「第4章 取り残して進んで行く世界について」 (2)
(2)
翌日、巧はいつものように学校へ登校する。
登校中、沙代の事はなるべく考えないようにして、いつも通りに登校していた。昨日と同じように父と短い会話をして、MDの再生のボタンを押す。これは一種の期待である。行動、言動を昨日に合わせれば、案外、彼女も昨日のように教室にいるのではないか。そんな意味もない期待があったのだ。
会ってしまえば昨日の話を全部解決出来る。
どうやって家に帰ったのか。何故、連絡が無かったのか。
聞きたい事、話したい事が山のようにある。
普段、学校で会話をする機会は多くない。だが、今日は別。なんだったら、沙代の机に自分から行って話しかけても構わない。
昇降口から入り、ロッカーから今日の授業に必要な物と上履きを用意する。
いつもなら何でもない一分で記憶から消えてしまいそうな動作が今日は、やけに意識してしまう。そのせいで取り出した教科書をバサバサと大量に落としてしまい、騒がしい昇降口の余計な注目を浴びた。
恥ずかしさから耳を赤く染めて、巧は早足で教室へと向かう。
階段を上がる途中でもまだ、沙代の姿は見えない。
焦るな。きっと教室にいるんだ。とにかく会って昨日の話をしないと。
ドアの前で深呼吸をしてから、緊張して中に入った。
教室に入り、自分の席に向かうよりも先に沙代の席を確認する。彼女の通学カバンは掛かっていなかった。
まだ来ていないのか。
空席の沙代の席を見て、そう判断した巧は自分の席へと向かう。
ロッカーから持って来た物を引き出しに入れて、今日の準備を進める。
一段落着いたところで、巧は黒板の上の時計に目を向けた。
始業時刻まで五分を切った。沙代はまだ来ない。
もしかして体調を悪くしてしまったのか。
昨日の寒さは確かに身に染みた。それに精神的にもかなり追い詰められたはず、体調を崩すのは充分に考えられる。
欠席だったら、ホームルームで担任の笹川が言う。慌てる事はない。
沙代の欠席は予想外だったが、それならそれで今出来る事だけをすべきだ。寝不足気味で不安定な思考回路をメンテナンスするように目を閉じて、腕を枕にして机に伏せる。
ざわざわとしている教室内で巧は意識を沈めた。瞼を閉じて真っ暗になった視界で大きく深呼吸する。これをするかしないかで、午前中の集中力が全然変わってくる。
メンテナンスは、チャイムが鳴り終了を告げた。
「……んっ」
校舎全体に響くチャイムに声を漏らして体を起こす。
既に生徒は全員着席していた。巧はすぐに振り、返り沙代の席を確認する。相変わらず空席だった。
どうやら本当に欠席するらしい。詳しい説明はこの後やって来る笹川が話してくれるだろう。
九時三分頃になってようやく笹川は現れた。
気怠そうな顔で教卓まで歩く。学級委員が起立を促し、全員が立ち上がった。いつものように朝の挨拶を交わして、笹川は淡々と連絡事項を伝えていく。
定期テストが始まるから気を抜かない事や風邪が流行っているから健康管理に気を付ける事、放課後になって繁華街を夜遅くまで出歩かない事。
生徒の士気を削ぐ独特な声で連絡事項を説明していく笹川。
巧は沙代の欠席連絡が行われるのを今か今かと待ち構えていた。それ以外の話はどうでもよくて全て聞き流していた程だ。
中々、笹川の口から沙代の欠席連絡は出ない。いい加減に説明をしないと、一時間目が始まってしまう。焦りと軽い苛立ちが生まれる中、巧は懸命に連絡を待っていた。
だが、どれだけ待っても沙代の欠席連絡は伝えられなかった。
最後の説明を終えると、笹川は「では以上」っとホームルームそのものを終了してしまったのだ。
重い足取りで笹川が面倒そうに教室を出て行く。誰も不審に思っていない。
ただ一人、巧だけが驚愕していた。
体の内側からカーッと嫌な熱が上がってくるのを感じる。どうして、誰も何も言わないんだ? 仮に友人達には予め欠席の事を伝えていても笹川が何も言わないのはおかしいじゃないか。誰もそう思わないのか。
普段からよく沙代と一緒にいるグループの方に目を向ける。彼女達は、巧の視線に気付かず、退屈そうな顔で一時間目の授業を準備をしていた。
その様子に昨日悠木が話していた事を思い出す。
沙代は裏で彼女達から陰口を言われている。
彼女達からしたら、沙代が休んだところで、別にどうでもいいと言う訳か。
これまで気付けなかった教室の雰囲気を感じてしまい、巧は嫌悪感を抱く。
巧は前の席にいる悠木の背中を軽く叩いた。
「何だよ?」
突然、自分が叩いたせいだろう。悠木は少々不機嫌な態度だった。
「ごめん。昨日お前と一緒に帰ったあの後、新城さんを追いかけてどうにか話せたんだけど、変なところで別れちゃったんだ。彼女の連絡先を知らないか。俺の携帯、調子悪くて登録してた連絡先が消えちゃったんだ」
イエローブースターやガスといった専門用語を省いて、事情を悠木に話す。彼なら今の説明で概要を把握してくれる。その自信があった。
しかし眉を潜めたままの悠木は首を傾げる。
「香月、悪いけど、お前が何を言っているか分からない」
「はあ?」
まさか悠木までそんな反応をするとは思っていなかったので、巧はつい声が出る。その声がまた大きかったせいで周囲の何人かがこちらに注目した。
「分からないって、どこが分からないんだよ」
「全部。そもそも、昨日一緒に帰った後って言ったけど、昨日はお前と一緒に帰ってないから」
「いや、駅のホームで偶然会って、途中まで一緒に帰ったじゃないか。そして電車の中で新城さんの事を教えてくれた」
忘れているだけなのかも知れない。その可能性は限りなくゼロに近いが、それでも巧はその可能性に賭けて昨日の話をする。
「だから、一緒に帰ってないって。第一、新城さんって誰だよ。何か勘違いしてるじゃないか、お前」
「……俺をからかってるのか?」
「からかう理由がない。もういいだろ? 朝から勘弁してくれ」
鬱陶しい。直接口には出さなくても悠木の目から、それが聞こえてきた。
巧がそれ以上、何も言えずにいると、小さくため息を吐いてから悠木は前を向いた。
一時間目、現国の教師である田口が教室に入って来た。
ホームルームと同じように学級委員が起立を促す。
全員がロボットのように速やかに立ち上がる中、巧は体が重く感じてすぐには立ち上がれなかった。一人立ち上がらない彼を田口が不審がる。
田口が巧の名前を呼んだ。その声に肩をピクッと反応させて顔を上げる。目が合うと体調が悪いのかと聞いてきた。
我に返った巧は謝罪して何とか立ち上がる。田口はこちらが問題はないと言えば、面倒を避ける為にそれ以上追及してこない。何事も無かったように挨拶を済ませて、授業を始める。
授業が始まり、周囲が一斉に教科書とノートを開く。
巧もそれに倣って同じ動作をする。彼に出来るのはそこまでだった。
開いたノートは授業中、一度も文字が書かれる事はなかった。
チャイムが鳴り、気付くと終わっていた一時間目。
二時間目との間の十分の休み時間。巧は迷わず、沙代の机に向かった。席の引き出しを覗き込む。
やはり中に何も入っていない。普通はロッカーに入れているから当然か。
中を確認した巧は、次に沙代の隣の席にいる女子に声をかける。彼女は携帯電話を触っていて、こちらが話しかけると露骨に嫌そうな顔を見せた。
「あの、隣の席の新城さん、今日休みの理由って何か聞いてる?」
「隣は元々空席だから」
「あっ……、ごめん。こっちの勘違いだった」
相手の反応ですぐに事情を察した巧は早口で謝って、自分の席へ戻る。
席に座り小さく息を吐く。両腕に鳥肌が立っていた。
下を向き、首を静かに横に振った。
隣の席が元々空席なんてあり得ない。だけど、あの女子が嘘をついているようとは思えない。そもそも彼女がいない事に誰一人、違和感を抱いていない。やはり、あの夜から沙代は消えてしまったのだ。
昨日の出来事が頭の中で再生される。決して、そんなつもりじゃなかった。あの時、自分は沙代を助ける為に無我夢中でイエローブースターを使った。
それがまさかこんな事になるなんて、想像すらしていなかった。
どうしてこんな事になってしまったのか。誰も覚えていないのでは、誰にも話せない。さっきの悠木と同じ反応をされて終わりだ。
巧がそう考えていると、彼の肩がトントンっと叩かれた。顔を上げると、立っていた悠木がこちらを見下ろしている。その表情は朝のように呆れているのではなく戸惑っていた。いや、彼だけではない。教室の生徒全員が立って彼と同じ顔で見下ろしていた。
一体、どうして皆立ってこちらを見ているのか。状況が分からず戸惑う巧に悠木が口を開く。
「どうした?」
「いや、えっ?」
「先生来てるぞ?」
正面を向くと、次の英語教師の高橋が教卓に立っていた。
いつの間にチャイムが鳴ったのか。気付かなかった巧は慌てて席から立ち上がる。教室内に自分の椅子が引かれる大きな音が響いた。
一時間目と同様に体調が悪いかと尋ねてくる高橋。それにまた謝罪して問題ないと答える。それを聞いてならいい彼が言い、学級委員の号令が終わると授業が始まる。
立ち上がった生徒が一斉に座る中、周囲から戸惑いの視線を巧は感じた。
当然だ、二回続けて同じ問答をしているのだ。普通ならココで誰かに本当に体調不良ではないかと心配されるだろう。
しかし、普段から接点らしい接点を持たないようにしている巧には、そのような事にはならない。唯一会話をする悠木を含めてだ。
授業は変わらず進んでいく。
せめて手を動かして気を紛らわそうと、今度はノートを真面目に取った。無論、授業内容そのものについては聞いていない。
ずっと考えているのは沙代の事。逸る気持ちを抑えて状況を整理していた。
このクラスの人間は沙代を完全に忘れている。百歩譲ってクラス全員が彼女に頼まれて自分を騙そうとしても、流石に教師までは巻き込めない。
席が丸ごと消えている訳でもなく空席になっているので、おそらくロッカーも中が空になっているだけ存在しているはずだ。
一つ飛ばしになるロッカーや教室の空席の位置、それらは明らかに不自然なのに誰も不信感を抱いていない。当たり前として受け入れられている。
とにかく、沙代が消えてしまった現状を詳しく把握し、元に戻す為の手掛かりを見つける。それが目下の巧の目的となった。
それからの授業は昨日と変わらずきちんと反応して立ち上がった。一度、そうするだけで周囲からの注目はいとも簡単に消え去った。
放課後、巧は夕焼けの中で一人、最寄り駅までの道のりを歩いていた。耳にイヤホンを入れているが、再生ボタンを押す気にはなれない。上から降り積もった疲れを地面に捨てるように頭を下にしていた。
今日、分かった事は四つ。
一、学校には沙代が在籍していた痕跡はなく、存在自体が消えていた。
二、席やロッカー同様、出席番号も飛んでいたが、誰も変に思っていない。
三、空席になった沙代の席に一切誰も近寄らない。
四、普段、沙代と話していた連中も彼女の話をしない。
「ふう〜」
巧は今日一日を振り返り、大きなため息を吐く。
予想はしていたが調べれば調べる程、沙代が学校から消えているのがハッキリしていた。その事にとてつもない罪悪感に襲われる。そこから逃げるようにして、今日はずっと彼女の痕跡を探していた。
そして何よりも驚いた事実がある。
それは、沙代がいなくてもクラスの雰囲気は何も変わらないという事。
空席が受け入れられている時点で、沙代が担当していた委員や係を誰かが代わりにやっているのは予測出来たし、実際その通りだった。
だが、そういった話ではなく、例えば普段から沙代と話している連中。
彼女達が昨日まで輪の中心にいた沙代が消えた事で無意識に疑問が生まれてそこに本人達が気付くのではと期待していた。
これは他の連中にも当てはまる。クラスの中心人物と言っても過言ではない沙代。その存在が消えれば、嫌でもおかしなところが生まれる。もしかしたら、そこから彼女を戻す糸口が見つかるのではないかとも考えていた。
しかし、現実は沙代がいなくても何も変わらない。
悠木が話していた通り、沙代はクラスの中心人物ではなかったようだ。
自分が気付かなかっただけで、沙代はこんな環境で毎日を過ごしていた事になる。
「そりゃガスも溜まるかもな……」
アスファルトに向けて放たれた巧の声は、そのまま吸収されて他の誰にも聞こえる事はなかった。
——翌日、昨日を超える衝撃が巧を襲った。
朝、登校して自身の席に向かう途中、視界の隅に沙代の空席が映る。
そこを巧は何とも思わなかった。 席に座り一日の用意をして、残りの自由時間を過ごそうと文庫本を取り出した時、脳に電気が走った。反射的に振り返り空席を見つめる。
あそこに座っていたのは、新城沙代。
一週間前まで確実に座っていた沙代の姿が脳裏に浮かぶ。心臓が大きく震える寒気に襲われた。湧き上がる吐き気に口元を押さえてトイレへと駆け込む。誰もいない洗面台の蛇口を捻った。
滲んだ銀色の蛇口から流れる流水を手ですくい、うがいをする。
四、五回それを繰り返して口内がすっかり冷たくなった。水を止めて正面を向き、鏡を見る。端に小さくヒビが入っている鏡に映っているのは、口元が濡れている自分の顔。その顔は誰が見ても明らかな程、酷く怯えていた。
今、僅かな時間ではあるが、沙代の存在を完全に忘れていた。そしてその事に何も違和感を抱かなかった。他のクラスメイトと同じようにあの席を元からある空席として受け入れていた。教室に入った時、偶然視界に映ったから、時間差で思い出せたのだろう。もし、あそこを見る事なく自分の席に座っていたら、どうなっていたか。
一歩間違えた先にある未来を想像して、両耳が熱くなる。
やはり、俺も例外ではないのか。
イエローブースターを使用して沙代を消した張本人。どこか安心していたのかも知れない。だが、今ので自分も例外ではないと理解した。
今後、また似たような事が起こるだろう。月日が経つとそれはきっと力を増して、やがては完全に忘れてしまうに違いない。
視線を右手に落とす。
そこには水で濡れた自分の手があった。
使うべきなのか。心に迷いが生まれる。
巧の迷いに反応して右手が自分の意思とは無関係に震え出す。顔を濡らしたばかりなのにもう頬が熱く感じた。苛立ちながら震えを押さえつけるように手を握りしめて首を左右に振る。
「ダメだ、使わない」
巧は、もうイエローブースターを信用していなかった。
あの夜を最後に一度も使用していない。確かにイエローブースターを使えば沙代を元に戻せるかも知れない。しかし、それはあくまで可能性。
可能性は良い方向だけに存在するとは限らない。当然、悪い方向にも存在する。例えば、イエローブースターを使って今よりも更に悪い状況になってしまう未来だって充分にあり得る。
奇跡なんて不安定で曖昧で、一切信用出来ない。
巧は、再度蛇口を捻って流れる冷水に右手を当てる。
冷やされていく自身の手を見つめて、巧は徐々に冷静さを取り戻す。
あんなものに頼らなくてもきっと方法はあるはずなんだ。
奇跡に頼らないと決意した巧は、気を引き締めて教室に戻るのだった。
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