ車内に乗客の姿はまばらで、どこにでも座れる状態だった。そうなると選択肢は自然と決まってくる。巧は吸い寄せられるように普通電車に乗り、シートに腰を下ろした。


 自分を受け入れてくれる深緑のシート。これまで我慢していた眠気の波が一気に押し寄せる。巧は自然に下がる瞼を受け入れて、意識を落とした。


 目が覚めた時、巧を乗せた電車はどこかの駅に到着していた。ドアが開いて乗客が次々とホームへ降りる。誰もいなかった車内には大勢の人間が座っており、立っている客は座れるシートをずっと目で探していた。


 巧は振り返り、曇った窓の向こうにある駅名標を見る。


 そこに記載されていたのは、自分が降りる次の駅だった。


 寝過ごしたっ!


 反射的に巧は跳ね起き、まだ開いていたドアから滑るようにして、ホームへと出た。何人かの肩にぶつかり、怪訝な目を向けられたがどうせすぐに忘れられる。ホームに降りた巧はすぐに地下道を通り、反対側のホームへ向かった。


 一駅分、眠っていたのが良かったのか、頭はすっかりクリアになり風が当たって実に心地良かった。


 反対側のホームにまだ人は多くない。気の早い乗客はホームに列を作っているが、この駅は特急が止まらないので、次の電車はすぐに来ない。


 更に乗る区間は一駅なので並ぶ必要もない。巧はホームのベンチに腰を下ろす。プラスチック製のベンチはこの季節に相応しい冷たさで、誰も座っていなかった。腰を下ろした瞬間、洗礼とばかりに下半身から寒気が上がってくる。


 無意識に暖かさを求めて巧は両手をブレザーのポケットに入れた。


 その時、紙の感触が指先に当たった。


「んっ?」


 レシートとは紙質が違う。一体、何だろう?


 不思議に思った巧はポケットの中の紙を取り出す。それは四つ折りにされたルーズリーフだった。


 こんな所にルーズリーフを入れた記憶はない。


 誰かに入れられた? 可能性があるとしたら、学校ではなく(今日は体育がなかったから脱いでいない為)さっきまで眠っていた電車内。


 そこで完全に眠っていた自分のブレザーのポケットにルーズリーフを誰かが入れた? でもどうして?


 疑問を頭に浮かべながら、巧は四つ折りにされたルーズリーフを開く。


「なんだ、これ」


 ルーズリーフには隙間なく細かい字で一人の女子の特徴が書かれていた。


 容姿、声、仕草。これを書いた人物との繋がりまで詳細に書いてある。


 巧にはルーズリーフの人物に心当たりはない。


 気持ち悪い。その感情が一気に心を侵食してくる。


 あまりにも詳細に書かれていた為、途中で読むのを放棄して目を逸らした。


 ルーズルーフを持つ握力を緩めて、小さくため息を吐く。


 再びルーズリーフに視線を戻すと、信じられない事実を発見する。


 これ、俺の字だ……。


 毎日、ノートに書いている自分自身の字と全く同じ。筆跡を真似るぐらいでは説明がつかない程、完璧だった。


 先程より遥かに上の気持ち悪さが巧を襲う。胸もムカムカして、胃液が上がり吐き気に襲われた。隣に誰もいなくて良かったと現状に安堵する。


 一旦、整理しよう。口元に手を当てて、混乱気味の頭にそう提案した。


 シンプルに起きた事だけをまとめる。


 自分の筆跡で知らない女子の特徴と関わりが記載されたルーズリーフが、寝ている間にブレザーのポケットに入れられた。


 もしかすると誰かが今、この状況をどこからか見ている可能性や明日、別の何かを狙っている可能性があるのではないか。


 そう考えると、これは安易に捨てない方がいい。


 そこは充分に理解している。だからと言って、こんな気味の悪い物、平然と持ち続けていられるはずがない。様々な事が浮かんでは消えていく。


 冷たい風が頭を撫でる中、巧は手に持ったルーズリーフを見つめる。異常に汚く見えるそれにあまり触りたくなくて、端を摘むようにして持っていた。


 捨てるか、捨てないか。目を瞑り、それを考える。


 二つの選択は巧の頭の中でグルグルと螺旋を描き、答えを作らせない。


 テストよりも頭を働かせているのではないか。そんな事さえ思い始めた。 


 やがて、どうにか結論を出せた巧はゆっくりと目を開いた。


「ふう」


 視界を電光掲示板へ向ける。表示されている時間と駅に設置された時計の時刻は残り二分で重なる。席を確保しようと今もずっと並んでいる乗客達の苦労はようやく報われるらしい。


 彼らの最後尾に並ぼうと巧は立ち上がった。途中、ホーム隅にあるゴミ入れにルーズリーフを持っていた手を運ぶ。


 暗くて底が見えないゴミ入れの上まで手を伸ばして、それから離した。重力に従って、ルーズリーフはそのまま落ちていく。


 暗闇に吸い込まれていくのを見届けた後、巧は列に並んだ。


 得体の知れない物が離れた解放感が巧を包み込む。


 到着した普通電車に次々と乗客が乗り込んでいく。巧もそれに続いた。車内は暖房と人が多い事もあって、かなり暖かい。先に入った男子学生が早速マフラーを外していた。


 最後尾から電車に乗った為、座る場所なんて元からない巧は、閉まったドアに背中を預ける。


 電車が動きスピードが出始めるまでの僅かな時間。振り返り、ホームにあるゴミ入れに視線を向けた。


 一体、あれは何だったんだろうか。取り敢えず一週間は警戒するが何もなかったら早く忘れてしまおう。


 一先ずそう結論付けた巧は、離れていくゴミ入れを見ながらそう考えていたのだった。




 結果から言うと、一週間経っても何もなかった。


 それが二週間経ち、一ヶ月になり、そして一年が経過した。


 巧はもう、その日の出来事を完全に忘れていた。


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